世の中がピョンチャン冬季オリンピックに沸き、男子フィギュアスケートの羽生結弦選手が二度目の金メダルを獲得した2018年2月17日、1通の封書が私の手元に届きました。

前日、深夜まで勤務をしていた私に、同居する母が連絡してくれました。
「骨髄バンクから、いつもと違う封筒が届いているよ」と。
毎月、会報のようなものは届いていました。一般の封筒サイズで、色は薄めの緑色?青色?その記憶さえ曖昧なほどで、それこそ、初めの頃に何度かは熱心に目を通していましたが、最近ではさっと目を通すぐらいで、あまり気に留めることもありませんでした。
でも今回届いた封筒は、分厚く、鮮やかなオレンジ色の封筒。
表に<重要><親展><大切なお知らせです、至急開封してください>と印字された下には、大きく「公益財団法人 日本骨髄バンク」と書かれていました。

おおよその見当は付いていました。

<重要>と書かれたその通知文には、「コーディネートのお知らせ(適合通知)」と始まり、「骨髄または抹消血幹細胞提供についてのご案内です」と続きました。そして、「この度、あなた様と骨髄バンクの登録患者さんのHLA型(白血球の型)が一致し、ドナー候補者のおひとりに選ばれました。今後ご提供に向け詳しい検査や面談を希望されるかをお伺いいたしたく連絡ささせていただきました。」といった内容の文章と共に、大量の問診表と、「ドナーのためのハンドブック」と書かれたA5より少し大きめのピンク色の冊子、あと、問診表を返送する為の、返信用封筒が入っていました。

私がドナー登録をしたのは2014年5月17日です。
きっかけは、15年ほど前に当時2歳だった長男の発熱のため受診した救急外来でした。
カーテンの向こう側で、7歳ぐらいの女児が「白血病の疑い」という診断を受けていました。衝撃的でした。まだ若いお母さんが、さらにまだ若いおばあちゃんにすがり付いて泣いている光景を目の当たりにしました。“かわいそう“と思うばかりで、“もし自分の子供だったら”と考えると、私もぼろぼろと泣けてしまいました。
とは言うものの、それから約10年。子育て、仕事に追われ何も出来ていない日々が続いていましたが、決定的に私の背中を押したのが、東日本大震災でした。

たくさんの方が一瞬で命を奪われました。
私は関西在住ですが、それでも大きな揺れを感じ、1日中テレビに点滅する津波警報と、繰り返される特定のCMに、事の大きさが計り知れず不安に襲われたのを思い出します。
“私に出来ることなにかな?”“何か出来ないかな?”と思いつつも、思うだけ。募金はするもののボランティアまでは出来ず、あっという間に2年ほどたち待ちました。
この頃になると、ドキュメンタリー映像や、震災を題材にした映画なども見られるようになりました。
その中で、「生きたかったと思う」という遺族の涙と言葉を聞いた瞬間、不意に、15年前の救急受診の事を思い出しました。あの時の女児がその後どうなったのかを知る術はありません。

でも・・・、
震災では何も出来なかった・・・。
15年前のあの時、あのお母さんに声をかける事すら出来なかった・・・。

きっと、ずっと後悔していたんだと思います。

大勢の人に手を差し伸べることは出来なくても、
たった一人でもいい、
自分にしか出来ないことをやろう!
と一番に思いついたのが「骨髄ドナー」の登録でした。

これが、今まで何も出来なかった、してこなかった、献血すらしたことが無い私が、骨髄ドナーになろうと思ったいきさつです。

封筒が届いてから、ネットでいろいろなことを調べました。調べれば調べるほど、骨髄提供を待ち望んでおられる患者さんの数の多さに驚き、このオレンジ色の封筒に、文字通り「生きる希望」が込められているのだなと思うと、健康でいることのありがたみや、命の尊さなど、普段は考えもしないような思いで身につまされます。

どうか、このコーディネートが成功し、骨髄提供が出来る事を切望します。
どうか、頑張って!
どうか、どうか、成功しますように!!