眠っている男の横顔を確かめると、翔はそっと戸を閉めベランダに出た。雨は上がっている。
白い石造りの大きな家。二階のテラス。薄紫の月明かりの中、ローブのまま石のベンチに仰向けになって寝っ転がる。
 空中庭園。この家は元々別荘だったと言う。この家を作る時、設計した人間は恐らく空中庭園に力をいれて作ったのだろう。東京。スモッグの空。石のプール。
 翔は煙草に火を点けた。この家を貸してくれている男は翔の最初の客だった。何も知らなかった翔。ただ投げやりな気持ちでいただけだった。初老の男は事が終わった後、こう告げた。金を稼ぎたいのならもっと誇りを持て…。翔はその言葉に感動し、何もかもを打ち明けた。その男は翔を腕に抱きながら葉巻をくゆらせた。そしてこの家を無期限で貸してくれた。持ち主にはもう長い間会ってはいない。今はどこにいるのかさえも。それでも自分の事を信頼して約束を続けてくれている。
 空中庭園に紛れ込んで来た梟の鳴き声。

ホウ…、ホウ…、

 梟は夜行型だ。自分と同じく。ガキの頃、圭太とミギコと郊外の施設で眠っていた時、よく梟が鳴いていた。アレハナアニ…自分たちより二つ下のミギコ。梟の声を聞く度、ガキの頃を思い出す。
だが皆大人になった。もう今は空しささえもわからない。
自問自答の日々。
オレハナレタノカ…
ナレテシマッタノカ…
コノセイカツニ…
コンナヨルニサエモ…
 翔は静かに目を閉じた。


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 その夜、高藤は自分の病院でタカトのカルテを見ていた。何度も何度も繰り返し。そして息を付く。電話のベル。高藤は受話器を掴んだ。
「タカトか。どうした。苦しいか。水は?近くにあるか。少し飲め。そう、そうだ。雫を飲むみたいに。ゆっくりと…」
 雨の音がする。高藤は窓の外を見つめた。

 真っ暗な部屋。水色より少し濃い壁紙の部屋。庭のプールの音に水が滴り落ちる音。
「カーテン、閉めるか?」
 男の服を脱がせながら翔の低く暗い声が響く。男は微かに頷いた。カーテンを閉め、ベッドに倒れ込む。震えている身体。背中に手を回す。
「初めてだって言ってたよな」
「…はい」
「それは、男と寝るのが初めてだって意味か」
「…いえ」
「え、じゃあ女とも…」
 男は頷いた。翔はしっかりその腕を抱き締めた。
「いいのか」
 男も確かに頷いた。翔はその瞳を見つめた。

 圭太は夜の巡回をしていた。新宿。ここは毎晩新しい出来事が生まれては消えて行く。そんな街に生まれ育った。街を見回す。笑っている奴、泣いている奴、何かを憂いで…。警笛の音がなる。圭太は深く帽子をかぶり直し、夜の方向に駆け出した。




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 その夜、翔は新宿にいた。街角。平日は声がかかりにくい。この仕事は捕まっても大した罪にはならないが、それでも一度捕まればそれだけ顔を覚えられ仕事がやりにくくなる。圭太がいればこそだ。だがいつまでも圭太に甘えてばかりはいられない。一つの場所にそうそう長くいる事は出来ないのだから。
「翔」
 振り返るとヒロムがいた。翔と同じ派手なコートを着ている。
「ヒロム」
「どうしたんだ、着信入ってたぞ」
「週末、デカい取締りがあるみたいだよ」
「どこで」
「サクラビル辺りの所」
「何で知ってんだ」
「耳にした」
「やばいな。弟がいつも週末あそこでやってんだよ」
「それよっか今日いつもの所かかりが悪いんでここら辺流そうと思うんだけどいいかな」
「いいけど、だったら俺も一緒に、」
「あの」
 誰かが割り込んで来る。翔は声を掛けて来た客を見回した。普段学生は取らない。だが今日は客の出入りが悪い。
「どっちにする」
「え?」
 男は翔にそう聞かれて少し戸惑いの顔を見せた。
「初めて、なんで優しい方にって言うか…」
 そう聞いてヒロムがぷっと吹き出しかけた。
「じゃあ翔に譲るよ。俺、弟の様子見に行って来るから」
 ヒロムはそう言い残して消えた。翔は煙草を捨てた。
「金あんのか」
 学生らしいその男は慌てて財布を出そうとした。
「馬鹿、こんなとこで出すなよ。場所は決めてあんのか」
 首を振る。
「来いよ」
 翔は首で促した。



