天下布武外伝4 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

Future Generation !

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

   Sub Title "True Historyの向こう側"

   Han-nichi Key Words Laboratory .

Japan's suite LoungeFunnyBomb.

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所謂、三日天下

   本能寺が焼け落ちた日の朝、信長暗殺の直後に、話を戻します。

      62、午前56時頃、光秀は、最初本能寺の奇襲が成功した事を見計らってから、二条御所にいた織田信忠を討ちました。

   それが、凡そ午前7時頃の事でした。

   信長の死をきっかけに、忠義心や絶望感によって信長の後を追う追腹をした者も出ます。

   焼け落ちた本能寺と二条御所跡から、明智軍は決死の捜索を始めます。

   しかし、信長、信忠親子の遺体を発見し特定する事は出来ませんでした。

   62、午前10時。信長が、明智軍に討たれたと言う情報は、安土城にすぐに伝わります。本能寺から、無事逃げ帰った者が伝えたのです。城内は、大騒ぎとなり、安土城の留守を預かる責任者、蒲生賢秀(ガモウカタヒデ)は、城中の織田家中の者を全員、日野城(蒲生の居城)に避難させます。

   65、無人になった安土城に、光秀率いる明智軍が入城します。光秀は、残っていた安土城の金銀財宝を、付き従っていた家臣、将兵、近江衆等に与えます。

   6月6日、一方秀吉は、毛利軍との和睦、あの有名な中国大返しを行って、毛利方が本能寺の変に気付かずに退却し始めるのを見届けた後、備中高松から全軍を率いて撤退します。

   この"気付かずに" と言うのが肝心でした。

   劣勢に転じた毛利軍であっても、信長が死んだと知って、再び息を吹き返し交戦状態になれば、秀吉は、光秀を討つどころではなくなるからです。

   秀吉は、6月6日の内に、沼城(現・岡山市、元は宇喜多直家の居城)に入り、翌6月7日朝に出発し、夜には、姫路城に到着します。

   備中から姫路までその距離、凡そ27里、現代の単位に換算すると約106キロだそうです。

   余りの猛スピードの為、着いて行けなかった家来も多数おり、彼等は山崎の合戦に参加できませんでした。

 

   その後も、秀吉の電光石火の進軍は続きました。何故なら、この進軍には、秀吉の天下布武がかかっているのです。

   百姓農民も、一族郎党も、秀吉の天下布武を夢見ていました。

   ですが、誰よりも秀吉の天下布武を望んだのは秀吉の右腕だった軍師・黒田官兵衛だったのかも知れません。

   官兵衛は現代で言えば、羽柴軍の参謀総長と言ったところでしょうか。中国大返しと言う作戦も官兵衛あっての事でした。

   67、午後5時頃、安土城の光秀の元に、朝廷からの勅使が派遣されます。

   勅使となったのは、信長、光秀両雄に親交のあった、あの兼見卿記の記主、吉田兼見改め、吉田兼和です。

   内容は「本能寺によって、皇居にも避難民が大挙して混乱しているので、何とかしてほしい」と言う、天皇陛下等皇族からの要請でした。

   安土城下は、町民も避難していたので、町からも一時的に人が消えます。

 

細川藤孝等造反

   68、光秀は明智軍を率いて山科、大津に陣を構え、翌69日京都へ出発。

   その日のうちに京都入りし、まず吉田兼和に会います。天皇陛下や皇太子、吉田神社に対して銀を献上し、"他の公家衆には会わないから帰すように" と吉田に伝えました。その日、光秀は吉田兼和と夕食を取ります。

 

