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雨にも負けずのブログ

人間は菩薩道で生きていくしか生きる道なし

いっぷくという字は何で一服と書くのか調べてみました。

その語源は、中国語で薬、茶、タバコなどをのむ回数を「服」というのだそうです。

これが語源のようです。

ツルゲーネフの言葉に「そんなに急ぎなさんな、暫く休みなさい。

お前を早足に通り過ぎて行った奴だってそんなに先には行っていない」

平成6年に友人6人で茶会を催しました。

茶道の先生をお呼びして流儀に従い茶を皆で戴きました。

そして我が家にあった掛け軸の鑑賞もいたしました。掛け軸は一幅と数えます。

    

書は良寛さん、相馬御風、澤木興道、などの書でした。

岡倉天心の「茶の本」に次のような言葉がありました。

「茶の哲学は普通の意味での審美主義ではない。

というのは倫理、宗教と結びついて人間と自然についての我々のありとあらゆる見解を表わしているからだ。

それは清浄を旨とするがゆえに衛生学である。

複雑で贅沢よりも、むしろ単純の中に自足を教えるがゆえに経済学である。

それは宇宙に対する我々の比例感を規定するがゆえに精神幾何学である。

茶道はすべての愛好者を趣味上の貴族にすることによって東洋民主主義の真髄をあらわしている」

何となく分かったようで分からない言葉です。

 

そして「美を友として世を送った人のみが(うるわ)しい往生をすることができる。」

趣味上の貴族にする、美を友とする人のみが往生する、というのです。


 

 

欲望が達成された時、人は幸せになるのだろうか。

腹いっぱい食べると苦しく場合によっては戻してしまうほど苦しい時があります。

欲望が達成された場合、欲望の達成感、優越心が膨らむだけで風船がパンクするような心境になるのではないでしょうか。

欲が更に欲を呼び込み地獄の中から抜け出せない人もおられるのではないでしょうか。

権利という言葉はどのような考え方が根本にあるのでしょうか。

権利の主張の強い人がいますが、好きにはなれません。自らの欲丸出し、権利の乱用となってしまうからです。

日本国憲法には、一人一人の人間がかけがえのない大切な存在であり、幸福を追求する権利があると憲法に定められています。

幸せを追求する権利と書かれているのです。

しかし幸せとは何かについては書かれていないように思われるのです。
 

 

平尾昌晃さんの遺産がらみで子供達が争っているようです。

お客様で家を売却したいのですが長男一人が同意しないので売却する事が出来ずに困っておられます。

昔は家督相続では被相続人である戸主が亡くなった場合は必ず長男が一人で全ての遺産を継承・相続するのが原則とされていました。

しかし今の民法では、そのようにはいきません。

法定相続人による分割相続になります。

相続という言葉を調べてみました。

『相続という言葉は,元はといえば仏教用語です。

簡単にいうと、「因果が連続して絶えないこと」というような意味です。

そもそも仏教は、「この世界のあらゆる物事は、姿かたちを変え変転するが、決して絶えることは無く、永遠に連続する」という考え方です。

次に、「相続」を一字ずつ紐解いてみます。

相続の「相」という字は、手相の相とか人相の相と書きますが、漢字の意味は「姿」という意味だそうです。

これは、見た目の姿もそうですし、人の存在や、あり方という意味の姿という意味があるとの事です。

相続とは先祖の教え、想いを継承することのようです。

今でこそ、この「相続」という言葉が法律用語に組み込まれて「財産を継承する」ことの意味として捉えられています。

しかし、本来は亡くなった方の想いや先祖の教えを受け継いでいく、後世へ残していく、継続し伝えていく、という意味なのです。

言葉の本来の意味を知ることにより、家族で争わずに、先祖の教えや想いを後世に残す「相続」になるようにしたいものです』

 

『人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思いだすべし。堪忍は無事長久の基、怒りを敵とおもえ。勝つことばかり知りて、負くることを知らざば、害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり-徳川家康』

