喫茶店に置いてあった雑誌にこんな文章が載っていた。
あるときウサギが山中で、疲れて死にそうになっている老人に
出会った。何とかして助けたいと考えたが、いい方法が見つからない。
困ったウサギは自らの身を火に投じて老人の食べ物になることにした。
老人は神だった。
神はこころに感じて、ウサギを月に上げた。だから今でも月に
ウサギが住んでいる。
仏教説話にあるが、遠く離れたメキシコにも、同じ話があるという。人類は
月を見ると同じようなことを考えてしまうらしい。
言語学者の書いた文章ということだが、味も素っ気もなく
内容をそのまま伝聞したという感じだ。
だが、そのエピソード自体はウサギらしい。
ウサギの目を見ても何も分からないという人もいる。
いつも同じで変化がまるでないとか、感情がない
象徴のように揶揄する者もいる。
それはウサギと暮らしてみるとただの観察力不足であることが
直ちに分かる。目は口ほどのものを言う、の例えにあるように、
あるいはそれ以上に彼ら、彼女らの目は正直に
今の気持ちを反映するものだ。
犬や猫のように吠えたり鳴いたりしない分、
誰にでも容易に判別はできないかもしれない。
だけれども、心を通わせようと願う者には、
ウサギは優しい。
人のように、まるで何かの冗談でもあるかのように裏切らず、
信じてくれる者に対して、全身全霊で真摯な好意を寄せてくれる。
それは前述した神とのエピソードを超えて比類ない。
さて、僕のウサギは月にいるのだろうか、
とんでもない。それは神を救ったウサギであって
僕と共に過ごしたウサギではない。
彼ら彼女らは自らが願うとおり、
大切にしてくれた人をゆめゆめ忘れたりはしない。
僕にしてもまたそうであるから。