東国宝珠伝説番外編 麻賀多神社 成田市船形・台方 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

今回は東国宝珠伝説にはちょっと違うか?、と思って含めなかったけど一応宝珠伝説が残っているこちらの神社です。

 

麻賀多神社

成田市船形字手黒834

 

印旛にちなむ3神社の一つです

船形の方が奥宮になります

広い境内でした

拝殿

本殿です

女千木ですけど、うーん???

なんか違う感じがするなと思ったんですよね

たぶんその男性とはこの人かなぁと

印旛国造・イツコリノミコトの古墳です

入れないと思うでしょ?

神社の参道側から入れるんですね~(笑)

石棺が露出していたといいます

ということはすでに墓荒らしにあってるかと

伊都許利命墓誌

伊都許利命碑誌

伊都許利命墓誌の訳かな?

いや、案内板ありすぎだって(笑)

気持ちはわかるけどさ

案内よりも石棺の蓋をもっと見やすく、

かつ丁寧に保存してほしいっす

 

 

千葉県の麻賀多神社といえば、宗像神社・鳥見神社とあわせて印旛の三大神社です。

麻賀多神社は分社も多いんですが、その元宮とされているのが、この船形麻賀多神社です。

 

「千葉県神社名鑑」によれば御祭神は稚日孁命で

 

千八百余年前、日本武尊が国内平定のため水路御東征の折、当地に上陸されて農作の不振を知り、里人を集めて大杉の幹に鏡を掛け、伊勢神宮に祈願され、「印波国蒐瀛津鏡インバノクニタマオキツカガミ」として崇め祀れば、永く豊作が続くと教えられた。応神の御代、伊都許利命によってこの地に瀛津宮として祀られる。その後、天照稚日孁社、麻賀多大明神、同大神宮と改称、産業諸願成就の神として特に千葉家の崇敬をうけた。式内社麻賀多総社。

 

とあります。

「千葉県神社明細帳」には御祭神が雅日孁命(漢字間違えてますね、正しくは「雅」ではなく「稚」ですね)と、後年合祀された猿田彦命と市寸島毘賣命。イツコリノミコトが書き記したという記録からの由緒には

 

人皇16代加留島豊明天皇御代我此国に至りて巡り見るに地甚だあしく穀物成り難かれと思いて老民を召して向いしかば昔より穀物実らざりしを麻支向之日代天皇の御代小碓命東夷を言向平和して行幸の時御軍等を魚取船に乗て渡らせ賜う時に其船の遠く続て其先見えざりしければ船の尾長しと宣しからん 其船の出し所を船尾と言いき 御船高山に納めて築し塚船の形に似たりしかば此里を船形と言いき 命陸に上り給いて浦の幡の如くなると水鳥のさわに集り居りしを見しなりしを印旛の浦とぞ名づけ賜いき 故皇大御神の御教えの御印しとこそ悦びつつ松杉の覆い繁りし山に登りまして道暗山と詔いき 爾に大に松木のウロへ鏡を掛け賜いて伊勢の大御神をおろし奉り給いて此御鏡を瀛津鏡と崇め祭れば米麦自ら実のると教え賜いしと伝いき 故其御教のままにせしかば誠に詔したまう如くと言いき 故爾に印旛国魂瀛津鏡と崇め祭りて大宮社大教立て鎮め奉りて若日孁命と称え奉りき 故れ竒々妙々なるかな大しいつ(叺?)て甘き雨ふり甘き泉湧き出しにか植し田も播きし畠も日に月に弥益々に開け甚とさわに実り給いは民悦びて大神を敬いき 故爾に天照稚日孁命教えを曰く稚牟須毘之命を祭るに宇呂木の下に玉あり 掘り出し奉れと教え曰いき 故し夢の教えのままにしを七つの玉を取り出して奉りてより麻賀多真能大神と称い奉りしかば天の益人等弥や益々て富も足わしめき 故爾に皇御孫命の長の大御代を天地日月と共に登許登婆に守り給いて狭国は広くさかしき 国は平けず五つ穀つ物いやさわに実入しめ賜いと子孫の称つきづきに至ても祈きまらず事を神武天皇皇子・神八井耳命8世孫加留島豊明天皇39年印旛国造伊都許利命が記す 是の文は神代の文字以て記し賜いしを書き直し置くものぞ その様の誤り有るかは子孫等くらべしよかし 爾に人皇34代推古天皇16年国府津台稷山に和久牟須日能命を遷し奉りて大宮殿と称い名をわせて両口共々に麻賀多真の大神と斎祭りける 伊都許利命8世孫人皇35代舒明天皇7年弥生広鋤手黒彦が記す 爾に人皇50代桓武天皇延暦17戌寅年伊都許利命13世孫印旛国麻呂の時八代郷国府津郷両郷を社領となされ給いて皆な国司へ上けられ賜いき 爾にその孫豊主の時貞勧18丙申年官幣の祝文を納めその子家津の時延喜18丙寅年天皇の延喜式の御文に記させ賜いき 故御宝の玉とをやれ名なせるを畏みて麻賀多神社と御名を改め給いき 爾にその子手黒丸の時承平5己未年平将門謀反の進臣興世王より軍卒にめせけれども応ぜずしを社領残りなく奪い取られき 故爾に平貞盛是の神社に御祈誓成させられしより将門を誅し賜いてより祭田10区奉り給いき 故爾手黒丸神に宝として龍牙と国造印を納め初て大宮司と云いき 

