・・『ZipanguIs Japanese Big Picture First. w

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Back To 近代 Beginning"

 We are SumerJapanese.

FunnyBomb.

image


Back To

 

■ノモンハン玉砕

 昭和14年(1939 820日午前5、ソ蒙軍は、日本軍を包囲し総攻撃を開始しました。

 この時の戦力は、日本軍が歩兵3万人弱、戦車部隊ゼロ、装甲車ゼロ、砲兵火砲100門、航空機約113機程度。

 対するソ蒙軍は、日本軍に対して歩兵1.5倍、砲兵2倍、航空機約515機、戦車部隊等。

 ソ蒙軍は、日本の平均三倍近くの戦力で総攻撃を仕掛けてきたのです。

 国境のハルハ河上空の制空権はソ連空軍に握られています。

 日本軍は、遂に前線も第二線もなく、火炎ビンも地雷も枯渇している状態で、ソ連軍の戦車が真っ向から日本軍に突っ込んできて、日本兵が踏み潰されていきます。

 ソ連軍の戦車からの火炎放射器が、容赦なく日本軍に浴びせられ、軍は撃滅寸前でしたが、なおも精神力で抵抗し続けました。

 

 824日朝、日本軍は弾尽き、井戸は占領され渇きが酷く、数日間飲まず食わずにして不眠不休の苦戦を強いられます。

 傷病兵となった者は、手榴弾により全員自決を選びます。

 日本兵は、決して投降し捕虜となる道は選びませんでした。日本軍塹壕の中から600人以上の遺体が引きずり出されました。

 日本軍の前進は阻止され、敵軍の猛攻により、遂に退却を始めます。

右第一線は、敵陣地に突入、敵戦車の逆襲を受け蹂躙され全滅に近い。小林兵団長重傷、酒井連隊長重傷、大中隊長は殆ど死傷す」。

 

ノモンハン停戦

 昭和14年(1939 830、参謀本部作戦課は、天皇陛下の親裁を受けてノモンハン事件の作戦集結命令を発します。

 915日深夜、両軍の代表による国境確定委員会が設置されました。

 916日午前7、全軍の戦闘行為と駐屯をやめ停戦する事が双方司令部から命令されました。

 こうして、公式にノモンハン事件が集結します。

 しかし、当のソ連軍は舌の根も乾かぬうちに、917日午前6、国境を越えて東部ポーランドへ侵攻を開始し、独国と大戦争を繰り広げていきます。

   日本軍は、ノモンハンの戦闘で国境紛争を武力で抑えようとした事や、北部仏領インドシナに進駐した事等が原因となり、米国を刺激する事に繋がります。

 

 

第二次世界大戦(ww2)開戦

 昭和14年(19399月開戦〜昭和20年(19459月終戦

 さかのぼる事、ww1で敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツ・オーストリア共和国を名乗っていました。

 又、旧オーストリア・ハンガリー帝国から分割された一部は、ハンガリー王国を名乗り、連合国と講和します。

 この講和をサンジェルマン条約と言います(大正9年(1920716発効)。

 仏国のサンジェルマン・アン・レー城で締結されたからです。

 条約発効後、ドイツ・オーストリア共和国は、「オーストリア共和国」に改名され、国名からドイツの文字は排除されると共に、オーストリアと独国の合邦は国連により禁止されました。

 又、敗戦国であるオーストリア共和国は、連合国に対する賠償も負っていました。

 

 昭和13年(1938、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラー(Hitler)は、独国の国家元首にまで上り詰めていました。

 ナチス・ドイツ、国家社会主義ドイツ労働者党です。

 旧オーストリア・ハンガリー帝国は、独国人、ハンガリー人(マジャル人)、チェコ人(ボヘミア人)、ユダヤ人等が住む多民族国家で、特に独国人が支配階級を占める国でした。

