壷公が覧故考察_涯 如水の附録(Blog) -30ページ目

壷公が覧故考察_涯 如水の附録(Blog)

壺公仙人(涯 如水)が愚考・独行・栴檀の日々 それ、快適にして快活。 愚考する諸々に一期一会にて、日々之好石碑。 
放浪生活は人生の過半に及び、齢七十七歳を迎える。 デラシネ(根無し草)の彷徨から次なる世界に・・・・・・・・壷公曰く、天涯比隣の若し

8万人の命を奪ったドラキュラ伯爵のモデル「串刺し公」ヴラド3世の生涯

吸血鬼ドラキュラの名の由来となった、中世ワラキア公国君主の暴虐

【この企画はWebナショジオ_“古代文明・歴史の記事”を基調に編纂】

 

 

 ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」のモデルの一人と言われるヴラド3世は、現在のルーマニア南部にかつて存在したワラキア公国の君主だった。ワラキア公国は1859年にモルダビア公国と統合し、ルーマニア王国として生まれ変わる。ヴラド3世は、14481476年の間に断続的にワラキア公国を統治し、ヴラド・ドラキュラ(ドラゴンの息子という意味)とも呼ばれていた。しかし、敵を拷問するなど暴虐の限りを尽くしたことから、ルーマニア語で「ヴラド・ツェペシュ」、すなわち「串刺し公ヴラド」という呼び名で最もよく知られるようになった。一部では、その生涯の間に8万人以上の命を奪ったともいわれている。犠牲者の多くは、串刺しにされて殺された。

 

ヴラド3世の悪行が15世紀のヨーロッパに知れ渡ったのは、ちょうどその頃発明された印刷機のおかげだった。敵の手によって書かれたヴラド3世を非難するプロパガンダ冊子は、当時ベストセラーとなった。それから数百年後、古い歴史書の中にドラキュラの名を見つけた作家のストーカーは、ドラキュラとはワラキア語で「悪魔」という意味もあることを知り、自らの小説に登場する吸血鬼にその名を与えた。一方で現代のルーマニアにおいては、ヴラド3世はオスマン帝国の軍隊やドイツの商人から国を守った人物として、国民的英雄のような存在にもなっている。

 

 

ワラキア公の座をめぐる争い

ヴラド3世は、現代のルーマニア中部トランシルバニア地方で、1431年に4人兄弟の次男として誕生したとされている。

 

その年、父親であるヴラド2世はハンガリー王が創設したドラゴン騎士団の団員に叙任され、ドラクル(ドラゴン)という姓を与えられた。そして息子のヴラド3世は、「ドラゴンの息子」を意味するドラキュラあるいはドラキュリアと呼ばれた。1436年に、ハンガリー国王で神聖ローマ皇帝のシギスムントにより、ヴラド2世はワラキア公となるが忠誠関係は続かず、ハンガリーと対立していたオスマン帝国の皇帝ムラト2世と同盟を組む。するとムラト2世は、忠誠の証としてヴラド2世に対し、息子のヴラド3世とその弟のラドゥ美男公を差し出すよう求め、兄弟はとらわれの身となる。

 

1447年、国内の貴族による反乱でヴラド2世は暗殺され、ヴラド3世の兄であるミルチャ2世も、目をつぶされて生き埋めにされた。暗殺を扇動したハンガリー摂政のヤーノシュ・フニャディは、別のワラキア貴族であるヴラディスラフ2世を新たなワラキア公に任命した。この出来事がヴラド3世の復讐心に火をつけたかどうかは不明だが、1447年頃にオスマン帝国から解放されると、ヴラド3世はすぐさま行動を起こした。

 

1448年、16歳だったヴラド3世はオスマン帝国の助けを借りて、ヴラディスラフ2世を追放し、権力の座に就いた。ところが、そのわずか2カ月後にハンガリーがヴラディスラフを再びワラキア公に据えたため、ヴラド3世は国を追われ、それから8年間オスマン帝国とモルダビアを転々としていた。