 

まだまだ続きがあるのですが、宮司が誰の時に誰がどーしたという物なので割愛しました。

長い御由緒なのでスルーされてしまうかもと心配だったので太字にしておいたのですが、「七つの玉」というフレーズがありますね。

そう、麻賀多神社の御社殿では、宝珠と思われる玉は

7つなんです!

まぁ一宮町玉前神社に伝わる伝承には12個の場合もあったので、

数には驚きませんが、着目すべきは「すでに埋められていた」点です。

 

タケルの伝承には宝珠は出てきません。

瀛津鏡だけです。

じゃあこの宝珠は誰が何故埋めたのか。

私は船形麻賀多神社は元々は違う神様を祀る神社だったんだと思います。

拝殿の画像を見てもらうとわかるのですが、神紋が左三つ巴です。

 

しかもこの記事書いている間、ずっとメッセージがきててですね~。

取材にいったのは2020年の5月だったんですが、寝かせすぎて記憶が曖昧になっている部分があったのですが、どうしようと思っていたらすんごいメッセージが送られてきたんですよ。

 

「スサノオノミコト」

 

って。

おそらくイツコリノミコトからです、行った時はまだスピリチュアル的に目覚めていなかったので、ひたすら古墳にコーフン(ダジャレではないです、マジです(笑))しまくって、かなりハシャイでいる変な人でした(笑)

 

そのイツコリさんがこの神社はスサノオノミコトを祀る神社だったと伝えてきてくれてました。ここからはスピリチュアルなお話になるので苦手な方はスルーしてください。

 

 

 

 

 

イツコリさんは阿蘇系の多氏の一族とされていますが、早い段階で九州から東国千葉に渡って来た一族の子孫で、出雲系の一族や忌部や海人族と婚姻して血のつながりがあったそうです。だからスサノオを祀っていた、と伝えて来てくれたんだと思います。

ではなぜスサノオさんからワカヒルメに変わってしまったのか。

これは私の想像ですが、東国千葉の夷=東夷は捕らえられて他の土地に強制移動させられたりしています。

その時に文化が途絶えてしまったのではないかと。

(印旛地区は特に御祭神が不明な小規模神社が多いです 石祠に関してはほぼ祭神不明)

または支配者に忖度して御祭神を変更せざるをえなかった。

そういう事があったんだと思います。

宝珠についてはタケルが来た時に奪われそうになったと。なので宝珠は2つで1セットなのを知らなかったタケル達に1つだけ渡して、イツコリさんの氏族の他、3グループあって持っていた宝珠をまとめて隠したそうです。だから7つという半端な数だと。

宝珠は潮の満ち引きの他、雨を降らせたりと大事な宝であったようです。そりゃ狙われますね~。

で、麻賀多神社の「麻賀多」はどういう意味なのか聞いたら、「マカ」は仏教のお経の中に「マカハンニャハラ」とか出てくるじゃないですか、あの「マカ」で意味は大いなるとかすばらしいとかで、「タ」は元は「タマ」で宝珠のことを指しているそうです。

