だんだん宝珠シリーズなのに宝珠とは全然関係なくなってきた
このシリーズ!(がびーん)
でも上総十二社がこんなに多彩でおもしろいとは思わなかった!
ぜひ最後までおつきあいください♪
さて、今回は上総国の一ノ宮が玉前神社で
三ノ宮が三之宮神社だとすれば、
こちらが二ノ宮なのかな、というコチラ。
二宮神社
茂原市山崎字宮の後927
鳥居と参道
参道の途中にある板碑
左が竣功記念 右が農水●●碑
こちらも筒粥神事があるんだ
参道の途中に公道が通ってます
境内に入ってすぐにある手水舎
んんっ丸に二つ引両紋が!
えっ里見家?
拝殿
扁額
本殿を左から
背後から
ちょっと離れてみた
二宮神社本殿改築記念碑
拝殿左側にあった境内社
こちらにも宝珠伝説はないのですが、当神社と三之宮神社はちょっと繋がりがありそうなのです。
なぜなら「千葉県神社名鑑」にある御由緒には
仁明天皇の嘉祥3年庚午8月13日の創立。氏子数は昔から五郷の宮と言われ五郷(山崎村・国府関村・押日村・国府里村・味庄村)である。
とありまして、創建の年が三之宮神社と一緒なのです。
さらに御祭神に関して、「千葉県神社名鑑」では鸕「茲鳥」草葺不合尊になっているのですが、「茂原市史」には
二宮神社
五瀬命を祭り二宮荘の総社で例祭に当っては、みこしが上総の総社玉前神社に至り古儀を執り行ったと伝えられる。山﨑字宮の後に鎮座する古社である。
五瀬命!?
えっ!?ぜんぜん違う神様じゃないの、なんでっ!?
「千葉懸長生郡郷土誌」によると
二宮神社
山崎区字宮之後にあり、村社にして祭神は五瀬命、或は鸕「茲鳥」草葺不合尊なりという。里伝によれば、本社は中古二宮荘の総社にして一宮神社に次げる古社なり。而して長柄郡中此の地のみ埴生郡に属せるは深き縁由あるならん。社殿壮厳にして古色を帯び、老木境内に繁茂して幽邃を極む。
古代は山崎地区は長柄郡ではなく今はもう失われた埴生郡(ハブグン)だったそうです。しかも二宮神社の鎮座地は飛地であったといいます。
なぜわざわざ飛地の当地を鎮座地に選んだのか?
それとも元々は周辺も埴生郡で、何らかの事情で当地だけ取り残されたのか?
その辺りは文献を調べても拾えませんでしたが、神社が鎮座している神聖な土地であったことから旧領地として残されたと考えるのが妥当なように思います。
ちなみに古代の埴生郡は長南町中央部から一宮町にかけて東西に延びた地域であったと「角川日本地名大辞典」にはありました。
では五瀬命ってどんな神様なのかです。
別名・彦五瀬命とも呼ばれ、神武天皇の兄として伝えられています。
父がウガヤフキアエズで、名のイツセは厳稲で聖なる稲の意味だそうです。
同じ年に創建の三之宮神社の御祭神の一人としても名を連ねておられますが、この他ではあまり御祭神として奉斎されていません。
関係あるのかは不明ですが、「五十瀬イソセ神社」という名の神社が何故か東金市内に幾つか鎮座しています。
五十瀬神社たち
①東金市東金字新宿1102
祭神 天照大御神
②東金市二又字源氏堀293
祭神 津速玉(現在は天照大御神)
③東金市松之郷字上中峠
祭神 天照大御神
④東金市松之郷字馬場
祭神 天照大御神
⑤東金市上谷1474
祭神 不明
