長男の姿が見えなくなってから丸三年の月日が経ち、四年目を生きています。


同級生は高校二年生。人生で一番キラキラしている季節なんじゃないかな。


お参りに、と遊びに来てくれた子にも初めての恋人が出来て、まるで私が同級生かのようにキャーキャー騒いで恋バナなるものに花を咲かせました。「恥ずかしいから、うちのお母さんには内緒にしといてくださいね!」なんて耳まで真っ赤にして!

なんて可愛らしいんだろう、いきいきと今を生きている事だろうと心から嬉しく思いました。 



あぁ…何故ここに長男が居ないのだろう…と切なく思う気持ちも、もちろんあります。


それと同時に、どうか健やかに、幸せに、『自分の人生』をいきいきと生きてほしいという願いが湧き上がります。



先日、葬儀でお世話になったお坊さまにお教をあげていただきました。仏教的には法事は何もない年にはなるのですが、節目にはお会いしたくなる良いお声のありがたいお坊さまなのです。(法事というにはこじんまりと家族だけでお教をあげていただくだけなのですが。)


その際に、こんな事をお話になりました。

供養というのはその字のごとく、人と共に養うということで、亡くなった方の事を現世で縁のあった人達と集まって話すことで養われる。


あぁ、まさにそうだよなぁーと思いました。

お茶会の存在だったり、研究会の存在だったり、長男の事を今でも話せる場がある事で私は養われているんだろうな、と思いました。


同級生の子たちも、長男の事を話せるのは我が家でだけかもしれない。恋人にはまだ話せないだろうな。

そういう意味でも『話をしよう』と呼びかける事は続けなければならないし、そのためにはまだ生き続けなければならないなとも思えるようになってきました。


大切な人の話をこれからもしていきたいですね!

先日、ヘアドネーションの為に髪の毛をカットしてきました。


サロンの方が動画にしてくださったのをキャプションで↓

(パサつきが…😅)


盛大に切りました!


ひと束だけ勢いが違う笑


超さっぱりとメンズカットにしてきました!

軽いー!


私は、長男がなくなる2日前に美容室に行っていました。

同い年の子がいる美容師さんで、子供の事も話しながら、その時もかなりカッコいい系の髪型にしていました。

いつもは「切ったねー」(似合うとは言わない😅)コメントをくれる長男が、何も言ってくれないなーつまらないなーと思った事を記憶しています。


きっと「それどころではない」心理状態だったのでしょうね。



それから、2年と8ヶ月。

私の中では、この髪の長さが長男と会えなくなった時間の長さそのもののような気持ちになっていました。


ポピーさんもヘアドネーションされたブログも拝見してましたし、昨年、実母が病気の治療の為に髪の毛が抜けてウィッグユーザーとなった事から、それならば寄付出来るようにケアしなけば、と去年から気持ちが少し動きました。


もう少し伸ばして…とは思ったのですが…

先日、名古屋お茶会に参加して、たくさん話して笑って泣いて、なんとなくこの髪(時)に踏ん切りが付いた気がしたんですよね。


確かに、この髪、特に毛先は長男と過ごした時からあったものだけど、細胞は入れ替わっている。

気持ちが上向く事を避けた所で、他人は見たいようにしか見ない。

「もう、いいか。」と思えたのです。


そんな時に浮かんだのが、星野源さんの「時よ」




時間をかけて少しずつ、それでも確かに変化していく。

それが髪として目に見える形として残せた事は感慨深いです。


『動き出せ 針を回せ   次の君に繋がれ』


私の「蓄積された時」が、また誰かの時を動かしてくれたらな、と思います。


先日読んだ新聞記事に、大変共感したので共有させて頂けたらと。


中日新聞の特集「結婚は無理ゲーですか?」の考察としての記事ですが、連載の第一弾としては、20代30代の声を取り上げていました。

続くシニア編として、第1回は夫婦関係の新たな形として"婚”の道を選んだ75歳の女性の話。第2回は熟年離婚を経て”役割”から解放された女性の話がとりあげられました。


その中で、筆者が取り上げたポイントの中で

「事件性の無さ」

があげられるという点が大変合点がいきました。


(以下引用)

ジェンダーギャップの問題は災害や政治スキャンダルといった劇的な出来事とは異なり明確な事件が起きない。

地震が起きた、政治家が10万円を配布した、などのショッキングな出来事がない。

だから当事者が社会にシグナルを発しない。どこにいけば取材できるのかも明らかでない。

そして記者たちもおそらくは事件性のない社会問題をどう記述すべきか訓練を受けていない。これが、問題の社会化を困難にしている要因だ。


***


そう!

「事件性のなさ」は

社会問題にならない!!!!!


私の直面し続けている問題もまさにそれ!

記事はジェンダーギャップについて述べてますが、きっと世の中のモヤモヤとする問題もつまるところ、ここではないかと。

私達のような遺族のことや不登校のこと、世の中にあるいろんな差別。


私も実際に取材を受けてみて分かったのは、事件性が無いなら記事に出来ないという点でした。

いやー、子供が亡くなるって十分事件なんですが…そこは世間とのギャップという事なんですよね…


犯罪という程の出来事ではない。

あるあるなのかも知れない。

気にし過ぎな自分が悪いのかも。

鈍感力を磨いてスルーするしかない…

結局、同じ立場の人はたくさんいるのに、社会問題化してないから知る由もなく…

結局自分の問題だと考え心が折れるか問題から目を逸らすかしかない場合もある。


そういう個人の問題で終わらせるのではなく、

「これってどうなん?」

という感じでもいいから社会に投げかける、というきっかけがあれば社会と個人が繋がれる、と思うんですね。


個人の問題を、広く知らせて社会と繋げるのは報道であって、社会資源と繋げるのはソーシャルワークなのです。そこがうまく繋がるかが運や縁ということなんでしょうね…むむむ〜。SWとしては、そこを運ゲーにしたくないし、されたくも無いんだけど、いろんな人が居るし相性もあるし、難しいよな〜とも思います。。



とはいえ!

こういう、いわゆる世間話で終わってしまうような事を取り上げる事が出来るのは、やっぱり新聞なのかなー、と思いました。