前田衷 事務局長からのコメント

 

 

前田衷さんにはボクシング情報ラボ(Boxing-Labo)の事務局長をお引き受けいただいているが、ボクシング関係者であれば誰もがその名を知っている著名人でもある。これまでボクシングマガジン、ワールドボクシング、ボクシングビートなどの日本を代表するボクシング誌の編集長を務められてきており、半世紀以上に渡る日本や世界の壮大なボクシングの歴史をつぶさに見てこられた生き証人のひとりでもある。このボクシング情報ラボの設立に当たっても、ボクシング情報を扱う勉強会の意義を理解してくださり、会の運営にも協力していただいている。今回はその前田衷さんに、ご本人がボクシングと向き合ってこられた半生について伺うと同時に、ボクシング専門誌の編集長を長年務めてこられた立場からボクシングとメディアとの関係についても忌憚なく語っていただくことにした。

 

ーーー ボクシングとの出会いと編集長の仕事について

 

前田 :  私がボクシングと関わるようになったのは、とても面白い経緯がありましてね、とにかく高校生の頃からボクシングが大好きだったので何かアルバイトでもないかと思っていたら、当時のボクシングとプロレスを扱っていた「プロレス&ボクシング」という雑誌をベースボールマガジン社が出していて、そこでアルバイトを始めたんです。それで大学へ行こうかと思っていたら、大学なんか行かないでとにかく来いといわれて、そのまま就職してしまったんです。もし大学へ行っていたらその間の4年間はボクシングを見ることはなく過ごしたわけですから、そうなっていたらファイティング原田さんや海老原博幸さんの試合も見ることはなかったと思うので、私にとってはとても良かったですね。歴代の日本人世界チャンピオンでは、初代の白井義男さんだけは間に合いませんでしたが、そのあとのファイティング原田さん以降の世界チャンピオンは全て生で見ることが出来ました。本当にラッキーだったと思っています。

私は1948(昭和23)年の生まれですが、最初にボクシングの世界タイトルマッチを現場で取材したのが、1967(昭和42)年、藤猛がロポポロをKOして世界S・ライト級タイトルを獲った試合でした。まだ19歳のときでした。そのあと当時、神田錦町にあったベースボールマガジン社に勤務するようになりました。あの頃はボクシングよりもむしろプロレスの方が人気があってそちらの方がメインだったんですが、ひとつの雑誌ですからボクシングもプロレスも両方やりました。編集部は6名か7名ほどの少人数だったので仕事は大変でしたが、とにかく毎日のように取材に出かけて、帰ってくると今度は原稿の執筆と編集に追われる生活をしていました。最初は本当に右も左も分からなくて入った会社で、次から次へと新しい雑誌を出すから随分景気のいい会社だと思っていたんですよ。ところが実際は自転車操業で、社長がいろいろな雑誌を創刊しては潰れたりしていて、私が春に入社したのがその年の暮れには負債がたまって一度倒産してしまったんです。入ったときには200人ほどいた社員が一遍に100人くらいに減りました。ただ私の場合はボクシングの雑誌だけでも続いている間はそこにいようと思って、そのままボクシングの仕事を続けていました。

そしてボクシングとプロレスは同じ格闘技になっているけれども、本来は異質なスポーツなので雑誌を別々にした方がいいと社長にも何回も掛け合って、ようやく1972年からボクシングの専門誌として「ボクシングマガジン」が創刊されました。その当時は日本人の世界チャンピオンでは大場政夫がいて柴田国明がいて輪島功一がいて、日本のボクシング界は盛り上がっていたんですが、雑誌の方はどうやってもなかなか売れなくて大変でした。それからベースボールマガジン社が一度潰れかかったとき、1967(昭和42)年に当時の編集部長をはじめ幹部の人たちが会社を出て新しく格闘技の雑誌を作るために日本スポーツ出版社という会社を立ち上げました。そこから出版されるようになったのが「ゴング」という雑誌です。こちらもプロレスとボクシングを扱っていました。

私は1967年に入社して殆どボクシングを専門に編集長も担当しましたが、1976(昭和51)年に具志堅用高がグスマンをKOして世界タイトルを獲ったあと防衛を重ねるごとにボクシングの人気も急に上がってきて、雑誌の方もよく売れるようになったんですよ。具志堅が13回防衛して最後は沖縄でフローレスに敗れた1981(昭和56)年まで、ボクシングの雑誌の売れ行きは随分良くなりました。ところがその具志堅人気にあやかって会社の上の方から、ある政党の選挙に具志堅を呼んでくれないかと頼まれたことがありました。1980年のことでした。当時まだ私も若くで血気盛んだったものですから、そんな一政党のために国民的ヒーローのチャンピオンを編集長が選挙なんかで呼んでおかしなことをするのはよくないとして断ったんです。そうしたらそのあと会社の上層部から編集長を外すと言われたので、すぐに辞表を書いて会社を辞めることにしました。まあ1967年に19歳で入社してから13年間ボクシング一筋でやりたい放題やってきて、こんなことで降格人事を受けることになって堪忍袋の緒が切れた感じでしたね。私がボクシングマガジンを辞めてから2年ほどして、毎日新聞の「サンデー毎日」の記者だった山本茂さんが入ってきて「ボクシングマガジン」の編集長になりました。ですから私と山本さんは仕事の上では重なっているわけではありません。
 
ーーー ボクシングマガジンからゴング、そしてワールドボクシングへ
 
前田 :  私が「ボクシングマガジン」を辞めたというのを聞いて日本スポーツ出版社の「ゴング」の方から、ちょっと手伝ってくれということになりました。「ゴング」はまだプロレスとボクシングと一緒にやっていたのですが、最初の1年くらいは「ゴング」で仕事をしました。その当時「ゴング」では、プロレス、キックボクシング、ボクシングと三種類の格闘技をひとつの雑誌の中で扱っている時代でした。私がボクシング専門で編集長をやってきたので、こちらもそれぞれ別々にしようということになりました。最初はヘビー級特集号のようなものを何冊か出してみたら、ボクシングに特化した方が成績が良かったものですから、それならボクシング専門誌にしようということになったわけです。1982年に「ゴング」から分かれる形で「ワールドボクシング」を創刊して私が編集長になりました。ここでも少人数のスタッフで予算も限られていましたが、私の「ボクシングマガジン」時代に培ってきた人脈をそのまま継続することが出来ました。またこの「ワールドボクシング」の編集部でしばらく担当した人の中には粂川麻里生さんなど、その後、慶応大学の教授になった人もいます。その当時はスタッフを募集すると大学を卒業したあと何人か応募してくる人がいたのですが、最近はもう出版関係は若い学生には魅力がないらしくなかなか人材が集まりませんね。昔はお金や待遇など関係なくただボクシングの仕事をしたいという人がいたものですが、ここ数年はさっぱり来なくなりました。これには出版不況というものがあると思うのですが、これからの時代は若くてやる気のある人材をどのようにして確保するのかが課題になってきそうですね。
 
