以前、

 

 

「究極のデュエット」

 

 

というブログで、2曲ほど紹介したことがあったんだけど

 

 

大切な曲を忘れてた!

 

 

マーヴィン・ゲイとタミー・テレルのデュエット

 

 

「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」です。

 

 

 

 

 

マーヴィン。

 

 

幸せそうだなぁ。

 

 

だけど、この数年後

 

 

デュエット相手のタミー・テレルは脳腫瘍でなくなっちゃうんですよね。

 

 

そして、ショックから立ち直るまで

 

 

長い時間がかかってしまいます。

 

 

だけどこのブランクが

 

 

のちの傑作アルバム

 

 

「ホワッツ・ゴーイン・オン」の発表につながるんですね。

 

 

以前にも記事にしたけれど

 

 

実の父親に銃殺されるまで

 

 

マーヴィンの一生は栄光と挫折の繰り返しでした。

僕の出身大学は

 

 

鹿児島大学なんだけど、

 

 

1年の頃は邦楽部に入ってました。

 

 

パートは三味線(三弦)。

 

 

だいぶ昔の話なので

 

 

演奏はできないけれど

 

 

今でも、なんとか音は出せるかな?

 

 

(実は、琴、尺八、三味線のうち

 

 

一番、音を出すのが難しいのは三味線だと言われています。)

 

 

邦楽にもいろいろ名曲はあるんですが、

 

 

西洋音楽に慣れた耳にも聴きやすい曲は

 

 

やっぱり下の曲だと思います。

 

 

日本音楽集団の

 

 

「飛騨に寄せる三つのバラード」です。

 

 

 

 

 

とても綺麗な曲ですよね。

 

 

 

 

 

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おそらく、世間一般では知られていないと思うんですが、世の中には2種類の「作曲家」がいます。


本書で取り上げられている「職業作曲家」と、「芸術家タイプの作曲家」です。
 

(当然のことですが、実際にはグレー・ゾーンがあります)



「職業作曲家」は、音楽理論などのテクニックやノウハウを駆使して曲を作り込みます。
 

それに対し後者は、曲のイメージやサウンドが突然アタマにひらめくタイプです。
 

インスピレーションに従うだけであって、「さあ、曲を作ろう」と思って作曲する・できるワケではないのです。
 

「芸術家タイプの作曲家」は、それまでにない自由なメロディ・ラインやサウンドを提示するのに対し、「職業作曲家」の作る楽曲は、どうしても既存の音楽の延長線上にある曲がほとんどになります。



音楽というものは、本来、リスナーの感性や感情に訴えかけるような精神的「芸術作品」(オーバーですが)であって「商品」ではありません。
 

残念ながら日本では、この本に書かれているように、ベルトコンベアー方式で「音楽」という名の「商品」が量産されています。
 

日本の音楽業界では、効率的に納期を守って、ボツにしても気にせず次から次にコンペに新曲を提出してくれる「職業作家」が断然、重宝されるんです。
 

ある意味「ブラック企業」に通じるところがあります(笑)
 

しかし、音楽を作る側の姿勢として、本当に「数打ちゃ当たる」みたいなスタンスでいいのでしょうか?



洋楽に詳しい方なら分かると思いますが、海外のアーティストたちは「自分だけにしか作れない音楽」を作ること、目指すことが大前提であり、ゆえに苦悩しています。
 

そこに日本の音楽シーンとの、かなりの温度差を感じます。



わかりやすく絵画の世界に例えて言うと、ピカソのスタイルを真似て自分の描いた絵を売り出そうとしたら、いったいどのようなことになるのか?評価は?ということです。

 

 

世界中で音楽が、あらゆるジャンルを巻き込んで進化し続けているのに対し、日本では、どこか既視感のある楽曲や、過去のビッグ・ヒット、あるいは海外で流行しているサウンドをなぞっただけのモノが氾濫しているのは、こういった構造的な問題が大きいと思います。
 

いわゆる邦楽の「ガラパゴス・ポップ化」問題です。



ちょっと長くなりましたが、この2種類の作曲家の区別について著者の方は軽く触れるか触れないか程度でした。
 

そして、このような論調だと「芸術家タイプの作曲家」たちは、みなさんモチベーションを削がれてしまうのではないでしょうか?