前田衷 事務局長からのコメント
前田衷さんにはボクシング情報ラボ(Boxing-Labo)の事務局長をお引き受けいただいているが、ボクシング関係者であれば誰もがその名を知っている著名人でもある。これまでボクシングマガジン、ワールドボクシング、ボクシングビートなどの日本を代表するボクシング誌の編集長を務められてきており、半世紀以上に渡る日本や世界の壮大なボクシングの歴史をつぶさに見てこられた生き証人のひとりでもある。このボクシング情報ラボの設立に当たっても、ボクシング情報を扱う勉強会の意義を理解してくださり、会の運営にも協力していただいている。今回はその前田衷さんに、ご本人がボクシングと向き合ってこられた半生について伺うと同時に、ボクシング専門誌の編集長を長年務めてこられた立場からボクシングとメディアとの関係についても忌憚なく語っていただくことにした。
ーーー ボクシングとの出会いと編集長の仕事について
前田 : 私がボクシングと関わるようになったのは、とても面白い経緯がありましてね、とにかく高校生の頃からボクシングが大好きだったので何かアルバイトでもないかと思っていたら、当時のボクシングとプロレスを扱っていた「プロレス&ボクシング」という雑誌をベースボールマガジン社が出していて、そこでアルバイトを始めたんです。それで大学へ行こうかと思っていたら、大学なんか行かないでとにかく来いといわれて、そのまま就職してしまったんです。もし大学へ行っていたらその間の4年間はボクシングを見ることはなく過ごしたわけですから、そうなっていたらファイティング原田さんや海老原博幸さんの試合も見ることはなかったと思うので、私にとってはとても良かったですね。歴代の日本人世界チャンピオンでは、初代の白井義男さんだけは間に合いませんでしたが、そのあとのファイティング原田さん以降の世界チャンピオンは全て生で見ることが出来ました。本当にラッキーだったと思っています。
私は1948(昭和23)年の生まれですが、最初にボクシングの世界タイトルマッチを現場で取材したのが、1967(昭和42)年、藤猛がロポポロをKOして世界S・ライト級タイトルを獲った試合でした。まだ19歳のときでした。そのあと当時、神田錦町にあったベースボールマガジン社に勤務するようになりました。あの頃はボクシングよりもむしろプロレスの方が人気があってそちらの方がメインだったんですが、ひとつの雑誌ですからボクシングもプロレスも両方やりました。編集部は6名か7名ほどの少人数だったので仕事は大変でしたが、とにかく毎日のように取材に出かけて、帰ってくると今度は原稿の執筆と編集に追われる生活をしていました。最初は本当に右も左も分からなくて入った会社で、次から次へと新しい雑誌を出すから随分景気のいい会社だと思っていたんですよ。ところが実際は自転車操業で、社長がいろいろな雑誌を創刊しては潰れたりしていて、私が春に入社したのがその年の暮れには負債がたまって一度倒産してしまったんです。入ったときには200人ほどいた社員が一遍に100人くらいに減りました。ただ私の場合はボクシングの雑誌だけでも続いている間はそこにいようと思って、そのままボクシングの仕事を続けていました。
そしてボクシングとプロレスは同じ格闘技になっているけれども、本来は異質なスポーツなので雑誌を別々にした方がいいと社長にも何回も掛け合って、ようやく1972年からボクシングの専門誌として「ボクシングマガジン」が創刊されました。その当時は日本人の世界チャンピオンでは大場政夫がいて柴田国明がいて輪島功一がいて、日本のボクシング界は盛り上がっていたんですが、雑誌の方はどうやってもなかなか売れなくて大変でした。それからベースボールマガジン社が一度潰れかかったとき、1967(昭和42)年に当時の編集部長をはじめ幹部の人たちが会社を出て新しく格闘技の雑誌を作るために日本スポーツ出版社という会社を立ち上げました。そこから出版されるようになったのが「ゴング」という雑誌です。こちらもプロレスとボクシングを扱っていました。














