木を見上げている。そしてその後川の流れを追う。不穏な鍵盤楽器の音とともに。ラブレスはこうして始まる。学校を終えたアリョーシャは、クラスメートと挨拶を交わすと、家路に着く。立ち入り禁止区域を歩きながら、どこかに巻きつけてあった紐を取って振り回す。そして、頭上の木の上に絡める。寄り道というには寂しすぎるひとりきりの荒涼たる歩みののち、アリョーシャは帰宅する。自分の部屋の机に向かう。窓の外で子供たちが戯れる景色が、しばらくすると霞んでくる。そして映像は眠たげなアリョーシャを正面から捉えたカットに切り替わる。もう、見飽きた長めなのだろう。家の中はアリョーシャの母親が、来客に間取りの説明をしている。今住んでいる住居を売却し、夫と正式に離婚し、愛人と新たな、幸福な生活を一刻も早くスタートしたいのだ。夫の方も例外ではない。若い恋人は妊娠している。ある夜、夫婦は何とかして息子であるアリョーシャを引き取らずに済むよう、互いに息子を押し付けるべく言い争う。ドアの向こうでアリョーシャが全て聞いているとは考えもせずに。夫婦が息子を「いかに愛していないか」激論する冒頭のこのシーンは、息子が聞いているとは知る由もない、と言うより、考えもしない、と述べるべきだろう。同じ家に今この瞬間も息子が生きていることを、夫婦は初めから考慮していない。二人の離婚の前提にあるのは、「離婚後に自分が幸福になること」のみなのだから、自分の呼吸を意識しない自然さで息子の存在を消し去っている。もしかしたら、この明らかな気に留めなさが、あの結末を解釈するためにズビャギンツェフ監督が観客に与えた材料のひとつなのかもしれない。

 

そして息子は消える。母ジェーニャは行方不明者の捜索を引き受けるボランティア団体に助けを求めるのだが、捜索チームのコーディネーターとなる男が夫婦からアリョーシャの特徴を聞き出すシーンは実に印象的だ。身長、年齢、最後に覚えている彼の服装、交友関係、趣味息子に関する質問がより個人的なものになるにつれ、母であるジェーニャは「たしか」という言葉を用いて答えるのだ。たしか仲が良いのは誰々だった、よく行く場所はたしかどこどこだ

 

森の中を探し回る捜索隊のひとりが、声を張り上げてアリョーシャ!と叫ぶ。その横で父ボリスは無言のまま傍観している。コーディネーターとの電話で、ジェーニャは私に出来ることは何か、と尋ねてしまう。彼らは、決して息子探しの主体にはならない。であればジェーニャがクライマックスで呆然とつぶやく息子のほくろの場所は、本当にそれを知っていたのだろうか。自分たちの責任によってあのような恐ろしい事態が発生したことを認めるのが恐ろしかったのかもしれない。

 

ともかく男と女は生き続ける。いなくなった息子の影が現在の彼らの生活ににじんでいるのか、それを直接的に示すような描写は無い。ただ、二人は幸せではない。新しい妻との間に生まれた赤子をかまってやるよりも、男はソファーにもたれてうつろな視線を漂わせるほうを選ぶ。女は、あれほどの愛を確かめ合った相手の腕に抱かれながらも、もはや笑顔は消えている。

 

ズビャギンツェフの言いたかったことは、これだったのかもしれない。すなわち、己の幸福のみを追求する人間こそ、最も幸福の実感を得られない人間なのかもしれないということを。