「おまえはだれだ おまえのなまえは おまえはどこだ おまえのいきかたは おまえはほんとうにおまえか おまえはだれだ おまえはだれだ…」


 書家・柿沼康二の作品「おまえはだれだ」の冒頭である。大きな半紙に書かれた言葉は苦悩に歪み、この作品を目にした時、言葉をなくした。心を飾っていた言葉がポロポロと落ちてゆくような感覚。芸術作品を前に、自分を偽ることはできないと思ったのは初めての経験だった。


 柿沼康二27歳。彼が渡ったニューヨークでこの作品は生まれた。個展を開くための渡米で、右も左もわからない中、彼は人に騙され、お金に困り、対人恐怖症で部屋にこもり、泣きながらこの書を書いたそうだ。自分が選んで来たはずなのに、毎日お酒を飲んで過ごす日々。一体自分は何のためにここにいるのか?


 誰もが一度は考え、求める自分の存在意義。そして、その答えを安易に得ようとする多くの人たち。何も行動を起こしていないのに、頭の中でこれは嫌だあれは駄目だこれも自分らしくないの食わず嫌いばかり。ローリスクローリターン。
 
 対象は何でいい、本気で物事に取り組んだ結果として現れる壁。それが本物だ。想像から生まれる壁は妄想癖ならぬ妄想壁に過ぎない。リアルな壁にぶつかり、悩み、苦しみ、もがき、再び挑戦する。そして、その壁を乗り越えた者だけに、追い求めていた答えが得られる。だから、本気で生きたい。簡単ではないけれど、今度「おまえはだれだ」を前にした時、「僕は僕だ!」と言いたいから。本気で生きる。

うわさには聞いていたけれど、東京の朝の通勤ラッシュは凄まじい。不機嫌そうなサラリーマンたちが、どう見てもスペースのない空間に尻を体をねじこませて、次々と電車に乗り込んでいく。発車時刻ぎりぎり、ドアが半分閉まりかけているのに、頭をつっこんでいく姿には感動すら覚えた。そうやって出来上がった人間押し寿司列車が、毎日毎日、何本も何本も、どこへともなく出荷されていく。


なんて他人事のようだが、自分も押し寿司の一部。狭い空間でまわりを見渡せば、朝から疲れきった表情付きのサラリーマンの多いこと多いこと。上京してまだ二週間しか経っていないというのに、恐怖が芽生えてきた。毎日ギュウギュウ押されることで、心までつぶれてしまうのではないかと。


そうなりたくないから、僕はどんなに混んでいても小さなスペースを作って本を読んでいる。ヘッドフォンをして音楽を聞いている。ギュウギュウ押されても、足を踏まれても、目の前のおっちゃんの頭が汚くても、心を別の世界に飛ばす。まわりの人間は完全に無視。


でも、ある日。ヘッドフォンからある曲が流れてきた。スムルースの『2050』だった。


「誰もが少しずつ歴史を作ってる ぽっくり逝くまで青春は続く」


ふっとこの歌詞が脳裏に響いて、本から視線を離した。まわりは相変わらず疲れた人ばかり。でも、彼ら彼女らは疲れていても、それぞれが各々の歴史を作っていて、青春に近い気持ちを持っているのだろうか、なんて思ったら、つい笑ってしまった。


でも、それはあながち間違っていないような気もする。夢、希望、願い、そんな類の大切な感情を忙しさのあまり忘れているだけで、きっかけがあれば思い出すような。こうして日記を書いていて、ふと思ったことがある。空を見ていないなぁ、って。オープンカーならぬオープントレインでも作って走らせたらいいのに、って考えてしまう僕は子供なんだろうか。


いつまでもふたりで 寄り添って生きてこうなんて 思っちゃいないさ 
ただ 今の暖かい幸せな時間を共有したいって思うだけ
形あるものは いつか 壊れるってよく言うけど
形ないものは いつか 消えてしまうんだ
愛情が色あせて 憎しみに変わるように
憎しみが薄れて 自己嫌悪に陥るように
不変なモノは存在しない
だから今を この瞬間を大切にしたい そう思うんだ