ーーー ネット配信時代のボクシング情報について
 
前田 :  近年ボクシングの情報もネットやSNSに大きくシフトしてきました。もう紙媒体の時代は終わってYouTubeなどのネット配信に変わってきたとは言われていますが、ネットになったからと言ってボクシングの情報が大きく変わることはないと思いますよ。私のところも「ワールドボクシング」が一時期会社が乗っ取られそうになったことがあって、もうその時点で紙媒体の雑誌はここまででいいのかなと考えたこともありましたが、そのあといくつかサポートしてくれる会社が出てきて、2009(平成21)年に現在の「ボクシングビート」を発刊しました。しかし一昨年の2023(令和5)年には、長らくボクシング専門誌として長い歴史を刻んできた「ボクシングマガジン」が販売不振からとうとう休刊になってしまいました。ボクシングを専門とする活字媒体は、依然として厳しい状況にあることは変わりありません。デジタル化とネット配信に合わせて最新情報を毎日発信する「ボクシングニュース」も始めたのですが、これはあまりにも仕事が大変で今しばらく休止しています。ネット時代になったとは言っても、それはそれで簡単に利潤を生むようにはならないようです。
テレビからネット配信になっても変わらないものもあります。「ボクシングマガジン」「ゴング」「ワールドボクシング」「ボクシングビート」といろいろな雑誌を担当してきましたが、この仕事は昔から少人数だし、取材して編集して出版するという点では殆ど何も変わっていませんね。これでテレビが放送しなくなったらどうなってしまうのかと心配もしていたのですが、テレビに変わってNTT-LISMOが出てきたり、ABEMAやAmazon-Prime-VideoやU-NEXTなど、次々とネット配信が出てきました。それから最近のボクシングジムには、女性やちびっ子が来てボクササイズやフィットネスをやって、その中から将来プロを目指す人も増えてきました。これはネット時代になってきてから出てきた新しい動きなのではないでしょうか。また若い人の中にはボクシングジムで体を鍛えて、ボクシングのライセンスを取ることを目標にしている人もいます。こういう人たちにも、ボクシングの最高峰のプロの世界の魅力を知ってもらいたいものです。
井上尚弥の試合は、彼が高校時代から見ていますけれども、ここまですごい選手になるとは思いませんでしたね。アマチュア時代からもう凄かったんですが、今やネット配信で世界中の人が井上尚弥の試合を見ているわけですから、ボクシングの世界も大きく広がった感じはしますね。井上尚弥のほかの日本人ボクサーでもネット配信で高額のファイトマネーを手にすることが出来るようになったし、またその前座に出てくるボクサーにとってもやりがいのある条件で試合が出来るようになっているので、ネットも悪いことばかりでもないですね。ただYouTubeのような動画配信では、もう著作権や版権などは全く無視されてしまいますね。テレビ局にしてみれば面白くないのかもしれませんが、この動きは日本だけでなく世界中で起こっていることなので、もう逆戻りはできないですよね。このデジタル時代に、ボクサーもそうですがボクシング情報を正しく伝えていく若い人材を、どのように確保して育てていけばいいのかということが共通の課題になっていると思います。
 
 
 
 
            前田衷 事務局長
 
 
        浜田剛史 会長  ,    前田衷 事務局長
 
 
        前田衷 事務局長  ,    今村庸一 理事長
 
 
 
 
 
 

ボクシングの日 世界チャンピオン会「世界チャンピオンと懇親の夕べ」報告

 

 

                 ボクシング情報ラボ 理事長  今村庸一 (駿河台大学名誉教授)

 

 

 

 

5月19日、東京水道橋の東京ドームホテルで、ボクシング世界チャンピオン会(以下、チャンピオン会)主催の「世界チャンピオンと懇親の夕べ」が開催されました。日本のボクシング史を飾った元世界チャンピオンが集い、とても華やかなパーティーになりました。私も関係者のひとりとして参加してきましたが、個人的な感想も含めて、ご報告しましょう。

 

 

日本のプロボクシングで最初に世界タイトルを獲得したのが白井義男さんです。1953年5月19日、後楽園球場でダド・マリノを下して日本人ボクサーとして初めて世界チャンピオンになりました。この日5月19日を記念し「ボクシングの日」と定めて、毎年イベントを行っています。このチャンピオン会は、歴代の日本人世界チャンピオン経験者を集めた任意団体で、2010年にガッツ石松さんを会長として発足しました。これまで2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、2024年の能登半島地震に際してチャリティ活動をしてきました。昨年2024年から第2代会長に浜田剛史さんが就任し、今回のイベントが実質的に初めての大きな活動になりました。今年は浜田会長のもとで歴代チャンピオンを集めた大規模なパーティーが開催されることになりました。

 

 

白井義男さんが世界チャンピオンになってから72年目となったこの日、東京水道橋にある東京ドームホテルの「天空」には、40名を超える歴代世界チャンピオンが集結して旧交を温め、ボクシング関係者が約250名がセレモニーに参加して「ボクシングの日」を祝賀しました。司会進行を務めたのはWOWOWエキサイトマッチを担当してきた高柳謙一さんと中島そよかさんでした。このお二人は私も放送作家時代からよく知っています。開会の辞が告げられると、次々と元世界チャンピオンが紹介され、40数名の錚々たる元世界チャンピオンが壇上に勢揃いしました。その光景はまさに壮観というほかありませんでした。そのあと浜田会長から挨拶があり、このチャンピオン会の新しい執行部のメンバーとして、副会長に具志堅用高さん、セレス小林さん、事務局長に中島成雄さん、理事長に山中慎介さんが就任したことが発表されました。そして浜田会長からは、これまで日本のボクシング界ではプロとアマチュアはなかなか協力体制が築けなかったが、これからはそうした垣根を超え日本のボクシング界全体の発展のためにチャンピオン会は貢献していきたいと抱負が語られました。

 

 

