・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2020年(R2)、Big China、Small China(Special Asia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。
The XXX Files ・・・22th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Anti'Japanの向こう側"
(FunnyBomb).
Sumer-Japanese suite Lounge
私達は、太閤秀吉についてどれだけ知っているのでしょうか。
太閤秀吉の「太閤」て何でしょうか。
秀吉って、どう言う意味なのでしょうか。
秀吉は、秀吉ですよね。
豊臣って、どう言う意味なのでしょうか。
実は、知らないのは日本人だけではないでしょうか。(Bomb)
■出自と数ある名前
まず、前提としていきたいのは、太閤の伝説や逸話には、一次資料にも根拠のない話が多いと言う事です。
つまり、太閤記に記述のある内容は、史実ではない可能性があると言う事です。
実際は、偽情報と真実が織り交ぜられていると言うのが実情です。
秀吉と言えば、やはり名前が沢山あります。
サル、日吉丸、木下藤吉郎、羽柴筑前守秀吉、豊太閤、豊臣秀吉。
秀吉の生涯は、正に日本人なら誰もが知っている、サクセスストーリーであり、空前絶後の出世物語です。
貧困層の身分から、最高位の関白までのし上がったからです。
ノンキャリ、叩き上げの鏡と言ってもいいでしょう。
秀吉の父は、木下弥右衛門(ヤエモン)と言う織田信秀に出仕していた鉄砲足軽です(出典:太閤素生記)。
筆者(井沢氏)によれば、この記録は、大いに怪しいと言います。
織田信秀の時代は、まだ鉄砲は、そんなに普及していないので、すると鉄砲足軽と言う役職自体がなかった可能性が高いからです。
史料によっては、実母は"なか" ではなかったのではないか、弥右衛門が実父だと言うのも怪しいとさえ言われます。
他にも疑問は、多々あります。
まず、何故、日吉丸と言われたのか。
これは「秀吉はサルであり、当時、サルは日吉権現の使者(神獣)、だから日吉」と言う事が後世になってから言われたと言います。
秀吉の正妻、おねの実家は杉原です。
後に杉原家から尾張の武家・浅野(又右衛門)長勝の養子となり浅野の"おね" となります。
しかし、おねが杉原姓を名乗る前、本家は播磨で木下と言う姓を名乗っていました。その木下が播磨から尾張に移住して、土着し先祖の別姓、杉原を名乗ったと言います。
すると、秀吉の姓と、おねの実家の姓・木下は同じだと言う事になります。
これも疑問です。何故、上司の娘、おねとおねより下級身分の秀吉の姓が同じなのか。
秀吉は、最初から織田家の足軽だった訳ではありません。足軽よりも更に下級の身分です。そのような身分の者には、当時、苗字はありません。
おねは、結婚当初、自分より下級の身分の者と結婚したのです。
つまり、今で言う逆玉の輿だったのです。
そう言う事から、苗字のない秀吉に、おねの実家姓、木下を与えたのではないか、と筆者は言います。
実は、秀吉の父、木下弥右衛門は、これまでの日本史研究の結果、木下と言う姓ではないとされます。
First Name が弥右衛門であると言う事は間違いない様です。
しかし、弥右衛門は、尾張の自作農家。
時は、戦国時代、中世と近世の区別も曖昧な時代です。
江戸時代でさえ、苗字があるのは、公家や武家、奉行人位の者で、下々の民や農家出身者に苗字などある筈がありません。
後に弥右衛門が、織田信秀の徴兵制に足軽として志願したのは、ほぼ事実かも知れませんが、鉄砲足軽だったと言うのも事実ではありません。
秀吉が、織田信長に出仕したのは、天文23年(1554)、秀吉が18歳の頃です。
桶狭間の6年前の事だとあります。
それまでの秀吉は、8歳の時光明寺の寺小僧だったとか、三河の矢作川の橋の下で蜂須賀小六と出会ったとか、今川方の家臣に仕えたとか色々な伝承が残されていますが、これは、秀吉が、幼い頃から、各地を放浪していたからだと言われます。
■武功夜話 秀吉と蜂須賀小六(正勝)の出会い
弘治2年(1556)、生駒家長は、木炭や油売りの商人で、野武士や盗賊の襲撃に備える為、腕に覚えのある人物を屋敷内に出入りさせており、秀吉もその一人として出入りしていました。
秀吉は、この生駒屋敷で、蜂須賀小六(1526年生)と出会ったと書かれています。
生駒屋敷の別棟には、信長の側女となる吉乃(吉野)がおり、吉乃と信長の間には、既に織田信忠(弘治3年生)、信雄(永禄元年(1558)生)等の子がいました。
秀吉は、生駒屋敷で、信長本人に織田家への士官を直談判したそうです。
秀吉が、織田信長に出仕したのは、天文23年(1554)、秀吉が18歳の頃です。
額面通り受け取ると、信長が吉乃と親しくなったのは、美濃攻めを完了した後(と言う事は永禄9年(1566)より後)と言われているので、秀吉が織田家に奉公し始めたのが天文23年(1554)と言うのですから、史実とは既に温度差がありますが。
