長男の姿が見えなくなってから丸三年の月日が経ち、四年目を生きています。
同級生は高校二年生。人生で一番キラキラしている季節なんじゃないかな。
お参りに、と遊びに来てくれた子にも初めての恋人が出来て、まるで私が同級生かのようにキャーキャー騒いで恋バナなるものに花を咲かせました。「恥ずかしいから、うちのお母さんには内緒にしといてくださいね!」なんて耳まで真っ赤にして!
なんて可愛らしいんだろう、いきいきと今を生きている事だろうと心から嬉しく思いました。
あぁ…何故ここに長男が居ないのだろう…と切なく思う気持ちも、もちろんあります。
それと同時に、どうか健やかに、幸せに、『自分の人生』をいきいきと生きてほしいという願いが湧き上がります。
先日、葬儀でお世話になったお坊さまにお教をあげていただきました。仏教的には法事は何もない年にはなるのですが、節目にはお会いしたくなる良いお声のありがたいお坊さまなのです。(法事というにはこじんまりと家族だけでお教をあげていただくだけなのですが。)
その際に、こんな事をお話になりました。
供養というのはその字のごとく、人と共に養うということで、亡くなった方の事を現世で縁のあった人達と集まって話すことで養われる。
あぁ、まさにそうだよなぁーと思いました。
お茶会の存在だったり、研究会の存在だったり、長男の事を今でも話せる場がある事で私は養われているんだろうな、と思いました。
同級生の子たちも、長男の事を話せるのは我が家でだけかもしれない。恋人にはまだ話せないだろうな。
そういう意味でも『話をしよう』と呼びかける事は続けなければならないし、そのためにはまだ生き続けなければならないなとも思えるようになってきました。
大切な人の話をこれからもしていきたいですね!