そのあと後半では、具志堅用高さんと渡嘉敷勝男さんの軽妙な司会によるオークションが行われました。当日の参加者である元世界チャンピオンが持参したものやサイン入りグッズなどのほか、井上尚弥さんのサイン入りグローブなどが出品され総額200万円を超える売り上げになりました。これは全て能登半島地震の義援金に寄付されました。具志堅さんと渡嘉敷さんは同じジムの先輩後輩であり、WBA世界ジュニアフライ級のタイトルを長らく二人で保持してきた名チャンピオンでもありました。ボクシング引退後は二人ともタレントとしても大成功していますが、この日のオークションの司会でも現役時代を彷彿とさせるような速射砲のような言葉の連打が会場を魅了して、先輩後輩の見事なコンビネーションを見せてくれました。このような形でボクシングの元世界チャンピオンの人たちの活動が社会貢献に繋がっていくことは素晴らしいことです。これから先も浜田会長の新体制のもとで、さらなる活動に繋げていってもらいたいと思います。

 

 

さて今回私もゲストとしてこのパーティーに参加させていただいたのですが、いろいろな人と再会したり、また引退後初めて見た元世界チャンピオンの人もいたりして、とても感慨深い経験をすることでできました。

浜田剛史さんは、本研究会「ボクシング情報ラボ」でも会長をされていますが、主催者の代表として堂々とした対応をされていました。ボクシングビート誌の元編集長で本研究会の事務局長をお願いしている前田衷さんも参加されていました。元ボクサーやジム関係者の方々が大勢参加していたので、とても忙しそうに交流されていました。それから1991年から本放送が開始され、その後、日本を代表するボクシング番組になったWOWOW「エキサイトマッチ」ですが、この番組のプロデューサーだった大村和幸さん、そして司会進行を務めていた高柳謙一さん、中島そよかさんもいました。二人ともこの番組のアナウンサーでもあり、私も1990年のWOWOWの開局時から10年余に渡り、放送作家としてこの番組の企画構成を担当しました。今回登壇した若い世界チャンピオン経験者の中には、この番組を見て育った世代も多くいるそうですから、そういう意味でも感慨深いものがありました。会場では前田衷さん、大村和幸さん、高柳謙一さん、中島そよかさん、そして具志堅用高さんと久しぶりに再会することができて、まるで高校の同窓会で旧友と再会したような気分になりました。

 

 

壇上では世界タイトルを獲って50年以上経った方を表彰するセレモニーが行われ、浜田剛史会長や新しく理事長に選任された山中慎介さんから、ファイティング原田さん、花形進さん、大熊正二さん、に花束の贈呈が行われました。奇しくもこの三人は同じ階級である世界フライ級タイトルを獲得したボクサーでしたが、日本人初の世界チャンピオンになった白井義男さん、そして海老原博幸さん、さらに大場政夫さんと、既に鬼籍に入られているこの伝説的なボクサーの方々もやはりフライ級で世界を制したチャンピオンでした。現在では「黄金のバンタム」とも言われたバンタム級で、WBA・WBC・IBF・WBOの4団体の世界タイトルの全てを日本人ボクサーが独占するという快挙を達成しています。それも日本ボクシング界を牽引してきた数多くの先人の足跡があって現在の繁栄があると言えます。今回、顕彰された三人はもちろんのこと、長きに渡って日本のボクシングに貢献されてきた方、全員に改めて敬意を払いたいと思います。

一方、このチャンピオン会のメンバーはいずれも世界タイトルの栄冠を手にした偉大なボクサーなのですが、実力や実績はありながら、機会や運に恵まれず、この場に立つことが出来なかった選手がいたことも忘れるわけにはいきません。栄冠を手にしたボクサーも一歩及ばず涙を呑んだボクサーも、いずれも人生を賭けた大勝負をリングの上で繰り広げてきたわけですから、その全ての功績は称えられるべきものです。このようなイベントを機に、日本のボクシング界が歩んできた道程を振り返ることも大切だと痛感しました。

 

 

私も放送作家としてWOWOWエキサイトマッチを10年間担当したのをはじめとして、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌等のメディアでボクシングの記事を書いたり関係者と接してきたりしました。またメディアや情報やジャーナリズムを専門とする研究者としても、スポーツとメディアや情報の関係について大学で講義をしたり研究したりしてきました。近年のメディア研究というとどうしてもコンピューターの発達やスマホやSNSの開発にばかり目がいってしまいがちですが、最も大切なことは、そのようなメディアの変化を、歴史的に見たときにどのような評価をすればよいのかを考えることにあると思うのです。

その点でボクシングをひとつの研究対象とした場合、どのような研究分野や研究方法があるだろうかといつも考えてきました。既存の学問分野でボクシングを適用してみるとどうでしょうか。ボクシング法学、ボクシング経済学、ボクシング社会学、ボクシング文学、ボクシング歴史学、ボクシング理工学、ボクシング医学生理学、・・などなど様々な研究が考えられそうですね。日本ではこうした試みはまだありませんが、仮にこのようなボクシングの専門的な研究を目指した「ボクシング学部」でも出来たら、それはとてもユニークな学部になることでしょう。日本の大学のスポーツを扱う専門的な分野としては「スポーツ科学」や「運動生理学」などを設けている大学もあるのですが、もっと幅広く考えて法律や政治や経済や文化など横断的に研究するような組織があれば、他に例を見ないような楽しいものになるのではないかと個人的には思ってしまうのです。

 

 

アメリカのネバダ州にはゴルフを専門に研究する「ゴルフ学部」を設置している大学があるそうです。ゴルフはアメリカ国内では大変大きなビジネスや文化になっていて、単に競技の結果やプロゴルファーのためだけでなく、もっと一般の人々や地域社会や自然環境との関係等についても制度や運営などに関する研究が進んでいるそうです。まだボクシング専門の学部は聞いたことはありませんが、日本のボクシング界も、白井義男さんが世界タイトルを獲ってから既に72年の歴史を刻み、世界チャンピオンが100名を超えている現状を考えれば、十分に学問的研究対象にしてもよいのではないかと個人的には思っているのです。

どうしてもスポーツというと現在の競技の結果だけが重要視されて、誰が勝ったか、いくらお金が動いたか、という世俗的な関心だけが目立ってしまいます。しかしこれだけの素晴らしい世界チャンピオンが生まれて、十分な歴史資料も揃ってきた日本のボクシングの遺産を活用して、何とか若い世代の人たちに引き継いでいってもらいたいものです。

 

 

