「すかいらーくの栄枯盛衰」
すかいらーくは四十年近くも外食産業に王者として君臨してきた。その創業家である横川四兄弟の三男、きわむ氏の半生は外食の歴史そのものである。彼の回帰を通じて、外食産業の軌跡を追った。
「「月間食堂」主催の米国研修に行ったんですよ。金がなかったから月賦でね。米国には豊かさがあった。マクドナルド、デニーズ、ライオンズ、ビッグボーイ。青空の下にきれいな建物。店員もニコニコ笑ってね。とにかく全てが美しかった。」
ここで受けた衝撃が、わが国最初のファミリーレストランであり、外食産業の先頭を常に走る事になる「すかいらーく」創業のきっかけとなった。
「帰ったのが1969年12月。それで70年の7月4日には一号店をオープンさせた。すぐに土地を買ってデザインを頼んで突貫工事。ファサードをオレンジにしたのは、ライオンズの店からヒントを得た。最初はコーヒーショップレストランだったんですよ。」
当時の外食経営者達には「絶対に売れない」と言われた。そのとおり、最初から順風万帆とは行かなかった。客足は昼時はちらほら、夜は一人も来ない日が続いた。なにしろ「店は国立の高速の入り口にあったけど、あの頃は高速に車が走っていないんだから(笑)。あたり一面ムギ畑だった」というほどの田舎だった。
「毎日夜十一時まで店の”窓際”でコーヒーを飲んでいた。オープン前から経営していた店のレジの子を連れてね」外から見て客がいるように見せるための苦心。だが、サクラまで使った甲斐があって、だんだんと客が入り始めた。
創業時飲食店は「水商売」といわれた。家族が楽しめる、安くておいしいレストランは日本にはなかった。すかいらーく創業四兄弟が目指したのは、まさしく「ファミリーレストラン」だった。
だからこそメニュー開発にはこだわった。当時、六本木でしか食べられなかったピザをを出し、ミックスフライ、数々のセットメニューを考案した。現在でこそファミレスでは定番の売れ筋商品だが、全てはすかいらーくから始まったものである。
オペレーションにも気を配った。「三十分待たなければ料理が出てこない時代に十分で出す事を目指していた」。ちなみに一号店を出す前から、スピードアップと味に均質化を図る為にセントラルキッチンを建設する事を決めていたと言う。
しかし、工場を建設する金等なかった。余った金は全て次の出店に使っていたからだ。
「何処へだす、いつだす、金はあるか。この三つだけを考えていた。不振店は三00店までゼロだった。全ての店は黒字になった。当時は不振店なんて言葉自体が存在しなかったんです」
売上高十八億円の時代に、銀行団に談判して十七億五000万円を借り入れ、77年12月東村山工場の建設に踏み切った。まさに勢いと言うものだろう。
「若さと度胸だけはあったなあ」と往時を懐かしむ。
日本の高度経済成長と寄り添うようにして、すかいらーくは無人の野を行くがごとき快進撃を続けた。外食産業は毎年一兆円ずつ伸びていった。
新業態開発の成功率は長嶋の打率といい勝負
四十年近くの長きにわたって外食産業の王者として君臨してきた原動力は「新業態開発」である。
「失敗しても何度もトライした。外食文化を作りたかったから。人はその日の気分や一緒に行く人によって店を使い分ける。ファミレスだけ発展させていても外食文化は作れない」
現在では、すかいらーく、ジョナサン、ガスト、藍屋、バーミヤン等、二十六業態が残っているが、創業から数えれば約一00業態を開発したという。
「残るのは、いいところ三割」。長嶋茂雄の打率といい勝負だと言われてきた。しかし、外食の世界で四十年間、三割の通算打率をたたき出すことは、おそらくプロ野球より難しい。
それを可能にしたのは、社内にみなぎっていた若さであり、活気だったのであろう。社員に対する投資は惜しまなかった。当時の社員もあいだで有名な話がある。72年から77年前後まで、ボーナスは必ず”立った”と言う。つまり一00万円以上支給していた。
「その位給料を高くしないと人を採用出来なかった。うちはほかよりも一000~二000円は多く出していた」
外食が提供する価値が変わった
当時は三年も持たないといわれていたにもかかわらず、気がつけばファミレスは何十年も同じものを売ってきた。
しかし、次第にその勢いは衰えてくる。時代に追いつけなくなってきたのだ。
少子高齢化が進み、家族に必要とされる楽しみも変わっている。車に乗って郊外のファミレスに行くことに、価値がなくなってしまった。レストランで生まれるコミニュケーションは、今では携帯電話やメールに取って代わられている。
四兄弟も年をとり、すかいらーくも年をとった。業態開発のペースも鈍り、野球になぞらえれば打席にすら立てずベンチを温めることも増えた。
2003年、四兄弟は揃って取締役を辞任。一つの時代が終わったかに思えたが、2006年会長兼CEO(最高経営責任者)に返り咲く。会長復帰の三ヶ月後には、野村プリンシパル・ファイナンスとCVCキャピタルパートナーズの資本を頼ってMBO(経営陣による買収)に踏み切った。そして昨年八月、横川(当時は社長)は業績不振の責任を問われて、野村プリンシパル、CVCの大株主二社に解任される。四十年近く、すかいらーくに、外食という産業そのものの区切りともいえるだろう。
外食市場が縮小する現在、業界内では再編が頻発している。M&Aによる規模を追い求める企業も目立つが、「単純に規模を追い求めるのは正解だとは言い切れない。今度は再編ではなく淘汰の時代。これからは倒産するレストランが沢山でてくるだろう。手遅れの業態を再編しても立ち直る事は無理だ」。
現在の肩書きは「きわむ元気塾 塾長」。外食関係のコンサルティングをやるつもりでいるようだ。「今後の外食産業に必要なものはマーチャンダイジング力。これがなければ安くてうまい料理は出せない」。
もう一度、外食産業を創業するつもりはないのか?「それは、まだ考えていないんですよね」という答えが返ってきた。齢七一歳。まったく考えていない、ということでは、どうやらないらしい。
「上場外食今期決算ベストランキング」
外食で元気のある企業の分析を通じて導き出される「生き残る外食」のキーワードは四つ。
「低価格」、「ファーストフード」、「都市部出店」、「最低でも五00億以上の売上高規模」といった所だろうか。
その他の企業でも元気な企業はあるが、新規出店により一見業績が良くても新規出店が止まれば業績拡大も止まる危うさを常にはらむ企業である。
お客様、従業員の事を本気で考えている企業で業績を伸ばしている会社てないのかな?と思う。
業績が良くて、給料が良ければそれでいいの・・・














