父の事業は年々拡大をしていき、造林から植林、伐採までの今でいう一貫生産を完成。
その過程で発生する雑木をチップにしたり、ブナなどの木を全国でも最初に椎茸栽培に
利用するなど、今から思えば全く無駄のいない経営をしていたように思います。
私は小学時代には何気なく描いた絵が入選し、少し得に興味が芽生えていました。
叔父が倉敷にいたのでm大原美術館によく連れて行ってもらいいつの間にか大原の
絵は特に2階の絵の配列まで覚えていたほどでした。
しかし、日常は全く日本の田舎の子供そのもの。野山が遊び場で、おやつは山菜。
実りの秋には近所の子どもが集まって、毎日山に入りクリや柿などをとっていました。
冬は歩いて10分ほどでスキー場があり、毎日学校から帰るとスキーをしていました。
中学になると部活が忙しく、毎日部活に熱中していたのですが技術家庭の設計競技
で銀賞をもらったのです。幼いころの入選していた絵とこの賞が建築という言葉を
初めて意識した最初です。
それから高校に進学したころいとこが工業高校の建築科進み設計を描いているのを
見て、好きな絵では食っていけないかもしれないが、建築家なら好きな絵を描きながら
食いっぱぐれはないと考え建築家の夢が大きくなり、大学は建築学科に入学したのです。
→続く