・・・・・・明日に続く・・・

 
⨁⨂参考資料: ヴラド・ツェペシュ (1/3)  ⨂⨁

ワラキア公の座をめぐる争い

ヴラド3世は、現代のルーマニア中部トランシルバニア地方で、1431年に4人兄弟の次男として誕生したとされている。

 

その年、父親であるヴラド2世はハンガリー王が創設したドラゴン騎士団の団員に叙任され、ドラクル(ドラゴン)という姓を与えられた。そして息子のヴラド3世は、「ドラゴンの息子」を意味するドラキュラあるいはドラキュリアと呼ばれた。1436年に、ハンガリー国王で神聖ローマ皇帝のシギスムントにより、ヴラド2世はワラキア公となるが忠誠関係は続かず、ハンガリーと対立していたオスマン帝国の皇帝ムラト2世と同盟を組む。するとムラト2世は、忠誠の証としてヴラド2世に対し、息子のヴラド3世とその弟のラドゥ美男公を差し出すよう求め、兄弟はとらわれの身となる。

 

1447年、国内の貴族による反乱でヴラド2世は暗殺され、ヴラド3世の兄であるミルチャ2世も、目をつぶされて生き埋めにされた。暗殺を扇動したハンガリー摂政のヤーノシュ・フニャディは、別のワラキア貴族であるヴラディスラフ2世を新たなワラキア公に任命した。この出来事がヴラド3世の復讐心に火をつけたかどうかは不明だが、1447年頃にオスマン帝国から解放されると、ヴラド3世はすぐさま行動を起こした。

 

1448年、16歳だったヴラド3世はオスマン帝国の助けを借りて、ヴラディスラフ2世を追放し、権力の座に就いた。ところが、そのわずか2カ月後にハンガリーがヴラディスラフを再びワラキア公に据えたため、ヴラド3世は国を追われ、それから8年間オスマン帝国とモルダビアを転々としていた。

 

 

ヴラドを串刺し公と最初に呼んだのは、1460年ごろヴラドの串刺しを目の当たりにしたオスマン帝国の兵士であり、トルコ語で「カズィクル・ベイ」(カズィクルは串刺し、ベイは君主)という。このカズィクル・ベイのルーマニア語訳がツェペシュである。また、今日の異常者というイメージは後述するハンガリーによるプロパガンダの影響が大きい。

 

ドラキュラ公の由来

ドラキュラとは、ドラゴンの息子、つまり小竜公とでもいうような意味である。父ヴラド2世がドラクル(Dracul=ドラゴン公)と呼ばれたことに由来する。現地の言葉で”a”を語尾に付加することで「〜に属する」または「〜の子」という意味を持ち、単純にドラクル公の息子ゆえにドラクレア(Dracula=ドラキュラ)公と呼ばれた。

 

父ヴラド2世はジギスムント帝によりハンガリー王国のドラゴン騎士団の団員に任じられたことでドラクルと呼ばれたが、聖書、特に新約聖書では悪魔サタンは蛇、ドラゴンとして描かれることが多く、ドラゴンと悪魔は同一視されることも多かったため、後世では「ドラゴン公」であるはずの「ドラクル」は「悪魔公」と解釈され、「ドラキュラ公」であるヴラド3世は「悪魔の子」という不名誉な見方をされるに至った。

 

これは父ドラクルが初めから悪魔と認識されたのではなく、後の串刺し公としてのヴラド3世のイメージからDraculaが「悪魔の子」と先に解釈され、その父ドラクルにまで飛び火して「悪魔公」と呼ばれたものと思われる。

このイメージは後述のように、吸血鬼ドラキュラ伯爵へと発展していく。

 

        

 =上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

                                       ------ 姉妹ブログ 一度、訪ねてください--------                                     

浪漫孤鴻;時事心象 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

閑仁耕筆;探検譜講 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

・・・・・◇ ・ ◇ ・ ◇ ・ ◇ ・ ◇ ・ ◇ ・ ◇ ・ ◇ ・ ◇・・・・・