若い時には、余り気にもしない、家康の言葉が身にしみる年頃になりました。

しかし家康は余程強い心の持ち主だったのでしょう。自らを律する事のできる偉大な人物だったようです。

昭和2年に亡くなられた曹洞宗の有名な僧に新井石禅という人がいました。

僧の掛け軸が我が家にありました。

「心は大山の如く八風を受けて動せず、量は大河の如く衆流を容れて漏らさす、人生を夢と観すれば悲しみもなく苦しみもなし、萬事を空と悟ればこそ花もあれ実もあれ 新井石禅」

(心を大山のように、どのような風が吹いても動かず、そして度量は大河のように全ての支流を受け入れて漏らさず、そして人生を夢のような一瞬であると観ずれば悲しみも苦しみもない、全てが空なのであるからこそ花も咲き実もなるのだ)

この様な心境が果たして煩悩だらけの凡夫に空の知恵が身につくのだろうか。

良寛さんは道元を師と仰ぎ勤められたようですが、最後は念仏三昧の日々を送られたようです。

『草の庵に寝ても覚めても申すこと南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 良寛』

 

出来物は体に、ばい菌が入り、そのばい菌が培養され、最後には膿んで破裂します。

一旦、ばい菌が入ると途中では中々治りません。

医者に行くと膿みきってから治療しましょう、などと言われます。

全ての組織は、ばい菌が繁殖しやすいのです。

余程の事がない限りは組織にしがみついていれば生活と地位、名誉が確保されます。

特に上に立つ者は権力という魔物を手にする事ができるのです。

いつの間にか私物化してしまい、その組織としての目的が希薄になってしまうのです。

所謂、ばい菌がはびこりやすいのです。

政治、スポーツ、会社、各種の団体、宗教など等の全ての組織が今、出来物が破裂しようとしているようです。

戦後の金権社会がそのようにさせたのではないだろうか。

組織は腐りやすいのです。

流れのない、どぶ池のようなものです。

ボウフラが湧き、異臭がただよい、死の池となってしまうのです。

何よりも大切な事は変革心、目的に向かって常日頃、改革を心がける事です。

上に立つ者は常に部下の意見に耳を傾ける、そして世間からどのように見られているかというアンテナを張っておく事が大切なのでしょう。

暫く前ですが善光寺のトップが解任させられました。

最近の葬儀などに出席させて戴きましたが、僧侶としての目的が鎌倉時代前の、死者が浄土にいってほしい、といわんばかりの葬式仏教になっています。

当然、組織としてもそのような意味合いの団体になっていると思われます。

今一番、膿んでいても、それを分かろうともせず、分からないままに流されているのが宗教界のように思われます。

僧侶は死人で食べている、ダニやハイエナなどと言われない様に、大変革を願いたいものです。

 

葬儀は殆どが仏式で行われます。

当然、僧侶が入場される時には、ご道師様ご入場、合掌を持ってお迎え下さい、と司会が会葬者に申します。

今年の田舎での大きな葬儀でしたが司会者からの、そに様な言葉がありませんでした。

そして今回の二つの葬儀は共に僧侶が何宗で、どちらの御住職であるかの説明もありませんでした。

根底に葬儀社の僧侶に対しての気持ちが希薄になってきているのではないでしょうか。

分けの分からないお経を読んで法話もせずに、お布施だけを戴いて帰られる僧侶が殆どなので、そのような事が原因ではないでしょうか。

香典を持参すると大概、引き換え券を戴きます。

そして帰りにはお礼品を戴きます。

その中には礼状が入っています。

以前はありきたりな文面が書かれていましたが、最近は故人の生き様を美しい文章で書かれているものが多いようです。

僧侶の読経よりも、その文章の方が余計に、ジンとくるものがあります。

そして女性の司会者も暖かい言葉で悲しそうに話されます。

もうすでに、今みたいな僧侶であれば、いらないのです。

昨日の礼状を見させて戴きました。

『「ご縁に彩られ実り豊かな人生を歩みました」家ではあまり多くを語らない、どちらかと言えば寡黙な印象の父でした。「こつこつと努力をしただけ、皆が幸せになれる」と思っていたのかも知れません。