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家に帰るとビデオの音がする。翔はただいま、と声を掛けた。
「おかえりー」
 タカトはベッドの中から笑顔で手を振った。たたいま、のキスをする。
「いい匂い。パン?」
「あったりー」
「神父さんがくれたのか?」
「今食べるか?」
「ううん、さっきサンド・ウィッチ食べたから」
 翔は上着を脱ぎながらベッドの横に置いてある皿に目をやった。昨夜仕事に出る前に作って行ったサンド・ウィッチが二口位食べられたままそこに乗せてある。
「もっと食べなきゃ駄目じゃん」
「うん」
 タカトの嘘。痩せ細った身体。もう固形の食べ物を徐々に受け付けなくなって来てるのだ。モニターに目をやる。全ての線はタカトの身体に繋がっている。落ち着いている。
「そうだ、高藤先生から電話があったよ」
「何て」
「土曜のお昼に来るって」
「昼に?朝じゃなくて」
「手術が一つあるんだって」
「それから?」
「調子はどうかって」
 翔は頷くと床に座り込んで瓶のコーラの栓を開けた。
「なあ」
「ん?」
「何でいつも瓶のコーラ飲んでんの?、缶じゃなくて」
「缶、嫌いなんだよ」
「何で?」
「缶の味がするから」
 それを聞いてタカトは声を上げて笑った。
「変な奴だな」
「変な奴なんだよ」
 また笑う。翔もつられて笑った。そして思っていた。朝の内のほんの一時。タカトとゆっくり会話が交わせるこの時間。俺はこの時間の為に生きているのかも知れない。働いているのかも知れない。タカトの笑顔を見たい為に。そして自分も笑う為に。タカトはまだ笑い続けていた。



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梟が巣に帰って行く。
翔にはわかっていた。それが朝の合図だと。ベッドの横の客の残り香。仕事をした後の紫色の朝の日差し。翔はゆっくりと半身を起こした。

 礼拝はいつも日曜の朝早くから行われている。翔は礼拝堂の外で煙草を投げ捨てるとそれを靴で消した。ドアを静かに開ける。飛び込んで来る高藤の澄んだ声。高藤は順に気づくと微かに頷いた。座らず、一番後ろの壁に凭れる。
「空いてますよ」
 翔は会釈をした。いつも通り。鮮やかな色取り取りのステンドグラス。光達。翔は目を擦った。右からの光。太陽の差し込む光。…矢みたいだ。翔は思った。矢みたいだ。

「ちゃんと食ってるのか」
 高見沢は礼拝の後、紅茶を淹れながら翔に尋ねた。横にある私宅のテラス。翔はデッキ・チェアーに座りながら頷いた。
「仕事終わりに来るのはいいが運転は大丈夫なのか。ろくに寝てないんだろう」
「少し寝たよ」
 暖かい紅茶。息を付く。
「翔、少し仕事休んだらどうだ」
「休めないよ。ローンもあるし」
「医療器具っていうのはそんなに高いのか」
「まあまあ」
「お前が倒れたら元も子も無いんだぞ」
 翔は立ち上がった。
「そろそろ行くよ」
「待て、これを持ってけ」
「あったかいね、焼き立て?このパン」
「ああ、礼拝の前にな」
「ありがとう。タカトが喜ぶよ。じゃ」
 翔はテラスの柵をひょいっと飛び越えた。
「翔」
 背中に呼びかける。翔は振り向き微笑んだ。右手を軽く上げる。高見沢は息をついた。

「翔」
 駐車場の自分の車の前で誰かに呼び止められる。幼馴染の圭太であった。今日は警官の制服は着ていない。
「来てたのか」
「仕事の帰り」
「大声でそんな事言うな。俺の立場も考えろ」
 圭太を辺りを見回した。煙草を銜える。
「火ぃあるか」
 翔はポケットからライターを出した。圭太の顔に近付ける。
「来週の週末、デカい取締りだ」
「どこら辺」
「サクラビル辺りの道から一斉だ」
 圭太は煙草に火が点いたのを確認すると翔の顔を見ずそのまま去って行った。翔はオープンの車に乗り込み、煙草を一本吸ってそして消した。




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