宝珠を守るための神社だったんですね。

東国宝珠伝説シリーズを書いていてあちこちに宝珠伝説が残っていることは皆様も御存じだと思いますが、聞いてみたんですよ。宝珠ってそんなにたくさん作れるものだったのか。そうしたら作れたと、各氏族とかグループとかに1セットあったと。でもそれを狙う敵がいて、皆隠したりした為、矛先が宝珠を作成する職人に向けられて、でも敵の意のままには作らなかった為に迫害され、その技術も廃れてしまったそうです。

イツコリさんによれば多氏も忌部もけして一枚岩ではなかったと、そこをつけこまれたと言っていました。

印旛地区にだけ祀られている「ある方」についても尋ねましたら、コメントをいただけたのでそれに関しては次の記事でご報告したいと思います。

他にもいろいろお話してくださったのですが、タケルが来て生活が一変したことや支配されていたこと。高台に船を埋めたのは時のリーダーが戦いで船上で命を落とされたので、船ごと葬ったこと。広大だった印旛沼を自由に行き来し日高見国とも貿易していたこと、そして時の大王であった蘇我氏の治世が本当に平和で公平で豊かだったこと。

最後に言われたのは「人は欲に身を任せると欲しがり過ぎる。だから戦が起こる。足るを知ることが大事だ」とのことでした。

タケル東征時の千葉県

海面上昇13mで(FloodMaps)

当時の印旛沼周辺

こんなに海でした

地図の①が船形麻賀多神社

②は次にご紹介する台方麻賀多神社

 

 

とりあえず船形麻賀多神社の境内社のご紹介です。

加志波比売神社

八代稲荷神社

左から高津神社、粟生日神社、世直神社(稲倉魂命)熊野神社、天神社

香取神社(経津主命)

祓戸神社

御神木

 

じつは古墳の反対側に伊都許利神社がありまして、イツコリさんはそちらに祀られていました(汗)

取材時は知らなかったので画像ありません、すみません(滝汗)

嬉々として古墳をうろちょろしている私が、変なヤツがきたな~と珍しかったので覚えていてくださったらしい(笑)

あ、イツコリさんはイツ(石)コリ(凝)で石の加工技術者という意味合いだそうです。石といっても宝珠とか勾玉とかだそうです。

調べてみたらアステカ神話の神でイツトリさんがいます。

生贄の儀式用に使われた黒曜石のナイフを司る神とのことです。

南米には縄文式土器もわたってますから言語的にも流入があったかもしれません。「石」を意味する言葉が「イツ」というのも、偶然ではない気がします。

 

 

 

さてさて、船形麻賀多神社は実は奥宮といわれておりまして、

もう一社重要な神社があります。

それがコチラ!

 

麻賀多神社

成田市台方字稷山1

 

こちらは参拝の方がたくさんおられて写真撮るのが難しかった・・・!

なんとか撮った拝殿

忌部の紋章でもある麻の実

ホントにダビデの星に見える~

扁額

マカの意味は前述しましたが

タマ→タ=多にしたのは「多氏だよ~」という意味も

あったのかもしれないですね

本殿もこのショットだけしか(涙)

女千木

こちらは本当に女神さまでした

 

 

まだまだ新しい拝殿でしたが、噂の麻の実紋を見て「おおーっ!」と

テンションが上がったのを覚えています。

こちらの台方社は「千葉県神社名鑑」だと御祭神は稚産霊命。

御由緒は

 

当社は遠く「延喜式」に名を止める由緒ある神社。応神紀、印旛国造伊都許利命が神託を受け、地中より珠を得て御鏡と共に霊代として公津郷手黒の地に祀り、推古の御代、現在の稷山の地に宮居を定め麻賀多神大宮殿と号した。現本殿は元禄10年、拝殿は宝永5年の再建。桓武治世には大伴家持卿が勅使として参拝、印旛沼畔に大鳥居を建て寄進し、以後61年毎に建替え現在に至っている。また本殿裏の御神木は樹齢1300年と称せられ、幹廻り10mの大杉。昭和10年千葉県天然記念樹に指定される。