この日記を書く。なんて、ありふれたことを書きたいのではない。

ここ五日間、とてもバタバタしていた。というもの、就職が決まって、名古屋から東京へ引っ越すことになったから。しかも、内定から勤務開始まで、期間は10日しかない。

なので、アパート探しに東京郊外を歩き回って、東京で遊び、関東にある実家に帰り、再び名古屋に今日戻ってきわけなのだが、、、そんな名古屋行き新幹線の中、久々に爆睡した(笑)「お客さん終電ですよ~」リアルな声を聞いた。よだれをぬぐって、乱れた髪と顔を整えて、苦笑いして列車を降りたけど、久々に恥ずかしかった。そんな、久々だらけの一日だった。

今日、友達に会ったら言われた。「不安じゃないの?」って。

俺が次の仕事も決まらない内に会社を辞めたのにもかかわらず、明るくふるまっていたから、そんなことを訊いたんだと思う。

その時俺は笑顔で「焦ってもいいことないし、何とかする」って答えたけど、内心めちゃくちゃ不安(笑)先も見えない暗い森の中を彷徨ってるんじゃないか、って思う時もである。

でも、それ以上に恐かった。あの状態で生きていった時の自分がつまらない人間になりそうで、現状を変えたかった。


「くだらない大人になって気が付いた 誰だって何もしなくても年をとる」 (BOWL曲「蝉の声と茜色」より)


時間は限られていて、残り時間は誰にもわからない。映画なんて時間の無駄、仕事で疲れた合間の休日は家でダラダラ、やる前からわかったような口をきく、、、そんなくだらない大人にならないように、自分の感性を磨きながら生きていきたい。無職だから言えるわがままかもしれないけれど、そんなことをふと思った。どんな仕事を始めたとしても、忘れたくない感情であることには違いないけれどね。

俺はいま仕事を探している。そして、どこで働くか迷っている。


「仕事を選ぶということは、人生を選ぶということ」 (安田佳生著「仕事の選び方 人生の選び方」より)


どう生きたいのかが決まっていないのに、仕事を見つけることができるわけがない。そんなことも書いてあった。まったくだ。まだ3社しか面接を受けていないけれど、どれも志望動機が弱くて落ちた。収入やブランドだけを考えて受けていたのだから、当たり前の結果だ。大切なことは、選ぶ仕事を通じてどんな人間になっていきたいのか、ということ。

社会という汚水を飲むことができそうにない俺はどるなるのだろう。。。選択肢は二つしかない。汚水を飲める体質に自分を変えるか、汚水のない世界を探すか。汚い社会はない、と言われるかもしれない。それならば、そういう世界を自分で作るだけだ。大切なことはどう生きるか、だから。

 数学Ⅰの授業、俺は頬杖えをついて、窓の外を眺めていた。右耳で授業を、左耳で音楽を聴いていた。
「じゃあ、次の問題を片瀬」
 校庭を囲む広葉樹が色づき始めている。高校卒業まで、残り半年。言われたことを素直にやる者が評価され、自分を殺す者が優等生として扱われる高校生活に、実社会もこんなものなのか、と卒業後の進路をいまだ決めかねている。
(進路とかめんどくさいんだよな)
 そう思ったとき、左耳をスキマスイッチの歌詞が駆けぬけた。

「何をしても続かない子供の頃の僕は
    「これぞってモノ」って聞かれても答えに困っていた」

(まるで今の自分だな)
「おい、片瀬」
 校庭では白いTシャツ軍団が評価のためにサッカーボールを蹴りあっている。誰かがヒールキックを決めて、敵軍をひとり抜き去った。そのまま、次のディフェンスもかわし、三人目のディフェンダーと対峙したとき、俺は右肩を叩かれた。となりの女の子がためらいがちに黒板を指差している。前を向くと、高橋先生が俺を睨んでいた。
「お前の左耳はいつから黒くなったんだ?」
 失敗。肩を叩かれてつい右を向いたから、左耳が教壇から丸見えになってしまったのだ。

