東国満珠干珠伝説 その15 終りの始まりな東大社 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

あけましておめでとうございます。

ドラマ「エルピス」の最終話だけ見て、なんで最初から観てなかったんだと激しく後悔中のミツネです、あうう。

昨年は秋から仕事が急に激務となり、更新が途絶えてしまって

自分にとっても後悔の残る年となってしまいました。

今年は定期的に更新していくことを目標においているのですが、

実はこれまでWワークしておりました片方の企業から秋頃に良いお誘いをいただき、今年から正式に社員として働くことになりました。

ですがもう片方の後任がいまだ決まらず、どうなることやらな状態でして。春頃まではバタバタしそうな予感がしますが、これまで取材をしていながら、いまだ記事に出来ていない神社が

たーくさん

あるので、コツコツまとめて皆さんにお届けしていきたいと思っております。今年もよろしくお願いします。

 

さて、長く続きました宝珠シリーズ、今回でラストです。

最後を飾るのはコチラの神社。

 

東大社トウタイシャ

香取郡東庄町宮本字八尾山406

 

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鳥居からみた境内

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拝殿

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ちょっと左から

彫刻の竜

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扁額と内陣

 中にある扁額には東庄大社とあります

賽銭箱には菊の御紋

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拝殿の左側

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千木は男千木なのです

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羽根を閉じた

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背後は撮るのを忘れました(オイ)

なので右側をば

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羽根を広げた

 

 

東大社は東庄町トウノショウマチに鎮座しておりまして、「大社」とつく神社は出雲大社の分社を除くと、現在千葉県内ではこちらだけです。

ただしこの名称は近年になってから使用されだしたものなので、延喜式に載っている「大社」とは別の扱いとなります。

ですが当社の神職の方が「大社」と名付けたことには、それなりの「背景」があるはずです。

公にはされていない、その「背景」も含めて「宝珠伝説」と共に考察していきたいと思いますので、最後までおつきあいください。

 

東大社の御祭神は玉依姫命、相殿に鵜草葺不合命となっています。由緒沿革は「千葉県神社名鑑」によれば

 

景行天皇53年、天皇親しく皇子日本武尊の御東征の跡を巡視せられた折、当地に一社を営み玉依姫命を祀られた。下って堀川天皇の康和4年、海上国高見の海上が長日に亘って荒れ怒り、住民の生活が困窮したとき、本社に臨時の祭祀を行うべしとの宣旨あり。4月8日神輿が初めて高見の浦に神幸し海神を和められた。これが今に伝える20年一度の式年大神幸の初めである。大正8年県社に列す。代々の朝廷、武門、氏子らの信仰が厚い。

 

康和4年(1102)に大地震が発生し津波が当地方を襲ったようです。

その鎮護として現在20年に一度、香取市貝塚の豊玉姫神社・旭市見広の雷神社と、三社で行われる大神幸祭がはじまりました。

雷神社については過去に取材記事を掲載しているので、ご興味がある方はそちらをご参照ください。

 

旭市見広 雷神社

 

ここで重要なのは最初の神幸で何が起きたのかです。

「伝承を考えるⅢ」には東大社はこのように書かれています。

 

あるいは、康和4年(1102)海上郡高見(現在の銚子)に大きな地震と津波が数日間続いたとき、堀河天皇が当社の神輿を高見に渡御せしめたところ災いがおさまり、海中から霊玉を得たので、新たにこれを神霊とし、総社に列せられ、玉子大明神の号を賜ったとも伝えられる。以上の伝承によって当社は総社神社・総社東官・玉子大明神・王子社・東王子社などとも称されたが、いまは一般に「オオジン様」といって親しまれている。なお「王子」については、若一王子であって熊野社の末祠とする説もあった。

 

「海中から霊玉を得た」とありますが、「東庄町史 上」には

 

平安時代堀河天皇の康和4年(1102)海上郡高見の海上に突然雷電が発し、波浪高まり、震動が数日続く有様であった。おそれおののいた付近の住民が時の朝廷に奏聞した。天皇は本社に惣社玉子大明神の称号を与え臨時の祭事を営ましめた。これにより4月8日本社の神幸が高見浦に行われた。神輿が同浦に安置された時、震動は止み、海面の波浪は静まった。そして忽然として海中より現われた龍が白日のごとく光り輝く灯を献ずる中、一箇の玉が海中より神輿の中に飛来した。この玉が今に神璽として伝わるのだというものである。

 

なんと初回の神幸の際に海中から龍が現れて宝珠を授かったというのです!