ボクシングの歴史はボクサーやジム関係者だけでなく、それを伝えてきた人たちも大いに寄与してきたことは、もっと重要視されるべきでしょう。「ボクシング学」が本当に必要とされるのは、ボクシングのメディアや情報に携わるプロの仕事をしている人たちでしょう。具体的には、新聞記者、カメラマン、ライター、編集者、アナウンサー、プロデューサー、ディレクター、放送作家、・・・このような分野で優れた仕事を専門にする若い人材をこれからもっと育成しなければなりません。ボクシングの世界タイトルマッチが、テレビ中継からネット配信に変わってきた今こそ、そうした共通認識をもつ人たちが集い、ボクシングのことをより広くより深く探求する場が必要なのではないか。・・チャンピオン会のパーティーに参加して、そんなことを考えました。(了)



  世界チャンピオン会 東京ドームホテル

 

 

          浜田剛史 会長を中心に

 

 

大熊正二さん(左)  ファイティング原田さん(中)

 

 

今村庸一 理事長 , 浜田剛史 会長 , 前田衷 事務局長

 

 

 

                具志堅用高さんと

 

 

   司会の高柳謙一さん、中島そよかさんと

 

 

  筆者・今村庸一 理事長 (駿河台大学名誉教授)

 

 

 

 


 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今村庸一 理事長からのコメント

 

 

今回は、ボクシング情報ラボ(Boxing-Labo)の今村庸一 理事長から、ボクシングとの関わり、放送作家時代の仕事、そして大学教授としての研究等について触れ、「ボクシング情報ラボ」への抱負なども語ってもらいました。

 

ーーー ボクシングとの関わりについて

 

今村 :  私自身はボクシングの経験があるわけではありませんが、子供の頃からボクシングはテレビでよく見ていました。一番最初に見た世界タイトルマッチで覚えているのは、私が小学校1年生のとき、1962年にファイティング原田さんがポーン・キングピッチをKOして世界チャンピオンになった試合でした。キングピッチをコーナーに詰めて原田さんの雨霰(あめあられ)のような連打を浴びせたシーンが強く印象に残っています。まだ私は小学1年生でしたからボクシングや世界タイトルについてもよく分かっていなかったと思うのですが、当時のフジテレビで生中継されていたボクシングの試合は空前の高視聴率を記録し、大人も含めて日本中熱狂の渦になっていたのがとても興味深く思いました。そこには非日常的な空間があって、多くの人を引き付ける何かがボクシングとテレビにあるのではないかと、子供心に感じたのだと思います。その後、私は紆余曲折を経てプロの放送作家になり、またテレビをはじめメディアやジャーナリズムを専門とする大学教授になったわけですから、この試合が私の人生の方向を決めた要因のひとつになったのかもしれません。それからはボクシングの世界タイトルマッチは、ほとんど見逃さずに見るようにしました。

中学生になると、私は毎月のように本屋でボクシング雑誌を立ち読みしていました。1970年代に入った頃、ボクシングの専門誌は「プロレス&ボクシング」と「ゴング」の2誌がありましたが、当時は両方ともプロレスとボクシングが同じ格闘技のジャンルとして月刊誌で扱われていたのです。中学生には少し値段が高かったので、この2誌は本屋で立ち読みをしながら、記事の内容と掲載されている写真の殆どは暗記するようにしました。このときの記憶が、後にWOWOWでエキサイトマッチの構成を担当したときに結構役に立ちましたよ。まもなくしてプロレスとボクシングは別物だということになってボクシング誌として独立し、それぞれ「ボクシングマガジン」と「ワールドボクシング」としてボクシングの専門誌になりました。

当時はインターネットもない時代でしたから、海外のボクシングの情報はこの専門誌に掲載されているものが全てでした。そのため世界的に有名なボクサーでも、写真で顔は知っていても実際の動画はなかなか見る機会がありませんでした。スポーツ情報は映像が大切です。私自身は研究者として映像メディアの歴史も専門に扱ってきましたが、ボクシングを伝えるメディアこそこの半世紀の間に本当に大きく進歩したと思います。ファイティング原田さんの時代は地上波の白黒テレビで一般家庭では録画は出来ませんでした。それが1970年代にはカラーテレビが普及し、1980年代になるとVHSやβなどの家庭用ビデオデッキが開発されました。ボクシングの視聴者にとっても、この変化はとても大きなものだったはずです。そして1990年代にはパソコンやインターネットが世界的に広がり、2000年代にはスマホ等のモバイル端末や動画配信アプリなども開発されていきました。この間、ボクシングのビッグマッチとメディアの開発普及というのも、まさに並行していったわけです。そういう点でも、ボクシングはメディアの研究対象としてもとても興味深い分野です。

 

ーーー 放送作家時代の仕事について

 

今村 :  テレビの仕事を始めたのが1982年からでした。当初はいろいろなことをしましたが、スポーツのドキュメンタリー番組を半年間、担当することがあって、そのときにテレビ番組の企画・制作の知識を得ました。1984年から約10年間、オフィス・トゥー・ワンという事務所に作家として専属契約をすることになりました。久米宏さんや安藤優子さんなどが所属していた事務所です。私自身はメディアやジャーナリズムの研究も並行していこうと考えていて、実は前年に某出版社のノンフィクション賞の最終選考に残って候補作になったので、出来ればノンフィクション系の作家かジャーナリストになることを考えていました。しかしオフィス・トゥー・ワンでは1986年からテレビ朝日の「ニュースステーション」を制作することもあり、久米さんを中心に報道番組のキャスターや作家を充実させたいという意向があったので、私には報道情報系やスポーツ系の放送作家の仕事が期待されました。テレビやラジオの番組のほか、イベントや雑誌の企画も数多く担当することになりました。

私は元々は法学部出身で国際法や国際政治が専門だったのですが、それまでの放送作家というとエンタメ系やワイドショーの作家はいましたが、政治や法律や国際問題を専門的に扱える人材はあまりいなかったので、その方面の番組を担当することが期待されていたのだと思います。1980年代の後半から1990年代の前半にかけて民放各局では報道番組の枠が大幅に拡大して報道戦争などど呼ばれたりしました。当時一緒に仕事をしたキャスターを挙げると錚々たるメンバーがいます。「ニュースステーション」(テレビ朝日)の久米宏さん、「スーパータイム」(フジテレビ)の黒岩佑治さん、「マネー情報」(テレビ東京)の小池百合子さん・・・。この人たちとはほぼ同時期に報道番組のキャスターと作家という関係で仕事をしていました。その後の皆さんのご活躍はご存知の通りです。

