・・『Zipangu』Is Japanese Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "One More Time.Back To 近代 Beginning"
We are Sumer‐Japanese.
(FunnyBomb).
■Singapore(シンガポール)攻略戦
昭和17年(1942)1月31日開戦、2月15日終結。
前月のマレー沖海戦で勝利した日本軍は、マレー半島を南下しシンガポールに上陸します。
マレー半島(現・マレーシア)とシンガポールは、英国の植民地で、事にシンガポールは、オランダ領東インド会社の資源確保の要衝でした。
日本軍は、石油を本国に輸送する為に、シンガポールを制圧しなければなりませんでした。
日本軍兵力は3万6千人、対する英軍兵力は8万5千人。
日本軍は、ブキテマ高地を占領、市街戦で激しい攻防が展開されましたが、講和会議(山下パーシヴァル会談)において、英軍が降伏した事により、シンガポール制圧に成功します。
当時、日本軍は兵士を輸送する車両が圧倒的に不足しており、兵士の移動手段は殆どが徒歩によるものでした。
しかし、作戦は迅速に遂行しなければならなかった為、徒歩から、自転車での移動と言う手段に変更します。
因みに、この自転車で移動する部隊を"銀輪部隊" と呼んでいました。
実は、マレー方面の作戦は、真珠湾攻撃と同時並行に着手されており、昭和17年(1942)2月にはマレー半島を、ほぼ無血開城しシンガポールを占領したのです。
●華僑・華人
シンガポール占領後、日本軍は、華僑・華人を特に厳しく取り締まりました。
因みに華僑とは、「支那以外の外国、この場合、支那本土、香港、台湾、マカオ以外の国に移民し、支那中共の国籍を持ち、移民先の国籍を保有しない支那人」で、華人とは、「支那以外の外国に移民し、移民先の国籍を保有している支那人」と定義されます。
当時、シンガポールにも、抗日運動(今の反日運動)の波が押し寄せていたので、日本人から見て、抗日運動を行う華僑・華人は、イコール共産主義者、共匪(赤匪)でした。
実際に、中共党員や国民党員がシンガポール内で抗日運動を展開していた事が幾多の書籍でも確認できます。
その為、日本軍が統治し、軍政をスタートさせてから、抗日活動家、及びその支援者と判断された華僑・華人(華僑義勇軍、共産党員、抗日団体に所属する者、蒋介石国民革命軍への献金者・抗日軍への資金提供者)は何千人と逮捕、死刑に処されました。
戦後の話になりますが、日本政府はシンガポールが独立国家になった翌年、昭和41年(1966)賠償金名目のお金6千万ドル(現・貨幣価値で約66.8億円)を支払い謝罪しています。
●二人のハリマオ
これも戦後の話ですが、シンガポール市内には、日本人墓地公園があり、WW2で戦死、殉死、戦病死、BC級戦犯として処刑された日本人等、日本軍将兵、軍人軍属の遺骸が納められています。
そして、この日本人基地の中で見逃してはならないのが、「マレーのハリマオ」の石碑です。
ハリマオとはマレー語で「虎」と言う意味です。
マレー(シア)の虎と言えば、真っ先に追憶しなければならないのは、山下奉文将軍(ヤマシタトモユキ)でしょう。
「マレーの虎 山下奉文の生涯」(ジョン・D・ポッター著)と言う本にも書かれ、マレー・シンガポール攻略戦で指揮官を務めた日本軍将校です。
山下将軍は、シンガポールのリゾートアイランド、セントーサ島にある博物館に、当時の降伏文書に署名した敗戦の将、英軍パーシバル将軍と共に銅像となり、また両軍の指揮官と幕僚達の等身大人形も再現展示されています。
しかし、マレーのハリマオは、一人ではありませんでした。
●復讐のハリマオ
戦時中、映画にもなった『マラィ(マレー)の虎』の主人公は「モハメド・アリー・ビン・アブドラ」と言う人物ですが、この人は実在する日本人でした。
彼は、マレーシアの盗賊団の頭領でもありました。
もう一人の「マレーの虎」の日本名は『谷豊』・・・実在の日本人です。
明治44年(1911)に福岡で出生したハリマオ・谷豊は、父の仕事でマレー半島のトレンガヌに移住し、外国で床屋を経営する親の稼業を手伝っていました。
ある日、彼が単身で日本に帰国した際、満洲事変(昭和6年)が勃発・・。
マレーの虎(谷)が、マレーシアに残した家族は、華僑(華人)による反日運動で幼い妹まで惨殺されたのです・・。
支那人お得意の・・ミューティレーション(Mutilation)による猟奇殺人だった事は、想像に難くありません‼️
知らせを受けて、電撃的にマレーシアに戻った谷豊は、泣き叫びながら、同時に在マレーシア領に住む華僑・華人、罪人を特赦により釈放した英国への復讐を誓い盗賊となりました。
当時、ハリマオは若干26歳。
ハリマオ(谷)は、2千人のマレーシア人を率いて裕福な英国人と華僑を次々に襲うのでした。
その存在は、たちまちマレー半島全域に知れ渡り、いつしか彼は民衆からも畏敬の念を込めて、マレー語の「虎」を意味する「ハリマオ」と呼ばれる様になったのです。
●ハリマオと日本軍
そんなハリマオに、日本軍への協力を呼びかけたのが日本陸軍の神本利男(カモトトシオ(北海道出身))でした。
神本は、満洲国を始め各戦場を渡り歩いて諜報活動を行い、生涯をアジア解放に捧げた人物でした。若くして戦死した様です。
彼はハリマオをこう説得します。