読み方が違うじゃん、と思われるかもしれませんが、私はどうしても引っかかるんですよ~。
神名や神社名で「イ」に当てる漢字って「伊」が多いのに、なぜ「イツセ」は「五」と当てたのか。
それに「五十」も「イ」とも読む場合がありますし、五十瀬神社も「イセ」と読むこともできるのです。
そしてこの連想は当たっておりました。
ほとんどの五十瀬神社で天照大御神を奉斎していました。
御祭神から考えると「五十瀬」=「イセ」=伊勢で伊勢神宮の意味で呼んでいたのではないかと。
でも何か理由があって「伊勢」という漢字ではなく、「五十瀬」を当てられたのだと思います。
もしかしたら二宮神社の御祭神が現在ではすっかりウガヤフキアエズで定着してしまっているように、東金市の五十瀬神社たちもイツセ命を祀っていたのに「イセ」とも読めることから、後世天照大御神が上に被さってしまったのかもしれません。
神社名にのみ、当初の御祭神の痕跡が残ったとも考えられます。
ここでスピ話。
神様を感じなかったので、どなたかいませんかー?と聞いてみたら狛犬君たちが答えてくれました。
それによると神様は祭りの時だけくるそうで、かなり広い境内だったので荒れたりしないのかなぁと思い、そんなに居なくて大丈夫なのか尋ねましたら、凄い力のある神様だから大丈夫と言われました。
また神社は元は別の場所にあったとも教えてくれました。
この時は神様はウガヤフキアエズ尊だと思っていたので、帰ってきてから資料を調べていて
五瀬命ー!!??
となって、どちらの神様なのか聞けばよかった~と後悔しました。
個人的には五瀬命だと思いますが、全然違う神様という時もあるからなぁ(汗)
さてさて、実は山崎二宮神社の近くにもう一つ二宮神社があるのです。
何か関係あるのかどうなのか、行ってみないとわからねぇっ!
ということで取材してきました。
二宮神社
長柄町榎本字本合414
小さいけれどちゃんと手入れされてる感じ
一の鳥居です二の鳥居
二の鳥居です
まだ階段がある~
ここまで来たらウグイスが鳴いて歓迎してくれました
きちんとお掃除されている階段
クロアゲハも迎えてくれました
なんかすんごい大歓迎?
拝殿
階段昇っただけあって結構高台
拝殿の脇に御神輿が
珍しく右側から本殿です
おお~、やっぱり高い台地上に鎮座されてる
本殿の背後
本殿を左側から
板が剥がれてしまっていますね
中の御本殿本体が雨で痛んでしまう前に
早めに覆い屋の修復をお願いします
ちょっと離れて本殿の左側
拝殿の向拝の龍
こちらの二宮神社は山崎二宮神社から、そんなに離れていない場所に鎮座しています。
赤い見出しに注目
上の赤が山崎二宮神社
下の赤が榎本二宮神社
共通点は川の畔に鎮座している点でしょうか
「千葉県神社名鑑」には創建年代由緒不詳で、御祭神は須佐男命となっています。
御縁起は不明ですが、他に手掛かりがありました。
「房総の古城址めぐり」府馬清著にて「長生郡長柄町の城址」に
榎本城址
榎本城は明城ともいわれ、城址は長柄町榎本字本合の台地にある。土塁空濠の一部が残っている。戦国時代、里見氏の属将千代丸榎本之介豊俊の居城だったという。
この榎本城址の位置が二宮神社の住所と同じなのです。
神社がある場所が城址ならば二宮神社は榎本城に関係のある神社なのでしょうか?
