思い返してみれば、カードの用意すら不完全なぶっつけ旅だった。クレジットカードは上限額があるため、また海外でいつ止まり得るかわからないため、銀行口座に直で紐付けたデビットカードも必要だったのだが、手続きし始めるのが遅くてフィジカルカードが間に合っていなかった。それ故海外のATMで日本円を引き出すことができず(現金と口座残高が行き来できない)、現金30万口座30万をバランスよく使っていくしか手が残されていなかった。そんな状態で、家を歩きで出発したのを覚えている。早速大陸を歩き始める実感が欲しかったのかもしれない。
本当に欧亜大陸横断という旅を実現できるのか、初めは正直自信があまりなかった。途中で飛行機を使って大幅に国を飛ばしてしまうのではないか(紛争地帯と危険レベル2以上の国は飛ばしたが)、どこかでトラブルに巻き込まれ帰国を余儀なくされてしまうのではないか、いやそれよりも体面の立たない諦めるという行為を選択してしまうのではないか…
結果として、香港、マカオ、中国、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ネパール、インド、イタリア、バチカン市国、ギリシャ、トルコと旅を続けた訳だが、全ては一本の指から始まった気がする。香港国際空港から市内への出方を調べていなかったため、空港に着いてからおばちゃん職員に聞いたのだが、下調べが不十分すぎて唯一知っていたワード、重慶大厦へ行きたいと伝えた。尖沙咀(ティムサーチョイ)だろう?バスで行った方がいい、こっちだよ、その指である。その指がヨーロッパまで繋がっていたからこそ、僕はこの旅を成功できたのかもしれないとも考える。
バスや鉄道など、暇な時間も多かった中で(田舎では通信も通じず、ギガを使うにもお金がかかり、充電も有限であるため移動中は何もせず外を見て考え事をすることがほとんどだった)、この旅の目的は何だろうか、この旅に何を求めていたのだろうか、この旅で何を得ることができただろうか、など色々なことに悩み考えた。
まず、この旅の目的は何だったのか。アジアとヨーロッパの陸を踏むこと?陸路に拘って端っこから潰して回ること?途中でちょこちょこ空路を使って行きたい国を満喫すること?紛争地帯は踏む必要があるのか?どれほど自問自答しても旅の目的というのは見つからなかった。もとい、そんなものそもそもなかったのかもしれない。行きたいから行く、に理由を探すこと自体が間違いだったのだ。強いて言うなれば、今しか見れない景色があると思ったから、であろうか。お金はないけれど、時間と若さだけは確実にあった。
次に、何を求めていたのか。目的と求めるものは当然別なものである。これに関しては、刺激と経験をまず追い求め、その次に達成を追い求めたと明確に答えを出すことができる。陸路での国境越えはあまり情報がなく、実際現地で動き回ってようやく形になることが多かった。空路を使う方が何倍も楽なのに、そのようなストレスフルな旅を求めたのは陸路の国境という知らない世界から感じれる刺激、そしてそれは後に経験となる。刺激は時間が経てば経験になるのだから、刺激と未知の経験が僕の中では同値と言える。それを積み重ねてゆくことで、陸路での大陸横断というミッション(目的は差し置いて)を達成していったのである。
そして、この旅で何を得たか。これもまた難しい問いである。よくあるものとして、異国の文化に触れることで視野が広がった、海外での予想外のトラブルに対処する力がついた、一種の海外特有の社交性が身についた、などを聞くが、このようなくだらない事柄は答えとしては不十分である。このように端的に言語化をしてしまうことは、旅の価値を下げるように思う。旅の中でふと抱いた感情、何かに馳せた想い、自分の身が奮い立つような感動、美しすぎるものを見た時の感嘆、どこかで見失っていた生きる熱情や意味、足が竦むほどの恐怖、新しいものに対する抑えられない興奮、現地の人との一体感、他者の何気ない優しさ、トラブルに対する後悔等々、旅の中で得たもの、失っていても呼び起こせたものは無数にあったはずだ。