『もし、戦争が始まったら、その戦争は、このマラヤの大地をマレー人の物にする戦いの始まりだと俺は考えている。
今のマレー人の力では、とても英軍をこのマレー半島から追い出す事は不可能だが、日本軍の軍事力に、多くのマレー人が協力するなら、150年もマレー半島を支配した英軍と収奪の植民地勢力を、このマレー半島から追い出す事ができる』と・・
ハリマオの一団は、労働者に成りすまして半島最大の英軍防御陣地ジットラの工事現場に潜入します。
敵軍の陣地や周辺地図作成、貴重な軍事情報が彼等から日本軍へ提供されます。
また、意図的に工事を遅らせたり、作業機械を故障させるなどの裏工作も彼等によって実行され、日本軍の勝利に陰日向に貢献したのでした。
日本軍がマレー・シンガポール攻略戦で勝利できたのは彼等の貢献が深く関与しています。
■Burma(ビルマ)作戦
昭和16年(1941)12月開戦。作戦終了は、終戦とほぼ同じです。
交戦国は、日本軍、ビルマ国軍、タイ軍、インド国民軍 vs 英軍、英領インド国軍、英領ビルマ軍、中華民国軍、米軍。
日本軍兵力は約30万人、対する連合国軍兵力は不明。
この作戦下の日本軍・戦死者約18万人。
ビルマ作戦は、インパール作戦を含めた概念となりますので、戦死者数も同様にインパールでの戦死者を内数と捉えます。
この作戦は、連合国軍が支那・蒋介石政権をバックアップする為の、物資輸送ルート、所謂、「援蒋ルート」を潰す事、又、地政学的に現在のインドと接する為、インドを植民地化している英軍を追放する事などを目的とした作戦でした。
昭和17年(1942)3月8日、日本軍はラングーン(現・ヤンゴン)を押さえました。
しかし、日本軍は、おびただしい戦死者を出し、終戦までに本国に帰国できた将兵は12万人弱だったそうです。
援蒋ルートを押さえる意義は、連合軍の支那への援助物資の陸路からの輸送路を遮断すると言うものでしたが、ビルマの陸路を奪われた米英は、簡単に空路からの輸送に切り替えたそうで、そう言う次元ではあまり効果的な作戦ではなかった様です。
ビルマ(現・ミャンマー)の元首相バー・モウの言葉
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させる事に貢献した国はない。しかし、又、その解放を助け、或いは多くの事柄に対して範を示した諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。
真実のビルマ独立宣言は、(英国から離脱した)昭和23年(1948)1月4日ではなく、(日本占領下で独立を宣言した)
昭和18年(1943)8月1日に行われたのであって、真のビルマの解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東條大将と大日本帝国政府であった。」
■蘭印(インドネシア)作戦
あまり注目されませんが、オランダは、昭和15年(1940)5月、独国の侵攻に降伏し、以後ww2終結まで、独国の属国でした。
蘭印作戦は、昭和17年(1942)1月11日開戦、3月9日集結。現・インドネシア(旧・オランダ領東インド)で石油を確保する為、遂行されました。具体的には、パレンバン攻略があります。
現・インドネシア(蘭印)は、オランダが独国占領下でもオランダ統治が続行され、オランダ人が現地人を奴隷に等しいメイドとして雇い居座り続けた為、日本軍はオランダ人をインドネシアから追い出すべく、地元民の協力も得てジャワ島のパンドン要塞の攻略を遂行したのです。
パレンバン作戦は、大油田地帯、スマトラ島のパレンバンにある油田、製油所を連合軍に破壊される前に押さえる事を目的とした作戦でした。
作戦は成功しました。
インドネシア、モハメッド・ナチール元首相(インドネシア特殊要員養成隊、青年道場訓練所出身)の言葉
「アジアの希望は、植民地体制の粉砕だった。大東亜戦争は、私達アジア人の戦争を日本が代表して敢行したものだ。」
ジョージ・S・カナヘレ(米国人)の言葉
「日本は、インドネシア語の公用語化を徹底して推進し、インドネシア国民としての連帯感を人々に植え付け、広域の大衆をインドネシアと言う国家の国民として組織した。特に若者に民族意識を植え付け、革命の戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。又、PETA(郷土防衛義勇軍)の革命における意義は大きく、これなくしてインドネシア革命はあり得なかった。」
■珊瑚海海戦
昭和17年(1942)5月8日、日本軍は、パプアニューギニアのポートモレスビーを攻略する作戦を敢行します。
歴史上初の空母vs空母の戦闘となりました。
日本軍兵力は空母3隻、水上機母艦2隻、巡洋艦9隻、駆逐艦15隻。
対する米軍兵力は、空母2隻、巡洋艦9隻、駆逐艦13隻。
この戦闘で日米は、それぞれ空母1隻を失います。
日本軍は、空母以外にも駆逐艦1隻、一式陸攻、水上偵察機81機と言う多くの犠牲を出しました。
日本軍は、作戦の失敗でポートモレスビー攻略を断念します。この海戦による被害が、後のミッドウェー海戦の戦力不足の原因の一つとなっていきます。
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
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出典:vol.1参照