   細川(長岡)藤孝と光秀は、本能寺の勃発前にも心中を吐露する手紙を送ったりしていた仲で、自分の味方になってくれると信じていました。

   大和の筒井順慶も同じく足利家家臣から織田家に仕えた者同士、光秀との交友は長く、明智家とは遠戚関係の間柄でした。

   光秀の娘、お玉(後の細川ガラシャ)は、細川の嫡男、細川忠興に嫁いでおり、明智細川も姻戚関係です。

   光秀は、味方に付くよう細川藤孝、筒井順慶等に勧誘の文を出します。

   しかし、文を目にした細川親子は、剃髪して信長に対する弔意を表し、光秀の勧誘を拒否しました。

   北摂津のキリシタン大名、高山右近も光秀の勧誘を断りました。

   一番頼りにしていた細川家や筒井順慶が寝返った時の光秀の胸中は如何ばかりだったでしょう。

   6月9日午前、羽柴軍は、姫路城を出発します。

   秀吉の電光石火の如き進軍は、明石、兵庫、尼崎と続き、6月13日富田(トダ、現・大阪府高槻市)にたどり着きます。その間、明石では、城攻めまで行っています。

   秀吉は、尼崎に駐留の際、神戸(織田)信孝軍、丹羽長秀軍、蜂屋頼隆軍、池田恒興軍、中川清秀、高山右近等を味方につけます。

   秀吉同盟軍は、信長急死の非常事態の中、特に、神戸信孝軍、丹羽長秀軍には動揺の余り逃亡する兵もあったものの、やがて約2万余人の大軍勢となっていきました。

 

   信孝(別名:三七(サンシチ)信孝)の四国討伐軍には、あの信長に手討ちにされた信行の遺児・津田信澄がいました。

   信澄の不運だったのは、妻が光秀の娘だった事です。

   信孝は考えました。「叔父・信行は、父が討ってしまったが、その父・信長が信澄の義父、光秀に討たれてしまった。恐れおののく逃亡兵が後を絶たない。ここは、信澄を討つ事で自軍の士気を取り戻すしかない」と。

   信孝は実行に移します。

 

山崎合戦

   こうして、信孝は信澄を討ち、大阪城に召集された信孝軍等は、士気を取り戻し、京から南下する場合の出口である"大山崎"で秀吉軍と合流しました。

   三七信孝は、秀吉軍と行動を共にしますが、この後に勃発する賤ヶ岳の合戦で、信孝は賊軍側の柴田勝家と歩調を合わせた為、秀吉軍に敗戦し、自害するのですから運命とは皮肉なものです。

   そして、613

   京都・天王山の麓(フモト)、大山崎が戦場となりました。

   "山崎の合戦" 、織田信長の弔い合戦が始まりました。

   秀吉連合軍は最終的に4万人に膨れ上がっていました。実は、秀吉はこの合戦を正に"天下分け目"と捉え、持てる財宝を全て家臣や下々の者に分配し、羽柴軍全勢力を出陣させていたのです。ですから、姫路城はほぼ無人の状態です。

   対する、光秀軍は兵力4千〜1万人(数字には諸説あり)。安土城には、明智秀満(光春)と共に数千人の兵を護衛の為に残して来ました。

  光秀は、明らかに平静を失ってました。

   10分の1の兵力で秀吉軍に勝てる筈もありません。細川等に見限られた光秀は、援軍が欲しかったに違いありません。

   であれば、安土城の護衛に数千人の兵力を割く事は、実にナンセンスと言う事が出来ます。

   降りしきる雨の中、合戦の幕が上がりました。数で圧倒していた秀吉軍は、僅か2時間で光秀軍の本陣を潰したそうです。

   光秀は、勝竜寺城(ショウリュウジジョウ、長岡京市)に入り、闇夜に紛れて近江の坂本城に移動を開始しました。

   その途上、山城の小栗栖(オグリス)(京都市伏見区)で地元農民の落ち武者狩りの餌食となり、竹槍で刺されました。

   光秀は、槍に一刺し食らったまま、300メートルほど馬を進めましたが、槍傷が重傷となり、ついに落馬し、「もはや、これまで」と悟って家臣に介錯(カイシャク)を頼み、無念の切腹をします。

   落ち武者狩りには、光秀以外にも450人の明智兵が餌食にされています。

   三日天下とはよく言いますが、正確には12日間の天下でした。

 

光秀無念最後

   家来達は、光秀の首と胴を別々に切断して付近に隠したそうです。

   翌朝、京都所司代の故・村井貞勝の娘婿、村井清三が、その遺骸を発見し、三七信孝に差し出しました。

   秀吉と信孝は、山崎の合戦に完勝した翌614日、本能寺の焼け跡に立ち寄り、信長の冥福を祈りました。

   信孝は、村井清三から受け取った光秀の生首を胴体と繋ぎ合わせ、信長が最後を遂げたであろう、本能寺の御殿に晒します。

   その二、三日後、光秀の遺体は、京の粟田口(アワダクチ)と言う場所に移して晒し者にされました。

   秀吉連合軍本隊は、明智軍の残党を追って、安土城、坂本城に追走します。

   実は、この時に前日の山崎の合戦で討死した明智勢の遺骸の多くを斬首にし、光秀同様、本能寺跡に次から次へと運び込まれ、晒し首として並べられました。

   その数、約2千個以上。

   重臣・斎藤利三は、山崎の合戦の後、他の明智方と同じく敗走しましたが、次期に拘束され、京都市中引き回しの上、処刑された後、同じく本能寺跡に移送、世に晒し首にされます。  