「生まれつきです」
 教室のどこかで笑いが起きた。
「ふざけるな! いくら勉強ができるからといって、授業を聞かなくていいことにはならないんだぞ。それをよこせ。没収する」
 高橋先生はつかつかと俺の机まで歩いてきて、右手をつきだした。素直にブルーのアイポッドを渡した。
「ちゃんと返して下さいよ」
 高橋先生は鼻で笑っただけで、俺の貴重な気分転換グッズを持ち去ってしまった。そして、彼は本来の自分の仕事に戻った。
 俺は再び頬杖をついて、外を眺める。白いTシャツ軍団のひとりが上半身裸になっていた。さっきヒールキックを決めた人と同じかどうかは知らないけど、バカな奴。
 ため息をついた。何もかもがくだらない。時計を見ると、数学の授業は残り三十分。引き出しから三島由紀夫の文庫本を取り出して、三十ページを開いた。何度も読み返している本だから、どこから読み始めても意味はわかる。

                                 ※

 
 放課後、俺は職員室に呼び出された。
「片瀬君はどうして、授業を聞かないの?」
 担任のひとみ先生が真剣な表情を俺に向けている。大学卒業後すぐにこの高校に赴任して、五年目の今年、初めて高三のクラスを受け持ったらしい。そこに俺のような生徒がいるなんて、ご愁傷様。
「くだらないから」
 彼女の一重の切れ長の目に挟まれた眉根がふいに歪んだ。俺はため息をついた。
「それ」
 俺は「何?」ってジェスチャーをした。
「そのため息、やめたほうがいいと思うけど」
「幸せが逃げるなんて、古臭いこと言わないで下さいよ。癖なんで、これ」
 今度はひとみ先生が重い息を吐き出そうとして、口を閉じた。そんな彼女の様子に俺はちょっとだけ笑った。
「もう帰りたいんで、アイポッドを返して下さい」
 ひとみ先生は、かゆくもない頭をかいている。
「あのね、そうじゃないでしょ?」
「そうじゃないって、何がそうじゃないんですか? アイポッドを返すために、俺を職員室に呼び出したんでしょ?」
「何がそんなに気に食わないの?」
 俺はまた、ため息をついた。アイポッドは二万。本気でアルバイトをすれば二日で稼げる、か。先生に背を向けて歩き始めた。
「ちょっと、どこに行くの?」
 ひとみ先生の呆れ半分、怒り半分の呼び声を無視して、職員室を出ていった。でも、すぐに肩を掴まれた。
「返してくれる気になりました?」
 ひとみ先生だと思って、俺は振り向きざまに口を開いた。
「勘違いするな。ちょっと、来い」
 進路指導の勅使河原だった。げじげじ眉にレスラー並の体格、角刈りの後頭部には円形のハゲがある。かなりめんどくさい相手だ。先生なんて敬称も省略。勅使河原は俺の細い腕をぎゅっとつかみ、引っ張り始めた。また、進路指導室に連れて行かれるらしい。
 俺は長く息を吐き出した。ため息の大安売り。それが聞こえたのか、勅使河原の掴む力が強くなった。
「ちゃんと行きますから、手を離してくださいよ」
 勅使河原は完全無視。力を緩めるどころか、ますます力をこめて引っ張っていく。バカヂカラハゲめ。敬称だけじゃなくて名前も却下。即席あだなで十分だ。
 進路指導室は職員室の奥、校長室と並んだ場所にある。職員室を通るとき、切実な表情を浮かべるひとみ先生が見えた。
(心が痛むのなら、自分で解決すればいいのに、どうして人に頼むんだろう?)
(手に負えないからだろうが)
 そんな心の問答に、俺は自嘲した。素直で従順な生徒のように振舞えばいいだけなのに、それがどうしてもできなかった。大人びた女友達はそんな俺を「馬鹿で無知な子供みたい」と言い、クラスメイトの牛乳瓶底めがねの秀才君は「君みたいな人間が戦争を引き起こしているんだ」と言った。それでも、俺は素直になれない。
 進路指導室の空気はいつも重い。部屋の両脇を占める棚に陳列した進路に関する分厚い本が睨んでいるせいだと思っているけど、もしかしたらバカヂカラハゲの吐き出す息に何か混じっているせいかもしれない。精神を病む毒じゃないことを俺は祈っている。