 オーストリア人のヒトラーは、オーストリアを独国側から併合しました。

 又、ヒトラーはチェコスロバキアのズデーテン地方の独国編入も要求します。

 チェコスロバキアは、ヒトラーの要求を拒絶します。

 この無理筋の要求に、英仏が難色を示し、英仏首相はヒトラーとミュンヘン会談(昭和13年(1938929)を経て、「これが、最後の領土的要求だ」と言うヒトラーの言動を信頼し、英仏はヒトラーの要求を許しました。イタリアも同意します。しかしそこに、チェコスロバキアの意志は反映されていません。

 これを宥和(ユウワ)政策と呼び、当時の全欧州人は、英仏の判断を勇気ある決断として絶賛しました。

 戦後歴史学では、この時、英仏が敢然とヒトラーに対峙していたなら、ww2は回避されたかも知れないとも言われます。

 しかし、これこそが後にww2の火種となっていきます。

 昭和14年(193991、独国がポーランドを侵攻。

 この日が、ww2開戦日となります。

 917には、ソ連もポーランドに侵攻を始め、ポーランドは2つに引き裂かれます。

 世界は、日独伊三国同盟を中心とするタイ、ルーマニア、フィンランド、満洲国等の枢軸国側と、米英仏ソ、支那を中心とした、カナダ、ブラジル、トルコ等の連合国側に二極化し、総勢61カ国、約11 ,100万人の兵力が参戦する大戦争となりました。

 この頃の日本領は、戦後の私達が考えるものではなく、南北朝鮮、台湾が領土にあり、上海租借地、山東省青島市租借地、パラオ、サイパン等の委任統治領、満洲国も同盟国でした。

 ヒトラーは、総じて日本人をアーリア人と比べて下に見ていましたが、表向きはあくまで好意的に接し、同盟を結びました。

 当時の外相、松岡洋右は、戦後、ナチスとの同盟を結んだ事を生涯の後悔とし贖罪したそうです。

 ナチス・ドイツの国家元首ヒトラーは、ポーランドの殆どを独国に併合しました。

   併合しなかった地域には、60万人のポーランド系ユダヤ人が住んでいました。

 

 

新生ゲットー各種収容所

   被併合地区には、鉄道沿線に設けた複数のゲットーにポーランド系ユダヤ人を収容します。

   次に、独国本国在住のユダヤ人もそれらゲットーに強制収容しました。

   鉄道を利用したポーランドにある複数のゲットーへの強制移送隔離が実行され、ヒトラーが「巨大なポーランドの労働キャンプ」と呼んだ総督府管轄区で、本格的大規模な強制労働が開始されました。

   この強制労働に従事したユダヤ人の平均寿命は6週間、長くても3ヶ月で死に至りました。

   このほかに事故や処刑による死者があり、正に強制労働は、労働の名を借りた殺人行為でした。

 

■Code Name T4

   実験的殺戮計画は総統府で起案され、ヒトラーは実験の命令を下しました。

   この段階では、あくまで精神障がい者の処刑を許可するもので、コードネームT4と呼ばれる実験計画でした。

   ユダヤ人虐殺に当たり、ナチス親衛隊(SS)は一酸化炭素ガスや、シアン系殺虫剤など様々な毒ガスを用意します。

   最初のガス室は、昭和14年(1939ブランデンブルクの安楽死施設に設置され、精神病患者4人を被験者として実験計画は遂行されました。

   その後、別の5箇所にガス室は新設され、通称「シャワールーム」と呼ばれました。

   犠牲者は、2030人単位で一組とし、シャワーを浴びるのだと騙され連れて行かれます。

   中に入ると、ドアがロックされ、医者が毒ガスのシャワーを放出すると言う残酷なものでした。

   この方式により、8万人から10万人が殺されましたが、昭和16年(19418、教会の抗議によって一旦中止となります。

   しかし、最終解決の為、二つのユニットが新設されました。

   「特別行動隊」「絶滅収容所」です。

   対ソ連作戦開始の際、ソ連在住の約500万人のユダヤ人を「ユダヤ・ボルシェビキ知識階級・撲滅」と呼び、親衛隊の殺戮部隊をソ連の戦地に送り込み、ユダヤを連行しポーランドの総督府管轄区にある収容所に送り込む。