   そして光秀の遺骸と並べて粟田口でも晒されました。

   光秀の遺骸は、その後、621日に埋葬されたそうです。

   それは信孝、秀吉等、織田方の明智勢に対する凄まじい憎悪と復讐の表れでした。

 

信長葬儀

   信長の墓は複数存在します。

   一つは岐阜城下の崇福寺(ソウフクジ)。

   信長の側室(なべ)が納めた位牌が、信長の遺品と共に供養されています。

   墓と言うより、どちらかと言えば供養塔に近いものらしいです。

   もう一つは、一番有名な、大德寺です。

   信長の葬儀は、天正101015に、織田政権の正統な後継者、秀吉が大々的に執り行っています。施主は、秀吉と秀勝(羽柴家の養子となった信長の息子)で、大德寺の信長の墓は、秀吉が建てたものです。

   この葬儀に、次男・織田信雄(ノブカツ)、三男・三七信孝、柴田勝家とその妻、お市様は参列しませんでした。

   織田方の人間は、秀吉と反目していたからです。

   三つ目は、京都の阿弥陀寺。

   言い伝えでは、信長と懇意だった、この寺の住職が、信長が自害した直後、焼け落ちた本能寺に駆けつけて、弟子と共に信長の遺骸を秘かに運び、埋葬したと伝えられます。

   信長の葬儀は、日本史の行方に大きな影響を与えた天下人・織田信長には似ても似つかないてん末で幕を下ろしたのです。

   なお、あの本能寺の状況の為、どの墓にも遺骸は埋葬されていません。

 

信長暗殺は元々家康暗殺計画だった⁉️

   本能寺の謎の一つに"何故、信長は無防備の状態で本能寺に向かったのか" と言う問題があります。

   筆者(明智氏)が言うには、実は、信長の生前、反信長同盟の最大勢力、上杉家を打倒し、同じく武田家を討ち果たした結果、信長は、徳川家の同盟が必要なくなり、それは同時に織田家の脅威となる最大勢力が徳川家にすり替わる事を意味していました。

   生前の信長が、安土城で家康を招いて饗宴を催したのも、最も脅威となる一大勢力、家康を暗殺する謀略戦の下準備だったと言うのです。

   光秀と信忠、筒井順慶、細川藤孝、そして秀吉は、その家康暗殺計画が京都で実行される事を、予め信長から通告されていたと。

   勿論、トップシークレットです。

   家康の面前で、光秀に中国援護を命令したのも、家康を油断させる狙いだと。

   光秀は、家康饗宴の席上、"家康を本能寺におびき出すから、明智軍は中国出兵すると見せかけ、本能寺に出張って家康を暗殺せよ" と言った指示を信長から内々に下されたと。

   家康は、本能寺のあった62日に、堺を出発し、京都(本能寺)に向かっています(出典:茶屋由緒記 茶屋四郎次郎著)。

   だから、信長は僅かな手勢だけで悠々と本能寺に入ったものの、護衛が僅かだった事を最初から知らされていた光秀は、これが主君信長を暗殺するラストチャンスだと最終的な決断に踏み切り、暗殺のターゲットを家康から信長に切り替えて、本能寺の変を決行したと言います。

   あの信長が何故、容易く討たれたのかと言う疑問も、家康暗殺計画は、実に完璧な計画で、ターゲットとなる家康を、信長にすり替えるだけで簡単に信長を暗殺する事が出来たからです。

   家康暗殺を示唆する記録があります。

   明智軍の一兵卒、本城惣右衛門が書いた覚書には"信長様を討つとは夢にも知らなかった。山崎へ向かっていたところ、思いの外、京都へ行くとの事なので我々は上洛中の家康を討つものだとばかり思った。" とあります。

   フロイスの日本史にもこうあります。

   "兵士たちは、かような動きが一体何の為であるか訝り(イブカリ)始め、恐らく明智は信長の命に基づいて、三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた" とあります。

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:検証本能寺の変 谷口克広著

    Wikipedia Japan、本能寺の変 四二七年目の真実 明智憲三郎著、逆説の日本史 井沢元彦著、本能寺と信長 藤井学著

 

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