光琳は宝永期貨幣改鋳に関し策動する為に
東下りの内蔵助と結託の説があるが
幕府の緊縮政策に触れ財産没収追放された内蔵助


MOA美術館開館当時購入した書籍には
パトロン中村内蔵助が
失職した旨が記されていました。

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よって
光琳は晩年金箔を手に入れられず
塗料を新開発して
いぶし銀の紅白梅図屏風を描いた_
と私論を持ちます。

それが、わたくしが
東京文化財研究所の調査結果を支持
する理由です。


光琳は晩年も貧窮し1713年には、
長男の寿市郎に宛てて
「相究タル家業モ之レ無ク」と
遺言書に相当する書を書いています。


良からぬことを奸した所為でしょぅか?

光琳は多くの雪舟画を模写制作しました
窮屈な江戸生活に心の安寧を得ることが
できなかったらしく、それを吐露した
書簡(大和文華館)がのこされているといぅ
ことです。



中村内蔵助は
1695年から金銀改鋳で巨額の富をたくわえ
1699年銀座年寄となる。
1714年幕府の緊縮政策にふれ,財産を没収,追放された。
1730年死去。63歳。京都出身。




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尾形光琳筆「中村内蔵助像」再考―
 元禄期京都町人の視点― 加藤 平(京都大学)


        尾形光琳筆「中村内蔵助像」
                       (大和文華館蔵)


 従来の研究では、
本作品が描かれた契機として
最も留意すべき、
画賛中の「没後之号」という語を
 考慮に入れず、
制作背景はおろか
作品そのものの位置づけにも
誤解を生じてしまった
が、

この「没後 之号」とは、
逆修という
生前に自身の菩提を弔う仏事に因んだ戒名と
考えられる。

一般に、
逆修は近 世になり行われなくなっていったと
されるが、
近世の往生伝には元禄期の逆修が数例確認され、
本作 品が
制作された頃も逆修が行われていたことが
うかがえる。

また、銀座役人であった内蔵助の
同僚深 江庄左衛門は
法華経の観音普門品を書写し、
肖像画の筆者である光琳の
父宗謙も逆修を行っていた、
 という周囲の状況から、
賛文に記される元禄十七年(一七〇四)三月に、
当時三十六歳の内蔵助が逆修 を行い、
それに付して本作品を制作依頼したことが
想定される。 

逆修は、
一般に還暦を迎えるころに
長寿を願って行なわれるものであった。

三十六歳という若き内 蔵助が、
逆修を行った理由には、
二條家への御目見得があげられよう。


『二條家内々御番所日次記』に は、
元禄十六年の年末と翌年年始に、
光琳を介して
二條綱平に接触し
初御目見得まで果たす内蔵助の 姿が見られる。


当時の京都文化人にとって、
公家は文化界の頂点であり
彼らと交わることは
「世に知 らぬ悦び」であったとされるが、
高級呉服商雁金屋に生まれ
幼いころから二條家に
伺候していた光琳 に対し、
内蔵助は(にわか)俄成金として
京都の分限者から交流を断られるなどしていた。


若くして内蔵助が逆 修を行なったのは、
二條家への御目見得を機にしてのことであった
のではないだろうか。 


本作品の画面を見てみると、
内蔵助は画面いっぱいに描かれ、
衣文には
曲線が多用され量感が強調 されており、
内蔵助自讃俳句の
「痩せけれど腹にこめたり春の山」と
いう気勢を思わせる

狩野派や 土佐派などの伝統的画派と異なり、
新たな需要を求めなければならなかった
新進の画師光琳は、
内蔵 助と心を通わせつつ、
旧来の肖像画とは異なる
斬新な創意を
この画面に込めたのである。