不動産業を営みながら、入院する直前までトラクターに乗り、田圃を耕していました。

父が常に言っていたのは、「自分だけが良い思いをしてはいけない」ということ。

その言葉通り、海釣りに行って楽しんだ後は、釣った魚を周りに配り、喜んでいただく事を嬉しそうにしていました。

父は子供の私たちはもちろん、五人の孫にも深い愛情を注いでくれました。

一緒に笑いあった和やかな時間や私たちを信じ、歩む道を応援してくれたことなど、全てが大事な思い出です。

父が築き上げてきたものをしっかり守っていくことこそ恩返しになると信じ、皆で手を携え明日へ向かいます。

子供一同‐‐‐』

 

 

2日間も続けて葬儀がありました。92歳と72歳の不動産会社の会長さんで成功者といえる方でした。

お2人はどの様な気持ちで亡くなられたのだろうか。

生きておられる内に人生の宝物と出会えて亡くなられたのだろうか。

殆どの方が出会える縁なく亡くなられるのでしょう。哀れで悲しく気の毒なことです。

法然上人が亡くなる二日前にお弟子さんに遺言というべき、僅か数行の「一枚起請文」を書かれておられます。その中に「悉くすべて、必ずやただひたすら南無阿弥陀仏とお念仏を称えて往生させていただけるのだ、と確信してお念仏を称え

衆生の内に自ずと具わってゆくのです。」

 

 

阿弥陀仏を信じて日々に念仏を声に出して称えていれば自ずと極楽往生が定まる、というのです。

声を出す事を口称とも称名とも申します。

文章を写し書きする時に、声を出してから読み写し書く方が、声を出さないで読み写すよりも何倍も正確に書けるのです。観念では分かったようなつもりで終わってしまうのです。

不動産の仕事でも、やはり現地を実際に見ることが大切なのと同じなのです。

念仏が、何故阿弥陀仏の願に準じた正定之業であるのかといえば、罪悪生死の凡夫でしかない我々全てが往生するために実行できる正しい方法として、この念仏を阿弥陀仏が選択されたからなのです。

念仏の実践こそが人生で最も大切な行であるということなのです。

専修念仏・一向専念 無量仏こそが人間としてこの世に生まれて来ての宝物なのです。

その宝物を見ることなく逝ってしまう事ほど悲しい事はありません。

その事を仏が悲しんでおられるのです。

継続は力なり、と申します。

継続していると、その事をやらないと何かが抜け落ちている様に思えてしまい、自分を見失ってしまうように思えてしまうのです。

まずは初めてみましょう。

朝目覚めた時の念仏、顔を洗う時の念仏、トイレで用をたす時の念仏、仏壇の前での念仏、食事の前の念仏、家から出かける時の念仏、車に乗る前の念仏、会社に入った時の念仏、など等、悉く念仏を称えるチャンスがあるのです。

とりあえず朝に集中して一日に10回、念仏を称える事にしましょう。

それを癖のように継続、実践すれば、自ずと阿弥陀様が顕われ光を照らして下さるのです。

 

『スマートフォン用のニュースアプリ「スマートニュース」のCMの中でお笑い芸人の千鳥の大悟が相方のノブに「貴様は?」というセリフ、最初は違和感や不快感を覚える人が多かったようですが、最近のSNSのつぶやきを見てみると、概ね「笑える」「面白すぎて頭から離れない」などの好意的な意見が圧倒的に多いようですね!』との批評がありました。

貴様は、という言葉には人を馬鹿にしたニュアンスの言葉ですが漢字では貴いあなた様と書くのに何故か反対語で使われているのは何故なのだろうか。

調べてみました。

「貴様」という言葉が使われ始めた室町時代末には、実は文字通り相手への敬意を表す二人称だったとされています。

しかし、もともと武家の書簡で用いられていた「貴様」が庶民にも使われるようになると、そこに含まれる敬意は暴落したのです。

江戸時代後期にはもう、目下の者に対して使われるまでになってしまいました。

一説には、遊女が客に対して使い始めたことで一般化が進んだ、ともされています。

 