 

神事と芸能として

 

往古より伝わる筒粥は1月15日未明にその年の吉凶を占う神事として、また獅子舞は市の無形文化財として共に当社の誇る伝統行事である。

 

「千葉県神社明細帳」では御祭神は稚産霊命、由緒不詳(!)。

本当に一言も書かれておりません。

時系列でいけば台方社の方が新しいので何か伝わっていてもいいと思うのですが、何もないところに闇を感じますね~(フフフ)

 

筒粥神事については多氏特有のものなのか、個人的には忌部な感じもするんですが、現時点では調べてないので何ともいえません。

そのうち調べてみようかなぁ。

 

なので境内社のご紹介をば、というかこの神社の境内社がとっても貴重なんですよ!

三つ並んであるのは

幸霊神社

青麻神社

猿田彦命神社

こちらの2つは

三峯神社

古峯神社

天日津久神社

天神神社

子安神社

大権現社

祓戸神

すんごい御神木

 

ざっとご紹介しましたが、実はまだあります。

それがこの2つ!

1つは

印旛国造神社で

イツコリさんなのですが

もう一つのこちらがっ!!

馬来田郎女神社!!!!!

 

ええええええっーーーーー!!!!!

 

 

馬来田郎女ってもしかして、

継体天皇の皇女の馬来田皇女?

 

それとも木更津の方に本拠地があった

馬来田国造の一族の女性?

麻賀多神社の宮司さんは多氏の子孫である太田氏なのですが、太田氏一族に関係する方だから祀られたのだとすると、馬来田郎女は多氏の一族であったのかもしれません。

 

注目する点は船形社には無くて、台方社にだけ祀られている点です。

船形社には加志波比売神社がありますが、台方社にはありません。

一説では加志波比売とは天照大御神の御幼名ともいわれています。

 

麻賀多神社の御祭神・稚日孁命はその名の通り若きヒルメを指しているので、大日孁命の後継者を指していると思います。

だからといって女神様が少女ということではありません。

英語でも子供にJr(ジュニア)ってつけるじゃないですか、

そういう意味合いだと思います。

で、ここからはまたスピリチュアル的なお話になるので

苦手な方はスルーしてください。

 

 

 

有名な「日月神示」はこの台方麻賀多神社の御祭神からの

メッセージだということは、ご存じの方も多いと思います。

スピ友と訪れた時も、ずっと言われたそうです

 

戦は起きるぞ

心しておけ

 

そして人としての在り方を得々と話されたそうです。

現在も一部では絶大なる支持を集めている「日月神示」、

私たちは「そうならないように」努力していかなければなりませんね。

 

 

 

 

 

ここで突如岸優太くんなんですが、何故彼をリスペクトしているかというと、本当に人として格が上なんですよね。

 

感謝の気持ちを忘れていないことも、努力を怠らないことも、周りに気を配ってみんなを笑顔にしてくれるところも、若いのにすごいなぁと。

 

彼から学んで私も

 

Thank you.

I can do it.

Happiness.

 

を信条に過ごしています。

なぜ英語なのかは岸担ならわかりますよね(笑)

 

風の時代に入ってスピ的なことに対する世間の見方も

ほんとうに変わってきたなぁと感じています。

その中で如何に自分の心持ちをポジティブに保つかが

ポイントだと思います。

好きな事に夢中になるのは大事だと思うし、

自由に伸び伸び自分を表現できる場所を持つことも大事だと。

性別も年齢も、もはや関係ない世になってきてます。

自分で自分に枷をつけないで、真の意味で

自由に楽しく生きていけたらいいなと。

 

その為にやらなきゃいけない事も勿論ありますが、

何の為に生きるのか。

意識して過ごしていくのも大切かなと思いました。

 

 

長い記事になってしまい、すみません。

本当は船形社と台方社の一つずつを記事にしようかとも思ったのですが、両方まとめての方がいいなと思い書いてしまいました。

馬来田というキーワードはまだまだ解明できていませんが、

少しずつヒントを集めていけたらと思います。

ではでは、皆さん熱中症にはくれぐれも気を付けて過ごしてください。