その一方で、私自身は個人的にスポーツには詳しかったので、スポーツ番組の企画や構成の仕事の依頼が数多くきました。当時、小型VTRの開発が進みスポーツ番組が急増していく中で、世界のスポーツ事情に通じている放送作家が求められていたのだと思います。スポーツ番組は本当にいろいろなものを担当しましたが、大きなものとしては1991年「東京世界陸上」、1992年「バルセロナオリンピック」、1996年「アトランタオリンピック」(日本テレビ)を担当したのは、強く印象に残っています。そして1990年にWOWOWが開局するのでボクシングの特別番組を担当してほしいという依頼が入ってきたのです。12月にマイク・タイソンの復帰戦を生中継するので、その事前番組の「マイク・タイソンの軌跡」という番組を制作することになりました。この時はスポーツライターの故・山際淳司さんに司会をお願いしたのですが、何もかも番組作りという点では経験不足で、番組を組み立てて構成する作家としては結構大変でした。しかしそれでも、それがベースになって翌年から「エキサイトマッチ」の本放送が開始されました。今から振り返るとそのときはかなりバタバタした状況でしたが、それ以来この「エキサイトマッチ」は現在に至るまで35年も続いてきたのですから、日本のボクシング界にとっては欠くことのできない伝説的な番組になりましたね。「エキサイトマッチ」については、また機会を改めて、当時のことをお伝えしたいと思っています。

 

ーーー 大学教授の仕事と研究について

 

今村 :  放送作家の仕事は、朝昼晩24時間体制で寝る暇もないほど過酷なものです。若いときは無理も効きますが、いつまでも続けていけるほど甘い世界ではありません。私自身は40代になったら、国際法や国際政治をベースにしてメディアやジャーナリズムの研究を中心に大学で研究者になりたいと考えていました。1997年から大学で教鞭をとるようになり、メディア論やジャーナリズム論や放送論など担当しました。早稲田大学理工学部、昭和女子大学一般教養科、日本大学法学部、等で講師を務めました。2001年に埼玉県飯能市にある駿河台大学文化情報学部(現メディア情報学部)に教授として赴任することになり、放送作家の仕事と両立させるのは難しくなったので、大学の仕事に専念することになりました。その後、駿河台大学には20年間所属し4年前に退職して名誉教授に就任しました。その間、大学院現代情報文化研究科科長、大学院総合政策研究科科長、文化情報学研究所所長、等々の役職を長く担当しました。大学の仕事というのは、研究だけでなく入試業務や学生の世話などもあって現代の大学教授はかなり大変です。また役職者になると学内の重要事項を決定する会議に出席したり、また大学を代表して関係各所に挨拶に行ったりする必要もあるので、授業や研究以外にも時間に追われることになります。私は学部も大学院も講義をもっていたので、毎週、その準備もありましたし、学部や大学院のゼミの指導もしなければなりませんでした。加えて長らく学部の人事委員長にも就いていたので、教員の採用や昇任等の人事業務も絶え間なくありました。いずれも責任の重い仕事ばかりでしたが、それなりに20年間、充実した時間を過ごすことができたと思っています。

それからゼミ論、卒論、修士論文等の学生の論文指導というのがあるのですが、学部や大学院の私のゼミでは、主にメディアやインターネット等に関する研究テーマを設定して論文を執筆させて、最終的には論文審査と口頭試問を経て学位授与という手続きを取ります。特に論文を完成させるまでのプロセスが大切なのですが、大学に提出する論文である以上、しっかりとした学問的な研究方法に基づいた調査・分析をさせ、正しい日本語で論文執筆するように指導しました。近年の学生はパソコンやスマホばかり使用しているせいか、手書きの文章を書くことが苦手な学生が多く、基本的な漢字が書けなかったり中学で習うような日本語の文法を知らなかったりすることがありました。また駿河台大学には主にアジア各国から数多くの留学生が来るのですが、彼らの多くが日本のマンガやアニメのことしか興味がなく、研究の基本的な考え方から教える必要もありました。そういうとき、私はよくオリンピックやサッカーなどのスポーツの話を例にして、日本人学生と留学生の意思疎通をさせたりしたのですが、中にはボクシングオタクのような留学生もいて、過去の日本人ボクサーと自国のボクサーの話をしてあげると大喜びしていました。メディアや情報を勉強するにしても、やはりスポーツには国境がないと感じました。そういう点から言っても、ボクシングとメディアの関係を本格的に研究対象とすれば面白いのではないかと思います。ボクシングは1世紀以上の歴史があるわけですが、ただボクサーの勝ち負けだけでなく、もっと総合的な視点から学問研究の対象とすれば様々なことが分かったり、新たな問題提起に繋がったりするのではないかと思います。こうしたことも「ボクシング情報ラボ」を始めた理由のひとつです。

 

ーーー ボクシング情報ラボの活動と今後について

 

今村 :  ボクシング情報ラボが開設されましたが、実はこれは3年ほど前から計画していたことです。4年前に私が駿河台大学を退職して名誉教授になりましたが、少し時間が取れるようになったので浜田さんと前田さんとも話をして、ボクシングをもっと幅広い立場から研究するシンクタンクのような組織が出来ないものかと相談したのがきっかけでした。ただし当初から予算もないし人材もいない中で、どのように運営していけばよいのか、なかなか妙案がありませんでした。

昨年、浜田さんが世界チャンピオン会の会長に就いたのを契機としてホームページを立ち上げることになり、それと連動させる形で「ボクシング情報ラボ」のブログを始めることになりました。とりあえず活動計画を示して少しずつ活動の幅を広げていきたいと思っています。ここで私とお二人との関係を簡単に説明しておきましょう。

浜田剛史さんと最初に会ったのは、1990年12月にWOWOWでマイク・タイソンの特番を制作することになり、そのときの解説者と担当の構成作家という形で会いました。当時はまだWOWOWは辰巳のスタジオが出来る前で、浅草のROXスタジオというところで収録が行われました。そこで初めて浜田剛史さんと会いました。浜田さんには特別な思いがありました。浜田さんがレネ・アルレドンドを1RにKOして世界タイトルを獲ったのが1986年7月24日でしたが、実はその日は私の誕生日でした。当日はテレビでその様子を見ていましたが、この人とは何かご縁があるかもしれないと感じていたのです。そして何よりも圧巻だったのは、浜田さんが衝撃的なKO勝をして場内が大騒ぎになっているのに本人は至って冷静で、試合後のインタビューでも何事もなかったかのように一言一言、答えていたことでした。長い年月をかけた末に念願叶って世界チャンピオンになった直後は、間違いなく人生最高の時でしょうから、誰でも取り乱したり大騒ぎしたり言葉にならなかったりするのが普通だと思うのですが、この人はどうしてこんなに冷静でいられるのだろうと思ったりしました。私自身もそういうところがあるので、もしかするとどこかでご縁があるかもしれないと直感したのかもしれません。