バカヂカラハゲは俺の腕を放すことなく、この部屋にある唯一の窓の近くに置かれた鉄製の机に座わった。ギシリと椅子が鳴いた。俺は立ったまま、窓の外の裏庭を見つめた。木々が風に揺られ、役目を終えた数枚の葉が空を飛んでいる。バカヂカラハゲと二人きり。うれしくもない。
「片瀬、ここに来るのは今年でいったい何回目だ?」
「先生のほうが詳しいでしょ」
 沈黙が舞い降りる。危険な兆候。俺は視線をバカヂカラハゲに向けた。脂ぎっただんご鼻以上にふくれた瞼の奥の目がギラギラしている。嫌な目だ。
「三十回目だぞ。半年で三十回。これをどう思う?」
「先生も暇なんですね」
 沈黙。と同時に俺は歯を食いしばった。続く沈黙。おかしい。いつもとは違う。
「もう、お前をはたくのは辞めた。意味がないからな」
 そう言って、バカヂカラハゲは分厚い手のひらで自分の頭をごしごしっとなでまわした。空中散布されるフケに俺は一歩下がった。
 力の誇示を辞めたと言って、バカヂカラからただのハゲになった彼は俺の行動を見て、ガラガラと笑った。
「お前は遠慮ってものを知らんなあ、まったく」
 笑顔でそう言われると、不気味な感じだ。
 ハゲは笑いを「ハア、ア」とため息交じりに終わらせると、ふいに立ち上がり、俺に背を向けて窓に近づいた。僕は身を固くする。ずんぐりしたシルエットが、静かに言葉を発した。
「なあ、片瀬」ハゲは返事を期待しているようだったが、俺は沈黙を通した。
「俺はもう三十だ」
 また、三十か。
「人生はあっという間かもしれん。片瀬、本は好きか?」
 ずんぐりむっくりハゲと本。この世で一番おそろしい組み合わせかもしれない。居心地の悪い静かな時間が流れる。何も答えない俺に、ハゲはもう一度聞いてきた。
「本は好きか?」
「まあ」
 僕は小さな声で答えた。
「まあ、って。好きなら、好きと言え。片瀬が授業中によく本を読んでいるのは知っているんだ」
(なら、聞くなよ)
 とは思ってけど、口にはしなかった。
「寺山修司は読むか?」
「いえ」
「彼の言葉でな、こういう言葉がある。『すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど、前進しない』」
「扇風機が前進したら、恐くないですか?」
 裏庭から焼却炉に行くのだろう、窓の外にごみ袋を手にした女子高生が映った。白いイヤフォンをして、歩いている。
(そうだ、アイポッドを返してもらわないと)
「それだけか?」
「何がですか?」
「だから、言葉を聞いた感想が”扇風機が動いたら恐い”ってだけか?」
 俺はため息をついた。癖を直すのは大変なことだ。
「俺みたいに勉強ができて、口ばかり達者でひねくれたことばかり言っていると、ろくな人間にならない」俺は一息ついてから続けた。「そう言いたいんですか? せんせ」
 窓の外を見ていたハゲが俺の方を向いた。光の影に隠れて表情が見えないけれど、心の憤りが見える。バカヂカラハゲ復活か。
 てのひらを握りしめながら、ハゲが近づいてきた。右フックか、ボディブローか。俺は体に力を入れて、待った。でも、ハゲは俺を通り越した。
「帰れ」
 ハゲは進路指導室の扉を開けて立っている。
「アイポッドを返し…」
「帰れと言ってるのが聞こえないのか!」
 職員室にいる先生たちの視線が煩わしくて、俺は俯きながら扉に向かった。そして、ハゲの横を通った時、静かな声が降ってきた。
「大人をなめるな」
 進路指導室は俺を吐き出し、扉がすうっと閉まった。曇りガラス越しの黒い影からは言いえぬ寂しさが漂っているような気がした。どう考えても俺が悪い。素直に謝って、アイポッドを返してもらえば、それが一番スマートだ。けれど、どうしても素直になれない。俺はやり場の無い複雑な気持ちのまま職員室を去った。 (もし続きが読みたい人がいたら、教えて下さい。この小説を書き続けます☆)