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日米通商航海条約自動失効による事実上の破棄

 昭和15年(19401月 

 

米国政府による日本への石油製品、航空燃料、鉄の全面禁輸

 昭和15年(19408

 

独国軍(枢軸国)とソ連赤軍(連合国)

 この間、昭和15年(1940には、ソ連はフィンランドの一部を占領し、バルト三国にも侵攻、エストニア、ラトビア、リトアニアを自国ソ連に併合しました。

 ソ連は、国連からこの事を非難され、国連から除名されました。

 独国軍は、仏国パリを占領、続けて英国本土を空爆しますが、英国本土を堕とす作戦は失敗します。

 

 昭和16年(1941622、ナチスドイツは、独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連へ侵攻を開始し、独ソ戦が始まります。

 独国軍は、ユダヤ政策に基づきバルバロッサ作戦を決行すると、特別行動隊がソ連領内のユダヤ人殺戮を実行に移します。

 しかし、実際、特別行動隊がソ連領内に侵攻を始めると、250万人のロシア系ユダヤ人は独軍本体が現地到着する前に脱出していました。

   残るユダヤ人は、都市部におり、特別行動隊は、いよいよユダヤ人狩りを開始します。

   独軍本体もモスクワに攻撃開始します。

   特別行動隊の4大隊は、連行する事なく現地で約30万人のソ連市民を殺戮したとナチス本部に報告しました。

 昭和17年(1942の作戦終了までに90万人のソ連市民が殺害されました。

   彼等、ユダヤ人は殆ど無抵抗だったそうです。無抵抗だったが故に、作戦は、いとも簡単に遂行されてしまいました。

 ソ連赤軍に、領土の一部を占領されたフィンランドもソ連を相手に交戦を始めます。

 フィンランドは、独国軍と歩調を合わせてソ連軍と交戦しますが、国連から除名された筈のソ連赤軍には、何故か連合国軍が味方につきます。

 この辺りからソ連は、再度、連合国側として独国との攻勢を強めていきます。

 独国軍本体は、一度モスクワまで王手をかけましたが、ソ連赤軍の頑強な抵抗戦で押し戻され、フィンランド軍も後退します。

 

日独伊三国同盟締結

 昭和15年(1940927

 

近衛政権退陣、東條政権誕生

 昭和16年(1941、第二次近衛内閣(昭和15年(19407月~昭和16年(19417)は、米国政策に関して閣内不一致をきたした責任で、総辞職となりました。

   ここぞという時に、優柔不断な近衛は、政権を放り出したのです。

   後任の首相選びは、難航の結果、昭和天皇の信任も厚く、陸海軍を掌握している東條英機に大命降下)する事になりました。

 東條は、組閣に当たり、商工大臣に岸信介を指名しました。

 太平洋戦争は、東條政権下で開戦し、支那事変は、第一次近衛政権下で勃発した訳です。

 後の総理大臣となる岸信介もまた、東條政権の閣僚の一人として米国との闘いを挑まざるを得ない状況へと追い詰められていきます。

大命降下〜旧明治憲法下で元老達に総理を選任させた後、天皇陛下が組閣を命じる行為。

 

 かくして、岸信介は商工省に採用されて以来、21年目にして、商工大臣として国家機関を率いる事になりました。

   しかし、事態は、日米開戦目前の情勢の中で、ABCD包囲網(米英支蘭)により石油は枯渇し、様々な車両は木炭燃料に変更しようか、代替策として石炭へのエネルギー転換を図るか、自由経済から統制経済にすべきかの究極の政治的判断を迫られていました。

   出世を祝っている余裕はありませんでした。

   商工大臣と言うポストもまた、陸軍省、海軍省、外務省に次ぐ国の命運を背負う最重要ポストでした。

 

   大東亜戦争と言う呼び方をすると、一般的に、日本では支那事変から太平洋戦争を包括した定義となる為、齟齬が生じます。

 なので、ここから以降は、所謂太平洋戦争の記録をUpRoadしていきます。

 

真珠湾攻撃

 昭和16年(1941128(ハワイ時間127日)

 戦力は、日本軍が航空母艦6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、特殊潜航艇5隻、艦上航空機350機等。

 対する米国は、戦艦8隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦30隻、哨戒機14隻、航空機399機等。

 日本軍の戦死者は9人、米国戦死者は約2402人。

 連合艦隊司令長官、山本五十六は、米国との国力の差を認めていました。

 そこで、米国太平洋艦隊を撃破して南方作戦を確実にし、短期決戦で優位に立ち講和に持ち込む為に、同作戦・真珠湾攻撃を採用しました。

 ハワイ奇襲部隊は太平洋艦隊に空前の損害を与えました。

 又、戦後歴史学では、この作戦を米国は暗号傍受により、事前に知っていたとも言われています。

 果たして米国政府は攻撃される事を知っていて、開戦の大義名分を得る為に2400余人を見殺しにしたのでしょうか。

 攻撃は、日本時間午前319に開始され約2時間後集結しました。

 

 戦後歴史学では、真珠湾攻撃の折、在米ワシントン日本大使館が、米国の思惑と自らの怠慢によって、日本政府の発した宣戦布告の電文を真珠湾攻撃が終わった後、米国政府に提出しています。