文化や宗教を学ぶこともあれば、人としてこうなりたいと学ぶこともある。何かの能力のように実社会に活きることだけが得たものではない。今まで疎かになっていた人として大切な感情を少しでも思い出したというだけでどんな座学よりも人として豊かとなり成長できるであろう。それ故、自分の人生観や能力を変えたくて旅をその解決策に仕立て上げるのは避けるべきと言える。旅の中での多少の経験如きでは人は変われない。ましてやそれを目的に旅をするなど本末転倒、言語道断である。旅を通して自然と気付くべきものに気付き、人生観も共に変わってゆくということはありえても、目的を取り違えると肩透かしを喰らってしまう。
もちろん、この旅の中でプラスのみが存在した訳ではない。旅の過程で様々なものを失い、また過去ばかりに固執して悲嘆に暮れる日もあった。過去に固執するのではなく今に目を向けようとしても、東洋の血はどこも少なく、異常なほどの孤独を感じてしまう。異言語で起こされて自分の居場所がわからなくなってしまったり、異種のトラブルに巻き込まれる度に小説(紀行文)に憧れた自分を呪うこともあったりした。気付けば、この孤独は僕の感性を老けさせていた。まるでおじいちゃんになってしまったかのような行動を取ることが増えた。だが、もしかするとこの孤独ですらも、僕の望んでいたものではないかと思う。どのように自分が構成されているのか、僕は真の自分と、自分から見て理想の自分(端的に言えばなりたい自分)の足し算だと考える。世界を1人で旅するというのが1つ理想としてあったため、自分自身を奮い立たせてそこに持って行き、達成することで己も1人旅を実現したと言えるのだ。1人旅を終えた自分に、よく生き延びた(どこも人が住む場所なので生き延びるというのは少しおかしいかもしれないが)、お前は強い、と評価するのである。そうしてまた、理想の自分に近づいてゆく。そして旅を終えた後、日本での自分の姿を楽しみにしている自分がいるのである。
これらのことを総合的に考えて、僕の大陸横断旅はどうであったか。人生の中のたった2ヶ月、世界に196ヵ国ある中の欧亜大陸10数のみの旅。数値で見ればちっぽけな旅に見えないこともない。だが、世界は素晴らしかった。落涙を禁じ得ないほど、美しかった。もちろん日本も素晴らしい国であると思う。清潔であるし、かつて田中角栄の進めたインフラ整備のお陰でトップレベルで整っており、規律が成っている。だが、ユーラシアにはまた別種の趣きがある。最高の景色というのは存在しないであろうが(全ての経験は最高であった)その絶景の数々と、例え良い景色もいうものはなくても人がいれば文明があり、住む場所があり、人々の食を繋ぐスーパーがあり(大陸を通じて変わらぬ味を提供してくれたマルボロにも感謝)、ご飯作りを楽するためのレストランもあり、人を喜ばすために造られたものもあり、そしてどこでも日が変わらず昇った。それだけで十分なのだ。それがこの地球の資産なのだ(果たして全途上国が先進国と並ぶという未来はあり得るのだろうか?)。ただ、悔やまれることもある。経験したことが記憶になってしまうこと、その記憶もどんどんと曖昧になっていってしまうこと。今までで1番笑うことの少なかった2ヶ月間だったかもしれないが、その分多くの経験記憶ができた。その記憶があまりにも儚く(死にゆく時、走馬燈として思い出すことはあるだろうか?)、それでいて、自分の旅を証明するものは己の記憶とパスポートのスタンプのみである。後々記憶をできるだけ呼び起こせるように、この横断録が誕生したと言っても差し支えない。まずは自分の記憶のため、そして記録のため。もしこの記録を後に子供が読みでもして、憧れてくれるようなら涙は止まることを忘れるだろう。そしてこのパスポートも間違いなく宝になる。