手掛かりを探して榎本城址を調べてみました。
「千葉懸長生郡郷土誌」の名所旧蹟の中に
榎本城址
榎本区字本合にあり、一に明城と称す。其の興廃詳らかならざれども、里見記に永禄7年国府台戦後、舎人、榎本、椎津、諸城悉く陥ると。里伝によれば千代丸榎本之助豊俊の居城なりと、今其の址田圃と為れり。
「日本伝説叢書 上総の巻」の「上総古城址一覧表」には
榎本城(又、明城)
長生郡日吉村榎本区・長柄村千代丸区
創築者 千代丸榎本之介豊俊
「房総記」には、その名を見せてゐるけれど、城主を明らかにしない。俚伝には、千代丸榎本之介豊俊、ここに居るといってゐる。
その興廃は詳らかでない。
どうやら千代丸榎本之介豊俊という人物が鍵のようです。
千代丸で何かないか調べてみましたら、「千葉懸長生郡郷土誌」の名所旧蹟に
千代丸
里伝によれば往昔千代丸右衛門太夫の居りし所にして、隣村日吉村榎本は千代丸榎本之助の居りし所なりしと、然れども古記旧録の微すべきものなし。
そして「長柄町史」によると榎本は古くは江之本と表記されていたようで、このことから地名は一宮川の畔に立地していることにちなむのだとわかりました。ちなみに隣接してある小榎本は「小」とついているので、元は榎本と一村であったが分村した枝村であったか、あるいは榎本の住民が開拓した新田であったかだと思います。
地名の千代丸に関しても、「千代丸・力丸の二部落はこの名の兄弟によって開かれたとも伝え」という記載があり、千代丸に隣接する力丸の地名由来にも触れています。
さらに明治41年10月まで当地には真福寺という天台宗の寺院があったのですが、現在は同所の長栄寺に合併されていて廃寺となっています。
この寺院がなんと榎本城主の菩提寺であったそうなのです。
真福寺は鵜沢姓を名乗る一族のみで護られていたそうで、鵜沢家は城主の末裔であると伝わっているそうです。
同家の過去帳には
「永万元年九月、道康山貞明院居士、竹内宗氏」
「上総国長柄郡二宮庄榎本村、光明山千丸院真福寺、榎本城主千代丸之介豊俊、家臣鵜沢右京坊」
の記載があるそうです。
さらに長南町今泉の某家にある「上総国植生郡(埴生郡の誤り)医王山円福寺仏性院薬師如来之縁起」に榎本城主として「小糸七郎兵衛之尉貞頼」の名が記録されています。
情報を整理すると
1.榎本城址にはかつて城主・千代丸榎本之介豊俊という人物が居た。
2.千代丸という地名が付近にあり、そこには千代丸右衛門太夫という人物がいた。
3.地名の千代丸と力丸はこの名前の兄弟が由来となっている。
4.廃寺の光明山千丸院真福寺は榎本城主の菩提寺だった。
5.榎本城主の子孫が鵜沢家であるという。
6.榎本城主には小糸七郎兵衛之尉貞頼という人物もいた。
榎本城の城主は最初は千代丸氏でいつしか小糸氏になったということなのかなぁ。
しかも地名千代丸から離れた榎本に城を構えていたということは、領地が広がったのか、本拠地を変えたのか奪われたのか。
詳細はまったく伝わっていないので、何とも書けない状況です。
伝承からわかるのは、この辺りに千代丸氏という豪族が居たということです。菩提寺もあったことですしね。
ただ子孫だという鵜沢氏が千代丸氏の子孫なのか、小糸氏の子孫なのかは不明ですし、過去帳には「家臣 鵜沢右京坊」とあることから、本当に子孫なのかも謎です。
もしかしたら城主の娘が嫁すような家柄で、親戚だった可能性もあります。そうすると血が入っているので子孫ということになります。
ただ最大の謎が落人になったのに当地から離れていない点なんですよね。
普通負けた側って、すべて捨てて命からがら遠くに逃げますよね。
でも鵜沢家はそうではなかった感じです。
城は落ちたけど逃げなくてよかったという状況ってどんなんだろう。
うーん、何かヒントないかなぁ。
ここからはスピ話ですが、榎本二宮神社の境内で神様にいろいろ尋ねてみました。でも「いる」と感じるのになかなか答えてくれなかったんです。
実のところ、山崎二宮神社よりも先に取材にきていて、あちらの事はウガヤフキアエズ尊を祀る神社ぐらいの知識しかない状態で、何か関係あるんですか~~~????と念を送っていたら、急に気配を感じたのが年配の武士の方でした。