   これが、当初の特別行動隊の任務でした。

 結果的に、対ソ戦における特別行動隊の任務は空振りとなります。

 

内務大臣・ヒムラー

 ナチスドイツの内務大臣、親衛隊SS指導者、警察長官を兼務していたハインリヒ・ヒムラーは、後に総統ヒトラーに抵抗し、独断で連合軍に降伏を宣言し、WW2末期には英軍の捕虜となり、程なく自害する事になる人です。

   彼、ヒムラーは一度だけ処刑現場を視察しました。

   その処刑場の殺害方法は銃殺でした。

   ヒムラーは、100人一組で銃殺されるユダヤ人を目の当たりにします。

   あまりの残虐非道さに、ヒムラーは、その光景を正視出来なくなりました。

   最終解決と言う名の大虐殺は、殺される側だけでなく、殺す側にまで精神的ダメージを与え始めていました。

 

死の絶滅収容所と各国の処刑率

   そのダメージを回避する為にも絶滅収容所の必要性が問われ、収容所は増設されました。

   ある意味、絶滅収容所とか「収容所」とか言うと誤解が生じやすくなります。

   当時、ゲットーはユダヤ人の収容所です。

 

   ゲットー以外に労働キャンプがあり、これも「労働収容所」と言う収容所です。

 

ワルシャワ・ゲットー及びアウシュビッツ

   最も有名なのが、ナチス占領下のポーランドのワルシャワ・ゲットーで、約50万人の隔離人数の内、約10万人が殺害されました。

   そして、アウシュビッツの様な虐殺専門の収容所は「絶滅収容所」と言いました。

   それに補助収容所を含めると、当時、ユダヤ人の収容所は独国領内に2500箇所以上も存在しました。

   中でもアウシュビッツは、線路と収容所が直結になっていました。

   アウシュビッツの殺人スペックとして収容所構内には、5箇所のガス室があり、24時間連続稼働した場合、1日で6万人を殺害する事が出来る恐るべき大量虐殺を可能にした収容所です。

   当時、欧州諸国には約8861800人のユダヤ人がいました。

   この内、ナチは67%に当たる約5933900人を大虐殺したと言われます。

   この欧州諸国の中で、最もユダヤ系移民が多かった国が、独国に併合されたポーランドでした。

   ポーランドでは、90%のユダヤ人が処刑されました。

   独国本国、バルト諸国(1)(エストニア、ラトビア、リトアニア)、オーストリア(独国領)でも90%の処刑率でした。

   ボヘミア保護領、スロバキア、ギリシャ、オランダ(独国領)での処刑率は70%

 なお、ギリシャは、独国、イタリア、ブルガリア三国に分割占領されていました。

   ウクライナ(初戦は独国領となり、末期はソ連領となる)、ベルギー(連合国)、ユーゴスラビア(独国領)、ルーマニア(初戦は枢軸国で末期に連合国となる)、ノルウェー(独国領)では各々50%のユダヤ人が処刑されました。

 日本人には、馴染みありませんが、ウクライナは、地政学的に東はソ連、西はポーランド、ルーマニア、スロバキアに囲まれ、独ソ戦の中でも過酷な激戦地となりました。

 wikiによると、国民の5分の1が死亡したそうです。

 戦後は、ソ連の衛星国となり、共産化が進められましたが、平成2年(1990ペレストロイカの潮流に乗り、ようやく議会制民主主義国家として独立しましたが、平成26年(2014にクリミアが再びロシア領に編入されることになります。

 

1〜バルト諸国はww2戦時下、ソ連占領下でした。

 

 

 

To Be Continue

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:vol.1参照

image