10年用が高かったため5年用で申請し、旅行の先々で何故君のパスポートの色は他の日本人と違うのかと何度も突っ込まれた、これである。そういう貧乏旅には味があった。安くその国を楽しもうとすると人間様々なことに挑戦してみるものだ。旅を一概に良かった悪かったと言うことはできないけれど、言うなれば、この人生ではもうやらないが、生まれ変わってもう一度人生をやり直すならやる、だ。僕は自由が好きだった。そして、明日に自分が何をしてどうなっているかわからないこの運命じみた適当さも最高に好きだった。だから、訪れた国にリスペクトを持って入り浸かり(表だけを評価するYouTuberなど増えたものだが)、現地の人にもなるべくついて行き、あえて予想のつかない旅を選択した(深夜特急は27歳時点の旅であり、僕は20歳である、それゆえ楽しみ方がまた違って、僕はまるで弟のように連れ回されることが多かった)。日本に帰りながら海外に向かう人を見て早速羨ましいと思ってしまうのがこの旅の良し悪しを表しているのかもしれない。この2ヶ月間はずっと夢に浮かされているような感覚であった。
永遠に生きるように学び、明日死ぬように生きよ、やメメントモリ(いつか死ぬことを忘れるな)という言葉がある。どちらも人の死生観を表すものだが、明日死ぬということは、今日寝てからもう二度と目が覚めず意識を取り戻さないことを意味する。それでも満足な人生だったと言うには、日々の満足が必要であろう。長い目で見た時の目標達成に日々勤しむことで得られるのは達成感であろうが、それだけでは明日死ぬとなっては少し後悔してしまうような気がする。つまりはその日の楽しみというのも大切だということだと僕は解釈している。この旅は毎日が充実していて刺激的であった故、いつ死んでも文句はなかった。それほどの旅ではあった。三島由紀夫は、「人は自分のために死ねるほど強い生き物ではない、何か大義のために死ぬというのが最も美しく理想的である」という死生観を持っていたようだが、この旅は僕に取って一種の大義であったのかもしれない。
ただ、このような死生観だけでは旅は続けられなかったと思う。何故旅を続けてやろうと思ったのか。これらの死生観とは少し逆の話になるが、異国の地で何があっても死なない保証がある年齢こそが、このような種の旅の消費期限だと僕は思う。いつでも諦めて帰ろうと思えば帰れるのだが、若さがそれを妨げており、まだ行けるまだ行けると自分の背中を押し続ける。なぜなら自国で死ねるという保証があるからである。少なくとも今日は死なないという、死生観に反した、本能じみた自信があるからである。となれば、なぜ最終的に日本に帰るかと問われたら、日本で生まれたからとしか答えられない。日本で生まれたから日本に僕を構成するものを全て置いてしまっている訳で、居場所となっている訳である。だからいざ日本に生きて帰ってきても、少し不思議な気持ちがする。なぜ日本に帰ってきている(帰ってこれた)のだろう。危ない所には行ってないから死ぬはずもなく、生を実感するとかではないのだけれど、帰ってくるという馴染みのない感覚に自分が戸惑っているのかもしれない。
僕は「だからもう少し」というフレーズを旅の最中に気に入った。希望と哀愁が垣間見えると同時に、不完全を許容する寛容さを持ち合わせているからである。今は不完全かもしれない、だがもう少し続けさせてくれることで完全に近付くかもしれない、そしてそう懇願する哀れさ。一度このトンネルのような旅に足を踏み入れてしまうと(深夜特急は周りに宣言してしまった以上踏み入れるしかないという感じであった)、頭が刺激に侵されてしまって、一種の中毒になってしまう。旅が終わりかけている中で新しい旅が幕を開けていた。世界地図の中で光っている所がある。南米だ。次は南米を縦断してやる。
求めよ、然らば与えられん(マタイによる福音書)
Let’s continue the saga…
欧亜大陸横断録(20) 11/7/25〜7/9/25 完