最初の方の武将紹介の意味のなさは一体・・・。
はい!と言う訳で、今週は
「黄巾の乱」
張り切っていくでゴザル!!
今後も使えそうな地図を拾ってきたので(すみませんお借りします)
この地図で黄巾軍との戦闘があった所を黄色で囲むと次の様になるでゴザル。
場所が分からなくなったら、↑の地図で確認してみると良いでゴザろう。
さて、準備が整った所でやっと黄巾の乱スタートでゴザル。
184年
太平道の教祖様張角は打倒漢王朝の挙兵のため
3月5日に洛陽を襲撃する準備として 馬元義を洛陽に送りこんでいたでゴザル。
彼は、朝廷の宦官を抱き込む準備を着々と進め、いよいよ実行しようとしたそのまさかの前日に
彼の部下である唐周が皇帝直属の宦官に密告!!
馬元義は直ちに逮捕され、翌日市場で車裂きの刑を受け死亡。
ちなみに・・・車裂きの刑とは
それぞれ罪人の四肢に馬車を繋いで一気に発進させて引き裂き、
人間の身体を2本の腕と2本の脚、そして胴体の合計5つに分解する刑でゴザル!!
キングダムで有名な秦の始皇帝・政。彼の母親の愛人である嫪毐がこの方法で処刑されているでゴザル。
彼は巨○の持ち主で・・・げふんげふん・・・ここから先はご自分で・・・。
何?何だって?たまにはこういうネタも入れないと誰も読んでくれねーよ(
話は逸れたでゴザルが
皇帝の霊帝は、この事が重大な事であると判断し
宮中の衛兵や民衆を調べさせ千人余りを誅殺し、張角捕縛の命を下したでゴザル。
一方で、腹心の馬元義をひどい方法で殺された教祖様張角は激おこ!!
3月5日を待つことなく、各地で一斉に蜂起させたでゴザル。
ヒャッハー!by黄巾軍
3月
荊州南陽にて張曼成が率いる南陽黄巾軍が蜂起!
自らを神上使を称し、宛に駐屯したでゴザル。
霊帝は何進を大将軍とし、洛陽を守らせたでゴザル。
盧植を張角がいる冀州方面へ
皇甫嵩と朱儁を豫州潁川方面へと、それぞれ黄巾の勢力が強い所へ派遣したでゴザル。
4月
朱儁、潁川にて波才と激突し敗走したでゴザル。
5月
皇甫嵩、朱儁は長社に篭城し、それを波才は大軍を持って包囲したでゴザル。
劣勢の中、皇甫嵩は火計を用いて波才軍を混乱させ、なんとか波才軍を敗走させたでゴザル。
そこにちょうど援軍に来た曹操と合流し、波才軍を追走、大敗させ陽翟において波才軍を
壊滅させ、皇甫嵩は北へ、朱儁は南へと進行したでゴザル。
6月
皇甫嵩、西華にて彭脱軍を壊滅させ、黄巾の別働隊を破った王允と共に豫州を平定したでゴザル。
冀州にて黄巾軍に連戦連勝した盧植軍は、張角が広宗に篭城するとそれを包囲し攻め落とそうと
していた矢先、派遣されてきた小黄門・左豐に賄賂を贈らなかったため
恨まれ讒言されて職を解かれてしまうでゴザル。
そして、その後任には董卓が派遣されたが、逆に黄巾軍に敗北したでゴザル。
一方、南陽では南陽太守に任命された秦頡が、南陽黄巾軍のリーダー張曼成を攻め
これに勝利し殺害に成功。しかし、南陽黄巾軍は趙弘を次のリーダーとし、宛城に籠城したでゴザル。
豫州を平定し終えた朱儁は荊州刺史・徐璆、秦頡と合流し宛城を包囲したでゴザル。
8月
宛城を包囲中に何者かが朱儁の更迭を進言しているという噂が流れる。
この事態を受け、朱儁は急遽攻撃を開始し趙弘を斬ったでゴザル。
趙弘を失った黄巾軍は韓忠を代わりに立て再び宛城に篭ったが
朱儁揮下の孫堅の活躍もあり宛城はついに落城。
しかし、その後も南陽黄巾軍は孫夏をリーダーとして抵抗を続けたでゴザル。
また、霊帝は豫州を平定したあと兗州東郡においてト己軍を打ち破った皇甫嵩を冀州に派遣するよう命じたでゴザル。
10月
皇甫嵩は広宗で、奇襲により黄巾軍を破り、張角の弟である張梁を斬ったでゴザル。
そしてこの時、実はすでに張角は病死しており、遺体は引きずり出され、晒される事になったでゴザル。
皇甫嵩はさらに曲陽にて、張角の弟である張宝を打ち破りこれを斬ったでゴザル。
これにより指導者を失った黄巾の乱は収束に向かうでゴザル。
南陽でも、朱儁が激しく抵抗を続けた孫夏をついに破り、南陽黄巾軍を壊滅させたでゴザル。
張角ら幹部が死去した後も乱の根本的原因である政治腐敗による民衆への苛政が改善されることはなく、黄巾軍の残党はこののちも広範な地域に跋扈し、反乱を繰り返したり、山賊行為や盗賊行為を行っていたでゴザル。
その中で小生が注目しておきたい点は、青州における黄巾軍と曹操との関係でゴザル。
青州は黄巾軍が大流行しており、青州の黄巾軍100万人が中国北部を大いに荒らしたが
曹操の討伐を受け、黄巾軍の兵30万人・非戦闘員100万人が曹操に降伏しているでゴザル。
曹操はこの黄巾軍の残党を中核戦力(青州兵)として再編した。
この青州兵は曹操のみに忠誠を尽くし、曹操が亡くなって文帝(曹丕)が即位すると皆故郷に帰ったと言われているでゴザル。
曹操は、黄巾軍がいなかったら、今後の活躍も無かったかもでゴザルな。
なかなか面白いポイントでゴザルよ。
ちなみに劉備はこの頃、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成。
黄巾の乱では、そこまで大きな成果は収めてはいないが
他の諸候には、一目置かれる存在にはなったでゴザル。
「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん」
かの有名な桃園の誓いがこの時、行われたでゴザル。
以上黄巾の乱でした!
次回は・・・今の所、何をやるか未定です!
更新も少し遅れます!