亡くなった人を偲ぶ時などに黙祷をします。わたしは白状なのか何も思わずに目を瞑るだけです。

黙祷という字は黙って(いの)るという字です。何を祷るのでしょうか。

多分、亡き人の霊魂が極楽浄土に往って欲しいとの意味合いなのでしょう。

人間の欲望なのです。

浄土真宗の考え方を調べてみました。

浄土真宗は「祈りなき宗教」と言われています。

自分の生き方や考え方などの自己点検を繰り返すのが本来の仏教です。

「病気が治りますように」とか「試験に合格しますように」など、自分の欲望を仏さまに押しつけるような行為は、仏教の因果の道理からもありえないことです。

ですから、浄土真宗は自分勝手な祈りを説かないのです。

しかし、頭では分かっていても、自らが大切とする者のために祈らずにはおれない不完全な存在なのです。

その願わずにはおれない人の心を、阿弥陀仏は大きなお慈悲の心で包んで抱きとめてくださっているのです。

私たち人間が不完全であるということを阿弥陀仏は見通され、私たちが願うよりも先に、すでに私たちに向かって働きかけていて下さっているのです。

ですから、そのは働きを受け容れざるを得なくなり、感謝の念が念仏となって顕れるのです。

 

人の死は様々です。

自然災害、交通事故などで一瞬にして亡くなる人、病気を患い長く闘病をされて亡くなる人、自ら命をなくする自殺者、認知症から亡くなる人、年をとり枯木のように亡くなる人、など様々です。

生きている内に善い行いをしたから穏やかに死ねる、又,生きている時に多くの悪事を働いていたから地獄のような苦しみを味わいながら亡くなるとは限らないのです。

此処に来て知り合いの同業者の会長さんが二人亡くなられ、お通夜に出席する予定です。

お一人は92歳で、もう一人の会長さんは72歳でした。

わたしは今、71歳、人事ではないのです。

それでは人生で、いつ往ってもいいようにするにはどの様に心がけ、実践すればいいのでしょうか。

この事こそが人生の一大事なのです。

その答えは「専修念仏」であり「一向専念 無量寿仏」の実践であり直ちに専念する事なのです。

他にはないのです。

専修念仏は字の如く、専ら念仏を修行とせよ、という事であり、一向専念 無量寿仏の無量寿仏とは阿弥陀仏に、他を振り向くことなく、ただひたすらに、専念せよ、という言葉です。

 

阿満利麿先生が、『阿弥陀仏は、私達が念仏を称えた時にのみ、私達の中に存在します。

阿弥陀仏は、抽象的にどこかに存在しているのではありません。

私が念仏をしなければ、阿弥陀仏は、どこにも存在しません。

念仏は、私達にとって阿弥陀仏が働いている姿ですから、阿弥陀仏が働いている以上は、念仏が「まこと」であることに間違いはありません。

念仏によって、真実が私の中に姿を見せているのです。

それが念仏ですから「ただ念仏のみぞ、まことにておはします」という事になります。

‐‐‐これは神秘的なことではありません。

「観無量寿経」にも書いてありますが、念仏を称える行為、あるいは摂取不捨(救う)という行為によってのみ阿弥陀仏が私に存在するのであって、西方浄土に客観的に存在している、ということではありません。

仏教における「救い」は嫌な状況が転換されてなくなるとか、不幸な状況が除去されるとか、そういったことではありません。

現実に起こっていることを、そのまま、たじろがずに受け止められるようになることが、仏教における「救い」です。

普通は、病気がなくなり、健康になることが救いになりますが、仏教流に言えば、つらい病気を受け止めることができる状況になることです。

この矛盾に満ちた世界を矛盾に満ちたままで受け止め、しかも、その矛盾を超えていこうと努力する在り方が、仏教における「救い」になります。

自分だけが救われたらいいというのは仏教ではありません。

生死の海の中で苦しむ人、全員が救われることを願うのが仏教です。』