それから4年後、浅草のROXスタジオで初めて浜田さん会ったときも、なぜか初対面とは思えないような気がしたものです。それ以来、私はWOWOWエキサイトマッチを10年間、担当しましたが、ほぼ毎週のように番組の打ち合わせや収録や、次のビッグマッチの仕込みなど話をする機会がありました。エキサイトマッチでは世界中から最高峰の世界タイトルマッチの試合が届いてきました。それまでの視聴者は日本人ボクサーがいかにして世界タイトルを獲るのかということばかり関心が集まっていたと思いますが、このエキサイトマッチでは外国人同士のスーパーファイトを紹介することにより、世界の最高峰はこれだけスケールが大きな世界であることを伝える目的もありました。解説の浜田剛史さんとジョー小泉さんは、このような目的を実現するには最適のコンビでしたが、いかんせんこれではボクシングマニアだけを対象とした番組になってしまいます。WOWOWのスタッフも番組制作の経験が少ない人が多かったので放送開始当初は試行錯誤の連続でもありましたが、浜田さんとジョー小泉さんといつも話していたことは、ボクシングの本物志向を貫いていくという点ではぶれないようにしようという点では一致していました。WOWOWは日本では初めての有料チャンネルでもありました。毎回世界の最高峰のボクシングの試合を見ることができるわけですから、この番組にはお金を出しても見る価値があるという意識を持ち続けたいと考えていました。結果的にはその基本方針が良かったのでしょう。安易にバラエティ色に染まったりせずに、しっかりとした番組作りを続けてきたことが視聴者にも受け入れられたのだと思います。

その後、私は駿河台大学教授に赴任しましたが、それでも時折、浜田さんとは電話で試合のことや番組へのアドバイスやボクシング界のことなど、いろいろと意見交換してきました。浜田さんは、今や日本のボクシング界を代表する存在ですが、同じ番組を担当した作家として、またメディアやジャーナリズムを専門としてきた研究者として、何か一緒に協力して出来ることはないかと考えていたのです。そういう経緯があって、ボクシング情報ラボのブログを開設することになったわけです。

またボクシングビート元編集長の前田衷さんとも、長いお付き合いです。私がエキサイトマッチを担当するようになってから間もなくして、当時、前田さんが編集長をされていた「ワールドボクシング」に「グローブ雑学」というコラムを連載させていただくことになりました。また「ワールドボクシング」の特集号では長編の原稿を担当したり、年末のボクシングの有識者による最優秀ボクサーベスト10を選ぶ選者に加えていただいたりしました。前田さんが書いていた原稿は「ボクシングマガジン」の時代から毎月のように読んでいましたが、本当にボクシングの生き字引のように思っていました。ジョー小泉さんと前田衷さんは、日本ボクシング界の偉大なるご意見番だと思いますよ。今回、前田さんにはボクシング情報ラボの趣旨にも賛同いただき事務局長を担当していただくことになりました。ボクシングは各々の時代の移り変わりが速いものですが、それを歴史的な視座から捉えられる希少な人材です。ボクシングに限らず専門誌などの活字メディアが次々と姿を消していく中で、過去の貴重な情報を次世代にも伝えていかなければなりません。これからのネットの時代にも十分活かすことが出来るようなボクシングの情報管理やアーカイブの機能などを、ともに考えていただきたいと思っています。

このボクシング情報ラボは、決して規模を大きくしたり利潤を求めたりするようなことが目的ではありませんが、できる限り少数精鋭でボクシングの情報を広く深く掘り下げて考察していけるような環境を作っていきたいと思っています。またこの会の趣旨に賛同してくださる方を対象とした企画も今後講じていく予定です。こうした活動が若い世代にも広がり、ボクサーやトレーナーだけでなく、記者、ライター、カメラマン、エディター、放送作家、ディレクター、等、ボクシング情報に関係するプロを目指す人たちの人材育成に繋がっていくことを期待しています。

 

 

 

             今村庸一 理事長

 

 

 

 

 

 

浜田剛史 会長からのコメント

 

 

浜田剛史さんは、1986年にWBC世界S・ライト級タイトルを獲得し、15連続KO勝の日本記録保持者でもあります。また現在、日本を代表する名門ジムの帝拳ジムの代表であり、昨年からは日本人の世界王者の会であるボクシング世界チャンピオン会の会長も務めています。現役引退後は、日本テレビやWOWOWで世界のビッグマッチの解説を35年以上担当してきました。内外のボクシング事情に精通しているだけでなく、ボクサーやトレーナーの立場に加えジムの経営や統括団体についても専門的な知識を持っておられます。この浜田さんを会長に、ボクシングの専門的な情報の意見交換をしてより広く深い視点からボクシングを考察していけるような組織である「ボクシング情報ラボ」(Boxing-Labo)が設立されました。今回は浜田さんが会長を務める世界チャンピオン会や昨今のボクシング事情についてお聞きし、さらにはこの「ボクシング情報ラボ」にはどのようなことを期待しているのか話していただきました。

 

 

ーーー 世界チャンピオン会の活動について

 

浜田 : 日本のプロボクシングで、最初に世界チャンピオンになったのが1952年の白井義男さんでした。それから70年以上の間に100名を超す世界チャンピオンが出ました。2010年に日本人で世界タイトルを獲得した人の栄誉を称え、社会活動に繋げていこうというのが世界チャンピオン会が出来た理由です。ガッツ石松さんがしばらく会長をしていましたが、昨年から私が会長を務めることになりました。これまで東日本大震災や熊本地震や能登半島地震のためのチャリティ活動などをしてきましたが、これからもう少し情報発信するためにホームページを立ち上げたところです。白井義男さんが初めて世界タイトルを獲ったのが1952年5月19日だったので、毎年この5月19日を「ボクシングの日」として活動をしています。今年はこの日に水道橋の東京ドームホテルに、世界チャンピオン経験者が約40名集まってパーティーを行うことになっています。これまでこの世界チャンピオン会は基本的にはボランティアで運営されていたので、あまり大きな活動が出来なかったのですが、これから広報活動なども含めて、さらに充実したものにしていきたいと考えています。