たた、生駒吉乃が信長の側女だったのか、濃姫が消えた後、正室となったのか、又、濃姫が最後まで信長の正室だったのか、離縁して織田家から出て行ったのかなど、詳しい記録は一次資料にもありません。
武功夜話が世に出たのは、昭和49年頃で、となると一次資料とは言えませんが、記主は、あの川並衆の前野将右衛門(長康)で、この本は前野の末裔、吉田氏所有の土蔵が伊勢湾台風(昭和34)で崩れた際に壁から出てきたと言うので、まんざら根拠のないものでもありません。
吉乃様は、信長公の7つ年上でバツイチだったと言います。
秀吉が小瀬甫庵に書かせた太閤記の中では、秀吉が信長に出仕を直談判したのは、永禄元年(1558)に清洲城での事だっととあります。
仮に、秀吉18の頃に織田家に仕えたのが真実で、秀吉の誕生日が天文6年(1537)で正しいとするなら、秀吉が織田家に召し抱えられたのは、単純計算で弘治元年(1555)と言う事になります。
あながち間違いではありません。
当時の年齢は数え年と満年齢の違いもあり、こういう細かい史実となると確認の仕様がありません。
ですが、諸々の資料との整合性を考えると、少なくとも弘治2年(1556)以降に、生駒屋敷にて、秀吉が信長に士官したと言うのは年代が間違っていると言う事になります。
ですが、学会や歴史論壇の間で囁かれるのは、少なくとも秀吉によって脚色された太閤記よりも、川並衆の前野が残した、武功夜話の方が信頼度は高いと言われている様です。
秀吉の歴史に、これ程の謎が隠されていたとは知りませんでした。
﹅秀吉の誕生日
太閤秀吉は、天文6年(1537)、尾張(中村)の自作農家、木下弥右衛門・なか夫婦の子として生を受けます。
それだけです、何月何日生まれか、そんな記録はありません。
しかし、"ない" と言い切るのは不適切かも知れません。本当はあります。
1月1日生まれです。
太閤記の引用でしょう。
実母(とされる)なかが、日吉権現で子宝の源をかけ、就寝すると日輪が飛んできて体内に入った夢を見たと言い、次の日に懐妊して、その日から数えて13ヶ月目で出産したと言うのです。
しかも、秀吉は生まれた時から歯が揃っていたと。
全くの作り話です。だから、1月1日と言うのは信用なりません。
我々日本人は、本当の豊臣秀吉を知っていると言っていいのでしょうか。
いや、実は知らないのです。
何故なら、秀吉の肖像画をよく見ていただきたいのです。
世間一般的に知られる、その肖像画は、京都の高台寺に所蔵されているものです。
何か、おかしい事に気付く筈です。
そう、手が異常に小さい事に気がつく筈です。
肖像画であるにも関わらず何故、こんなに異常に小さいのでしょうか。
秀吉の手には、指が11本存在したのです。
右手の指が6本。
手が、異常に小さく描かれているのは、そのコンプレックスを隠す為です。
筆者(井沢氏)は、言います。
「あなたは、この事を知っていましたか?」と。
これは、歴史上の事実です。
何故なら、一次資料、フロイスの日本史にも記録されている事なのです。
"片手の指が6本だ" と。
それだけではありません。
加賀百万石で有名な前田利家の一次資料「国祖遺言」が京都大学に所蔵されています。
前田利家と言えば、織田家家臣として秀吉とは、とても付き合いの長い戦国大名です。
その前田の国祖遺言にも、"秀吉は子供の時に右手の親指が2本あった" と書かれているのです。
前田は、こうも言っています。
「若い時、切り捨てた方が良かったのに、秀吉は後まで残していた・・・信長公が『六つめが』などと異名で呼んでいたのに」。
秀吉は、天下人になる以前までは、逆にこの事を隠そうとしていなかったと言います。
では、私達は安土桃山時代という時代区分の由来について知っているでしょうか。
"安土" は、安土城の事だとすぐに分かります。では、"桃山" とは何でしょうか。
桃山と言うのは、秀吉が隠居の際の城として築城した「伏見城」が建てられた場所が桃山と言い、そこから来ているそうです。
しかし、桃山と名付けられたのは、秀吉の時代の頃ではなく、意外にも江戸時代に入ってから、そこが桃の名所となったからだと言います。
筆者が言うには、飛鳥時代から奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸と明治以前の時代区分は、全て政権の所在地が名称となっているのだから、"安土桃山" と呼ぶのはおかしくて、この場合"安土大坂" と言うべきだと。
歴史学とは「歴史の真実」を追求する学問である筈だからです。
出典:豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会 編者 逆説の日本史 井沢元彦著 秀吉の天下統一戦争 小和田哲男著
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳真皮質は正常(だと思いますが)・・・