   彼等が宣戦布告の電文をしっかり攻撃前の定刻までに米国政府に届けていたら、太平洋戦争は「JAPによる卑劣な奇襲攻撃」と世界中から批難される事はなかったと言われます。

 

■Philippine(フィリピン)攻略戦

   昭和16年(1941128開戦。昭和17年(1942510終結。

   日本軍兵力43千人、対する米軍兵力152500人。

   日本軍は、昭和161210、ルソン島に上陸し、翌昭和17年(194212、マニラを無血開城します。

   バターン半島に退却していた米軍を追撃しました。

   大苦戦の結果、日本軍は、米軍に大打撃を与えフィリピンの制空権、制海権を押さえました。

   この時の米軍司令官が、あのダグラス・マッカーサーです。

   マッカーサーは、敗戦濃厚になると、我先に戦地から脱出し「I Shall Return」と声明を発表すると、米マスコミが大々的に報じました。

   バターン半島降伏。コレヒドール島要塞降伏。

   この時の捕虜総数は、日本軍が当初予定していた25千人を遥かに上回る83千余人でした。

   マレー・シンガポール戦でもそうですが、日本軍は、人を運搬する車両が枯渇していた為、何をするにも移動手段は、基本徒歩でした。

   そんな事情が、のちにバターン死の行進と言う事件を誘発します。

 

 バターン死の行進とは、戦後南京事件と並んで日本に着せられた戦争犯罪の事。

 当時、フィリピンでのバターン半島攻略で激しい日米攻防戦が展開され、日本は米軍に一度勝利したのです。

   負けた米軍(米占領下のフィリピン軍も含みます)は昭和17年(194249、投降し捕虜となりました。

 その数約7万人、ところが戦地から収容所まで護送するトラックが日本軍にはありません。

 止む無く収容所の途中まで炎天下の中、徒歩で護送した・・結果、病気や戦闘による負傷、飢えや渇きが原因で捕虜のうち約17000人が亡くなったという事件です。

   これが捕虜虐待の末の大量殺人だと言って、戦後日本軍責任者が銃殺刑にされたのです。

 

■Malay(マレー)沖海戦

   昭和16年(19411210勃発、マレー半島東方沖での英軍・オーストラリア軍との戦争。

   日本軍戦力は九六式陸攻59機、一式陸攻26機。対する英軍戦力は、戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻。

   日本軍は、日露戦争での連合艦隊勝利の栄光から抜けきれず、海戦、特に大戦艦同士の決戦が勝利を決すると言う固定観念がありました。

   日本軍は、英軍の誇りである戦艦"プリンスオブウェールズ" を撃沈させ英軍に勝利します。

   チャーチル首相は「戦争の全期間を通じて、私はこれ以上のショックを受けた事がなかった」と述懐しました。

   しかし、この海戦で勝敗を左右したのは、戦艦ではなく戦闘機の活躍によるものでした。

   日本海軍の長距離戦闘機、零式艦上戦闘機(通称・零戦)と並び称される一式陸上攻撃機、通称・一式陸攻の爆撃によるものです。

   連合艦隊・総司令官、山本五十六は「レパルスは撃沈できても、プリンスオブウェールズは大破までだろう」と断言していた様ですが、総司令官の予想は、良い意味で外れました。

   この海戦が、所謂、大艦巨砲主義の事実上最後の戦いとなります。

 

 戦後のマレーシア。日本軍上陸50周年特別式典。

   マレーシア戦争博物館館長の言葉。

   ここ、コダハルは日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として、記念行事を担当しましたが、多くの人がこの重要な出来事を長く記憶に留めて頂きたいと願っています」。

 

   マレーシア元・上院議員の言葉。

   私達は、マレー半島を進軍していく日本軍に、歓喜の声を上げました。破れて逃げて行く英軍を見た時に、今まで感じた事がない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、各々の民族の母国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。マレー独立の具体策と基本策は、ww2当時のマレー人青年のJapan Group によって、進められたと言っても過言ではありません❗️あの当時のマレー国家計画庁は、マラヤの訓練所や日本に留学した南方特別留学生の同窓会の雰囲気でした」。

 

ラバウル戦戦場:現・パプアニューギニア(旧・独国領ニューギニア)のガゼル半島にあった軍港町)

 戦力は、日本軍6千余人、対するオーストラリア軍1500余人。

 戦死者、日本軍約10余人、対するオーストラリア軍300人以上。

   昭和17年(1942123、当時、パプアニューギニアのニューブリテン島ラバウルは、オーストラリア領ニューギニアにあり、日本軍の相手はオーストラリア軍でした。

 日本軍は、艦船から戦闘機を出撃させ、ラバウルを空襲します。

 駆逐艦から艦砲射撃を行い、陸軍がラバウルに上陸し、激しい地上戦を展開します。

   日本軍の南海支隊と海軍陸戦隊の攻撃によりパプアニューギニアのラバウルとカビエンは陥落、オーストラリア軍は抵抗少なく降伏しました。

 オーストラリア軍は、1000人以上の捕虜を出し、ラバウルとカビエンは陥落。

   日本軍は、ラバウルに飛行場を設営し、南方の軍事拠点として、ここから数々の日本軍戦闘機が南方諸島の戦場に飛び立ちます。

 

To Be Continue

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:vol.1参照