 

ーーー 近年の日本ボクシング界について

 

浜田 : 現在、日本のボクシング界は現役の世界チャンピオンが7人もいてまさに黄金時代にあると言えます。世界S・バンタム級の4団体を制覇している井上尚弥を筆頭に、バンタム級では4団体の全てで日本人が世界チャンピオンになっています。これはボクシング関係者やこれを支えてくれるファンの力があってできることですが、これから日本人ボクサーももっと世界の舞台で戦っていってほしいと思っています。ただどうしてもボクシングはプロの世界タイトルマッチばかり注目されますが、若いボクサーの育成やジムの経営などは簡単ではありません。これまで日本のボクシング界では、日本ボクシングコミッション(JBC)とジム経営者の団体である日本プロボクシング協会(JPBA)があって、ライセンス、ルール、等を取り扱ってきました。またプロとアマチュアではそれぞれの団体の方針で運営をしてきたため、日本のボクシング全体の発展に協力する体制になってきませんでした。最近ではボクシングのジムには、女性や子供たちもフィットネスやボクササイズのために来る人たちも増えてきているそうです。世界チャンピオン会としては、このような別々の世界の橋渡しをして、ボクシング全体の普及と発展に尽力していきたいと考えています。

 

ーーー プロボクシングでは4団体17階級にタイトルが増えたことについて

 

浜田 : 今、日本で公認されている世界タイトルの団体は、WBA、WBC、IBF、WBOの4団体あります。日本では、長年JBCはWBAとWBCの2団体しか認めてこなかったのですが、その後、世界のボクシング界が大きく変化してIBFやWBOの世界チャンピオンの中には、WBAやWBCのチャンピオンよりも実力が上だと見られる選手も出てきました。4団体が承認されるまで賛否両論ありましたが、様々な議論を経たのちに2013年にJBCも正式にIBFとWBOも認めて、日本人ボクサーがIBFやWBOの世界タイトルに挑戦できるようになりました。これによって特に軽量級では4団体で日本人の世界チャンピオンが誕生することが可能になったわけです。同じ階級の世界タイトルが増えることについては、反対意見も多くありました。そして正規王者のほかに、暫定タイトルやスーパータイトルや、休養チャンピオンなど、意味不明のタイトルも出てきたりして、そういう傾向に批判があったことも事実です。暫定王座については、元々は正規王者が不慮のケガや事故などのために試合が出来なかった場合、特別措置として暫定的に世界タイトルを認めるということから最初はWBAが採用したものでした。ところが、ひとつのタイトルでも正規タイトルと暫定タイトルで両方試合を行えばライセンス料が両方から取れるので、この暫定タイトルが必要以上に乱造されてきたことは否定できません。これがWBCやIBFにも拡大してしまい、世界チャンピオンの価値が相対的に下がってしまうのではないかという懸念も出てきました。そのため近年では世界タイトルを持つことが目標ではなく、真の世界一を示すためには、世界タイトルの統一戦をしたり、複数階級制覇をしたりすることが増えてきました。ボクサーにとっては世界タイトルを獲るチャンスが広がったという面はありますが、さらに高い評価を得るためには、同一階級の統一戦や複数階級制覇をしなければならなくなったので、一層大変になった面はあります。それでも4団体が公認されたことで、日本人ボクサー同士がお互いに刺激し合って、どんどんレベルアップしていくのは、とてもいいことだと思いますよ。世界に通用するようなボクサーが、どんどん出てきてほしいものです。

 

ーーー ボクシングを巡るメディアの変化について

 

浜田 : ボクシングの世界タイトルマッチは、これまでずっとテレビで生中継されてきたのですが、ここ数年でネット配信に大きく変わってきました。それからボクシングの情報という点では、新聞社にはボクシング担当の記者の人がリングサイドに来て取材していましたし、ボクシング専門誌の記者やカメラマンの人たちも定期的に情報発信してくれていました。ただここ数年で、インターネットを経由してパソコンやスマホで情報を伝えることが多くなり、ボクシングを巡るメディア状況も大きく変化しています。これにはメリットとデメリットがあると思いますが、メリットとしてはネット配信になると、どこでも手軽にボクシングの試合を動画で見ることが出来るようになることです。テレビがなくても、移動中でも試合をライブで見ることができるようになるので、利用者の拡大という点ではいいことでしょう。その反面デメリットとしては、本来であれば料金を払って見るようなボクシングの貴重な映像でも、著作権などの権利関係が殆ど無視されるような形で無料でネット上に出回ってしまうことではないかと思います。そして従来までは過去の貴重な映像はテレビ局がきちんと記録管理していたものが、ネット配信になると記録管理をしっかり行っていくところがなくなってしまう心配も出てきます。

それから今、世界タイトルマッチなどの配信は、Amazon-PrimeやAbemaやU-NEXTなど、新興のネット配信サイトで行われるようになりましたが、この体制がこのまま続いていくのかどうかはよく分かりません。番組を中継したり編集したりするスタッフは、ある程度ボクシングのことを知っている必要があるのですが、そのようなスタッフの教育や育成が今後やれるのかどうかも不安なところです。今から35年も前になりますが、WOWOWでエキサイトマッチが始まったとき、初めての有料チャンネルで世界のボクシングの試合を定期的に放送することになりました。私もWOWOWが開局したときからずっとこの番組の解説をしてきましたが、35年という時間をかけて番組自体がスタッフも含めて育ってきたところがありました。これからボクシングの試合を伝えるメディアの中心がネット配信になったとしても、やはり時間をかけてスタッフの人たちが経験を積んでボクシングの専門的なことを勉強していけるような環境を作っていってほしいと思います。

 

ーーー ボクシング情報ラボについて

 

浜田 :  ボクシング情報ラボは、3年ほど前からボクシングの情報を専門的に扱うシンクタンクのようなものがあればよいのではないかということで、話が上がっていました。日本で世界チャンピオンが誕生してからすでに70年以上、歴代の世界チャンピオンは100名を超えました。また世界のボクシングも、今ではWOWOWやネットを通してリアルタイムで見ることが出来るようになりました。このようなボクシングが歩んできた歴史を、より専門的な立場から研究したり分析したりすることも大切です。例えば、ボクシングはボクサーの健康管理が特に重要視されますが、その基準は日本と世界ではどのように違うのかを比較分析することも必要でしょう。ボクシングは世界中で行われる競技なので、異なる国の選手や異なる文化を持つ選手同士が対戦することも多いのですが、お互いに共通した基準や考え方を共有することは結構難しいことなのです。

