エスカレーター歩く奴、恐らく前戯なしで入れてくる。
皆さん、ども♪
ほんとは今日は時事やりたかったけど、
前回真田昌幸やるって言っちゃったから、それやるわ。
さて、この人物、切り口多すぎて、どこから話そうか悩む。
NHK大河ドラマ「どうする家康」の第35回「欲望の怪物」
での昌幸の場面、実に彼をよく表してると思った。
しかしながら、昌幸は、ただの欲望の塊ではない。
あの当時の大名の領地というものは、命に代えても守らねばならぬものであり、ましてや後に出るが、自ら切り取った沼田は、
断じて渡せない代物だった。
さて、信玄存命中は、東に武田、西に織田、南に今川、北に
上杉と、さらに後には東の雄、北条の中にあって、信濃の小県
で生き残った能力は並々ならぬものだったに違いない。
動員能力だけとっても、常に最大で2000~4000人しか
出せれない中で、万人を越える相手と戦をしてる。
でも考えてみると、元服以降、父の幸隆(武田24将の一人)や
偉大な信玄の元で最高の英才教育を受け、薫陶をもらったわけ
だから、最高の武将になるべくしてなったのは理解できる。
さて、ここで質問。
今話題の、我が君こと、徳川家康さん、生涯通して一度も勝てなかった武将が二人いる。
誰か?
信玄と今日のお題の真田昌幸の二人。
でもって、昌幸が家康のプランを変えざるを得なかった事柄を
話しよう。
自国の領土と家を守るためなら、主君に歯向かうことも、主君を変えることも厭わないくせものだった昌幸。
家康は昌幸に翻弄され続け、生涯苦しめられた。
さて、元来、真田氏の本拠地は信濃の小県
郡だが、兄の信綱は上野(群馬県)に進出していた。
昌幸はそれを継いだうえで、上野の沼田城を攻略した。
前述の例の沼田。
要するに、沼田は昌幸が「切り取ったもの」で、
彼にはそれを守り抜く自負があったのだが、この沼田は
その後、長く「火種」としてくすぶり続ける。
長くなるので、省きまくるけど、その火種はその後、
信長配下の滝川一益、その後
北条だの徳川だの秀吉まで絡んで揉めに揉める場所となる。
その間に、昌幸は北条と組んだり、徳川についたり、秀吉に次男
信繁を預けてすり寄ったりで、まぁ、よくもまぁここまでするわなって事やりまくる。
最後に堪忍袋の緒が切れた家康は、真田攻めを決意。
鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを小県郡に向かわせるが、上田城を落とせず、逆に城から打って出た真田勢に大敗してまう。
いわゆる第一次上田合戦。
この時、2000対7000。
敗戦を受けて家康の領国に動揺が広がり、家康は秀吉に頼るほかなくなったんだな。
秀吉からは、昌幸を家康の与力とするとお達しあったが、
多分これは家康が秀吉に要請したに違いないやろね。
抑えておきたかったからさ。ふふ
その後、秀吉の裁量で北条との領地交換で、北条氏政が上洛し、一件落着となるはずだったが、沼田城代が真田方の名胡桃
城を攻め落としてしまう。
これに秀吉が激怒。北条氏の征伐を決意。
小田原攻め、北条氏の滅亡、
そして家康の関東移封へとつながっていった。
これまでの展開はみな、真田昌幸があるところで妥協してれば、起きなかったことだともいえるよな。
歴史に「もしも」を言い出せばキリがないが、
あえていえば、昌幸がこれほど頑固でなければ、
家康が関東に移封になることもなく、
したがって江戸が関東の中心、ひいては日本の首都になることもなかったかもしれないな。
最後に関ケ原でも彼は大きな影響を与えてしまってる。
皆は東軍主力を上田で食い止め、それを決戦に合流させなかった
という事は知ってると思う。
秀忠が遅参した結果、家康はこの天下分け目の戦いを、
秀吉恩顧の武将たちを頼り、彼らに頼って戦わざるを得なくなった。
このため戦後、関ヶ原合戦を勝利に導いた東軍の豊臣系大名に、西軍から没収した領土のうち、約80%が加増としてあてがうしかなかった。
結果、日本全体の3分の2は外様大名が領有することになる。
家康はこの状況に不安を抱き、豊臣系大名たちによって
いずれ担がれる可能性が否定できない豊臣秀頼を滅ぼすことに
執念を燃やし、大坂の陣につながっていく。
そんな歴史のきっかけも、昌幸がつくっていたと
いえないだろか?
世の中の大多数である中小企業の諸君ッ、中小企業にも大企業に対抗するだけの技術力や開発力があれば、
傘下に入って庇護を受けるだけの
経営に頼る必要はないのだ。
そういう気概を持ってがんばろうじゃないか。
小粒の山椒はピリリと辛い。
今日はここまで。
じゃ、またね(^^♪