先日三連休で帰省した。

 

帰省するといつも行う儀式が「お墓参り」

 

僕の田舎は、とても田舎なので、道中その風景と空気を味わいながら墓地まで行くのが、

いつも僕にとってのご馳走だ。

 

高校卒業までの、

幼少期・思春期を過ごした期間は、今も自分に大きな影響を与えていることを知らされる。

 

いつもなら線香をあげて手を合わせるだけだが、今回はお花も用意した。

 

冬はお墓が雪に埋もれたりするので、墓地に行っても、

少し離れたところからお墓に向かって手を合わせるだけだったりもする。

 

今回は、お墓のアリーナ席。

 

お線香の煙がお墓を包んだ。

 

手を合わせて、ご先祖様たちと出会うひととき。

 

僕のルーツ。

 

”今の「私」があるのは、「あなた方」がいたから”

 

自分のルーツ、先人たちのことを想う。

近い親族以外は会ったことはないが、それでもそのありがたさを思う。

 

自分のルーツを思うことは、自分が今存在していることに驚かされ、

自分が今生きていることの不思議さを考えさせられる。

 

そして、決して自分一人では「自分」は存在せず、

自分一人では生きていけないことを確認させられる。

 

 

一連のセレモニーを終え、帰ろうとしたとき、

ふと、

お墓の側面に刻まれた文字が目に入った。

 

あらためて読んでみると、僕の知らない数々の名前や見覚えのないこのお墓の歴史なのか、

そんなリストが書かれていた。

 

しばらくそれを読み解こうとしたが、こんな経験は初めてだった。

 

そして気づいた。

 

それで、さらに、ふと、このお墓の隣にある、別のお墓に目をやった。

 

やっばっ!

 

焦った。

 

今、お花をあげ、線香をあげ、手を合わせたそのお墓は知らない人のお墓だった。

 

僕の先祖代々のお墓は、その隣だった!

 

慌てて全てを回収して、素早く、手際良く真の僕のお参りすべきお墓に、

何事もなかったかのように供え直した。

そして、手を合わせ直した。

 

 

でも、ご先祖様たちは知っている。

 

僕が間違えて、隣のお墓にお参りしたことを。

 

 

「お、来たぞ、来たきた」

 

と、先祖たちがざわついてたところ、その手前のお墓で参ってたのだから、

 

全員がユニゾンで、

 

「えーーーーーっ!」

 

て、なったのは容易に想像できる。

 

 

「お隣さんも同じ苗字だからなあ」と思ってくれてるだろうか。

 

「でもなあ…だからってさあ…」

 

て、感じだろうか。

 

 

それより、隣の知らないお墓の人はどう思ったのだろうか。

 

「誰?なんか知らない人が来てるよ」

 

「誰?誰?」

 

「なんか、特殊詐欺系じゃない?」

 

こちらもざわついたか、複雑な心境だったに違いない。

 

 

そんな、いろいろ思いながら帰宅した。

 

 

とりあえず、「ふとしたこと」で気づいて良かった。

 

その、間違えたままで帰らず良かった。

 

「ふと」に助けられた。

 

もしかしたら、ご先祖様たちが気づかせてくれたのかもしれないが─。

 

とにかく、参った参った…。