それから現代のボクサーの活躍を知るだけでなく、何年か時が経ってから過去の試合の意味を、もう一度検証することも大切でしょう。ファイティング原田さんの時代、具志堅用高さんの時代、そして井上尚弥君の時代。それぞれ時代を代表するヒーローですが、どういう時代や社会だったのかを歴史的に考えてみる作業はあまり行われていません。社会や価値観の変化は、それぞれの時代のボクシングにどのように表れているのかを再評価することも必要です。

そしてボクシングは、同時代を生きている人間のドラマでもあります。世界の動向の中でボクシングがどのように関わってきたのかを考察することも、これからもっと必要になるも思います。

1990年代になって冷戦が終わると、旧ソ連のアマチュアの強い選手がプロ入りして世界タイトルを獲っていきました。日本のジム所属では、勇利アルバチャコフ(旧ソ連・ロシア)やオルズベック・ナザロフ(旧ソ連・キルギス)が世界チャンピオンになりました。彼らはあの時代を象徴するボクサーでした。

それと同じように、今ロシアと戦争をしているウクライナからは、ヘビー級ではビタリ・クリチコとウラディミール・クリチコのクリチコ兄弟が一時代を築きました。兄のビタリは、その後、政治家になって、今は首都キーウ市長として頑張っていますね。またウクライナと言えば、現在のヘビー級統一チャンピオンのウシクや、中量級のスーパースターのロマチェンコもいます。彼らがただ単にボクシングの試合をするというだけでなく、そのようなウクライナの歴史や政治と合わせて考えていくことも大切なのだろうと思います。

このようにボクシングを広い視点から見て、その背景や文化まで深く考えるような組織があるといいと思うのです。多くの場合、ボクシングは誰が勝った誰が負けたという現在の情報しか見えていませんが、専門的な知識や情報を持っている人たちが集まって、いろいろ情報交換を行いながら考察したり分析したりするような組織があるといいと思います。そういう点で、ボクシング情報ラボには、これからボクシングのシンクタンクのような役割を果たしてもらえるよう期待しています。

 

 

 

              浜田剛史 会長

 

 

ボクシング情報ラボ (Boxing-Labo) 開設にあたって

 

ボクシングに関する情報を扱う研究会として「ボクシング情報ラボ (Boxing-Labo)」を開設します。

現時点で、以下のような活動方針を立てています。

 

<活動方針>

 

1.      組織    当面は事務局を置き、会長、理事長、事務局長、等を置く

 

2.      活動    HPまたはブログを作成し、定期的に情報発信を行う。

         年に何回か例会を開き、テーマに沿って意見交換やヒアリングなどを行う。

         テーマに関して、現状分析や過去の事例、海外事情、国際比較、等を行う。

         テーマによっては、専門的知見を持つゲストスピーカーを招聘し、講演と討論を行う。

         ボクシング専門誌に、活動報告を行う。

 

         ※   以下、適宜、HPやブログやYouTubeなどを利用しながら、情報発信を行う。

 

3.     資格制度  当会としては、これまでの実績や経歴を勘案して、研究員としてフェローを任命する。

         フェロー制度は、理事会の承認を必要とし、研究テーマに即した人材を適宜選抜する。

         医師、弁護士、記者、ライター、編集者、カメラマン、研究者、等々、専門分野から選抜する。

 

4.      顕彰制度 ボクシングに関する論文、評論、随筆、などを公募し、審査して顕彰する。

        専門分野の研究論文や、ボクサーの人物伝、またボクシングに関連する評論などを発掘する。

        ボクシングに関する歴史的考察、社会的考察など、日本・世界を問わず斬新な作品を期待する。

 

5.      資料検証 ボクシングに関する資料を検証し、歴史的価値のあるものは、改めて再評価する。

        ボクシングの小説、ノンフィクション、マンガ、アニメ、映画、テレビ番組など、

        過去の作品についても、遡及して再評価を試みる。フェローも参加して研究する。

 

6.      研究   ボクシングに関する情報について、様々な分野を総合して研究していく。
 

(1)    ボクサーやジム運営についての研究 ・・ 個々の事例、海外との比較等

(2)    医学生理学的視点からの研究 ・・ 現行のボクシングの医学生理学的観点から分析

(3)    法制度の研究 ・・ ボクシングに関する法制度の検討。海外比較、運用の課題

(4)    メディア・情報の研究 ・・ ボクシングを巡るメディアや情報の現況と課題

(5)    産業ビジネスの研究 ・・ ボクシング産業の構造、海外比較、市場やモデル分析

(6)    歴史社会文化の研究 ・・ ボクシングの歴史社会文化との関係を多角的に分析

 

7.     その他  本会の性質上、出来る限り少数精鋭の組織にし、拡張を求めない。

        少人数からなる役員を中心にして、ボクシング情報の研究組織を構築する。

        財源は、ボクシング関係団体からの協賛制度や寄付金等を当面は考える。

        ある程度、組織が出来たところで、ボクシング担当記者等を通じて、新聞社や放送局等にも

        協賛を呼びかける。

        主な活動はネット上で行い、HPやブログ等を通じて活動実績を報告する。

 

 

<役員>

 

 

会長 :    浜田剛史   1960年生まれ。元・WBC世界スーパー・ライト級王者。1986年、レネ・アルレドンドを1RKOし

           世界タイトル獲得。現在、帝拳ジム代表、世界チャンピオン会会長。

           日本テレビ、WOWOW等で35年以上、解説者を務める。15連続KO勝利の日本記録保持者。

 

 

 

 

理事長 :   今村庸一   1956年生まれ。駿河台大学メディア情報学部名誉教授。メディア論。東京大学大学院社会学研究科卒。

           放送作家として数多くのスポーツ番組の企画・構成を担当。1990年よりWOWOWエキサイトマッチの

           構成を10年間担当。「ワールドボクシング」にもコラムを連載するなど多数執筆。

 

 

 

 

事務局長 :   前田衷   1948年生まれ。「ボクシングマガジン」「ワールドボクシング」「ボクシングビート」元編集長。

           1967年からボクシングの取材・編集を担当し、日本・世界のボクシング事情に精通する生き字引。

           最初の世界戦の取材は、藤猛がロポポロをKOした世界スーパー・ライト級タイトルマッチ。