イメージ的には「ゴールデンカムイ」に出てくる土方さんが髪を一つにまとめた感じ。髪はもっと短いです。白髪で眼光鋭い髭をたくわえた老武士の方。鎌倉殿の13人に出てくる武士の人達みたいな恰好です。
この方は本当に寡黙な方で、あんまりお話ししてくださらなくて困りました。
名前も教えてくれないし、何にも反応がないんですよ。
でも黒アゲハやウグイスの鳴き声で歓迎してくれていたのはわかっていたので、なんとか質問に答えてください!お願いします!イエスノーでもいいので答えてくださいっ!!って懇願したらやっと
私「こちらはもう一つの二宮神社と関係ありますか?」
老武士の方「ない」
私「じゃあ榎本城とは関係あるんですか?」
老武士の方「ある」
この質問にだけ、とても簡潔に答えてくれました。
スピ友いわく神社の神様になっておられる方だそうです。
なのでおそらく榎本城主の方なのではないかと。
今回の様に答えてくれない神社の御祭神は結構いらっしゃいます。
存在は感じられているのに、話しかけても無反応でコチラの様子をうかがっている感じの時もあれば、ニコニコ見守られてる~って感じるのに何にも答えてくれない時もあります。
将門さんの時もあったのですが神様達は調べてわかることは教えてくれません。そして、その時点で私に関係ない事や勉強が足りなさすぎる時なんかも教えてくれないんだと思います。
老武士の方もたぶんそういう事なんだと思います。
実際その時点での私は城関係について深く掘り下げるつもりはあまりなく、将来的にやるかもしれませんが取材時は寺社が優先ですから、話してくださらなかったのも優しさからなんだと思います。
でも、お名前がわからなかったので「御館さま」と声を掛けてみたんですよ。そうしたらとても嬉しそうというか、感慨深げというか、そんなご様子だったので、ちょっと私も感無量でした。
御子孫の鵜沢さん達は氏子さんなんだろうと思うのですが、御先祖さまが見守っていてくださっていて心強いだろうなぁと思いました。
ここから超余談です。
結局気になっていろいろ調べました(笑)
長柄町には高市皇子の伝説があったり、以前記事にした弓削道鏡縁の寺という説のある道脇寺があったりするのですが、実はちょっと離れた地域に平将門公の伝説もあります。
長柄町上野に一時期将門公が拠ったという話が残っていますし、市原市古都辺・奈良・犬成・菊間などにも縁の伝説が残っていて一帯に将門公の足跡があります。
実はそんな将門さんのお子さんの一人に
「千世丸」
という方がいるのです。
地図上で見てみると長柄町千代丸という地域は近接する他の地域に比べて異常に小さく狭いエリアとなっています。
まるで千代丸地区を守るように大字国府里・山根・力丸・桜谷が取り囲んでいます。
力丸は千代丸と兄弟であった方の名が地名となった地だと言う伝承があるので、その二つのエリアを中心に考えると、古代の国府があった名残とされる国府里・国府関の隣りであり、道脇寺のあった山根もあります。
また日本武尊伝説がある地が近接してあり、古代から特別な地域であったことは間違いありません。
私はこの地の国府とは藤原政権ではない、前王朝の国府があった地ではないかと考えています。
この辺りが前王朝の重要地だとしたら、一帯には前王朝に縁のある人々が住んでいたはずです。
子孫である鵜沢氏が遠くに逃げず、この地で帰農できたのは周りの人々のサポートがあったからこそだと思います。
逆に言えば周囲の人達が守らなければならないと思うような血筋の方であったから、手厚く庇護されたとも考えられるのです。
将門さんの子孫なのか、または前王朝の血を引く方であったのか、きれいに何も残されていないようなので江戸期以前の事はまったく拾えませんでしたが、そういう可能性が高いのではないかなぁと思えてなりません。
間違いなく言えることは、この周辺の歴史は非常に重要であり、千代丸・力丸の兄弟の名には、とても深い秘密が隠されている可能性があるということです。