アパートを眺めながら、過去の光景が彼女の頭を過ぎった。あれは丁度一年前だった。微弱な雨の降る、灰色の空の下、二階建ての小さなこのアパートの一室から泣きながら千恵が出てきた光景だ。危なげな足取りで階段を降りてくる千恵が心配で彼女は階段の下まで行き、降りきった千恵を慰めた記憶がある。まだ此処に住んでいるんだ、と彼女は改めて感じた。
そんな事を考えていながら、アパートを眺めていると二階の左端の扉が開いた。一年前とは違う、程よく冷たい風がふく晴天の空の下、何が楽しいのか、一年前とは違い笑顔の千恵が出てきた。軽快な足取りで階段を駆け下り、彼女の乗る、黒いバンの助手席のドアを開け座った。スウェット生地の灰色のPコートを脱ぎ、後部座席に投げた。
「ごめん愛美。ちょい遅くなった」 シートベルトをしめながら千恵はそう言った。
「いいよ。てか、何か楽しいことあったの?」
愛美(まなみ)はそう微笑みながら返事をし、音楽の音量を下げた。
「別に、無いよ。愛美とデートだから嬉しいけど」
「ほおー」
照れ笑いをしながら、大きな声でそう返事をした。そして車を発進させた。車内に広がるお決まりのアロマの香りを楽しみながら、音楽を感じながら、運転を行う。この場にくる時よりも、隣に千恵が乗っているために、丁寧に運転をこなし、時折、隣に座る千恵の様子を窺う。
千恵は窓から外を眺めていた。様々な風景の色が瞬時に視界に飛び込んでくる。その様子はまるで移り変わる絵のような、移り変わる人の気持ちのようなものである。住宅街を抜け出すと、景色の流れが遅くなり、歩く人々や、建築物、対向車線の運転手の顔でさえ見て取れる。千恵は見慣れた風景が違って見えた。殺伐としていた頃は感じなかった風景の表情、人々の表情、友人の有り難さ。昔と何一つ変わらない風景が全く違う世界に見える。
「てか、千恵さ、聞いてよ」
「うん?」
いつもの切り出し方で愛美が話を始めた。千恵はハンドルを握る愛美の横顔を見る。
「昨日さ、おっさんの誕生日だったんだけどさ、何かさ、適当に腕時計プレゼントしてあげたら泣いたんだけどー」
「いい話じゃん、お父さん嬉しかったんじゃない?」 笑いながら話す愛美にそう千恵は言い返した。
「でさ、ピンクの皮の腕時計だったから、おっさんさ『若い男ならつけれるかもしれないけど、俺はおじさんだからなあ』とか言ったんだよー」
「確かにおじさんでピンクの時計してる人あんま見たことない」
「でもさ、可愛いと思ったから買ったんだって言ったら、腕時計つけて出かけたよ」
「娘がプレゼントくれたらつけるでしょー」
「でもさ、滅茶苦茶似合わない、よね」 愛美の脳裏にはお洒落に無頓着な服装をしたやや太った父親の姿が過ぎる。
「確かに、あのお父さんじゃね」
二人はほぼ同時にふき出すように笑い出した。車内には二人の笑い声が響き渡った。時折、話しては笑いながら、愛美の指定した目的地へと向かって行った。
車を走らせること一時間。都内某所のレストラン『CONSTANT』に到着した。
駐車場は、ほぼ空きが無く、建物から一番遠い場所の一カ所のみが空いていた為にそこに停車した。レストランは洋風の建物で、橙がかった茶色の外壁は煉瓦のようだが、実際は偽物だ。丸い窓の外枠には、黒い波打つような青銅の装飾が施されている。入り口のドアの上の、楕円形の茶色の看板に黒い文字で『洋食レストランCONSTANT』と英語部分は筆記体で書かれている。
周囲は大通りから奥に入った場所である為に、車通りはあまり多くはない。周りに店は無く、孤立したような場所、一見目立たない場所だが、静かな面持ちのこの空間は常に人気があり、客足が絶えることは無い。所謂、知る人ぞ知る名店というものだ。
二人は店内に入り、ホールスタッフの案内で窓際の席についた。柔らかい薄い橙色の光をふらせる照明が落ち着いた店内を演出する。客の年齢層は二人にくらべるとやや高く、三十代から、といった感じだ。金銭的に余裕の出てくる世代が主な客層だ。
白いテーブルクロスのひかれた円形のテーブルに肘をつき、頬杖をつきながら千恵は辺りをきょろきょろと見渡した。「場違いかな……」 千恵は思わずそうこぼし、苦笑いをした。
愛美も辺りを見渡しながら、千恵の言葉に何度か頷くが、全く気にしない様子で椅子の背もたれにどっしりと背中を預けた。
「若者、お断りとかないし、気にしないー」
そう言いながら、テーブルの上に置かれたメニュー表を開いた。千恵もつられるようにメニュー表を開き、目を大きくしながら苦笑いをした。
「ファミレスより、滅茶苦茶高いし」
「大丈夫ー」
「愛美は大丈夫でも、私大丈夫じゃないし」
「実は、おっさんにさあ、友達と遊び行くっていったら金くれたんだよねー」 愛美は上機嫌そうにさらに加えた。「だから、千恵のぶんも払ってあげる」
「え! マジで? さすが、愛美のお父さん」 千恵はやや大きな声を出したことに恥ずかしくなり周囲を見渡すが、周りの客は気にしていない様子だ。