 

実はこの宝珠こそ、一宮町の玉前神社の宝珠と対になっている物ではないかという説があります。

旭市に玉﨑神社があり、玉前神社とは九十九里海岸を挟んでちょうど両端に位置しているので対の様に言われています。

当シリーズの「その5」で記事にた玉前神社ですが、創建にはやはり景行天皇と日本武尊が関係しています。しかしながら、これまでの考察で一宮玉前神社はもっともっと古い時代の創建だと考えられるので、景行天皇や日本武尊が来た時に再建したとか改装したとか、という事であったかもしれません。

でもって旭市玉﨑神社、個人的に要注意神社なんですよね。

なぜなのかと聞かれたら、神紋の「下り藤」が理由です。

「下り藤」といえば「藤原氏」ですよね。

旭玉﨑神社は藤原氏によって歴史的な背景が改竄されている可能性が否めないのです。

日本武尊が関わっているという御由緒は本当なのかもしれませんが、宝珠が無いという事実が、もう歴史的なゴタゴタを彷彿とさせるといいますか。

元々は玉﨑神社は竜王岬に鎮座していたといいます。

その岬は現在は失われています。波によって削られてなくなったのか、地震による津波で崩れたのかは定かではありません。

失われてから永く再建されていなかったようですから、そこに藤原氏が目を付けて再建を謳いつつ、当地域の祭祀に関する権力を牛耳っていったのではないでしょうか。

逆にいえば藤原氏が欲する何かがここにあったといえると思います。

では欲していたナニカとは何なのか?

それこそが

東大社の宝珠

だと思います。

藤原氏は玉前神社からは奪えなかった宝珠を諦めきれず、もう一つの宝珠を手に入れようとしたのではないでしょうか。

そのために失われた玉﨑神社を再建した。

しかし目論見は外れ、宝珠を玉﨑に祀ることはできなかった。

 

そのように考える根拠は東大社の玉依姫にあります。

前にもご紹介しましたが東大社の玉依姫は「鴨玉依姫」です。

スピ友からの話を聞いていて感じたのは、当社の鴨玉依姫はアルテミスのような活動的な、どちらかというと戦女神に近いイメージであるということ。

東大社の境内に弓道の練習場があったり、神事に流鏑馬があったりすることも、戦女神の片鱗ではないかと思えます。

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拝殿の横にあった「射位」

なんだろう?と思ったら

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奥に弓道の練習場がありました

 

 

 

取材中、ある出来事の中で

 

『平穏な日々ではつまらないだろう』

 

とおっしゃった鴨玉依姫。

戦女神と考えると、このような発言も腑に落ちるんですよね。

 

戦女神・鴨玉依姫を奉斎する東大社の氏子たちも、

やはり戦う一族であったと思うのです。

そして力で敵わなかった藤原氏は宝珠を諦め、この地域の祭祀権だけを手に入れたのではないでしょうか。

その証拠に延喜式には海上郡にある神社は一社も入っていません。

前に記事にした猿田神社や他にも多くの由緒正しい神社があるのにもかかわらずです。

藤原氏の嫌がらせとしか思えません。

おそらく本当に手が出せなかったので、悔し紛れに格を与えなかったのでしょう。

 

そのように東大社を守護し、奉斎していた氏族とは、どのような方達だったのでしょうか。

「千葉県神社明細帳」には由緒として次のように記載があります。

 

景行天皇五十三年十月 天皇自上総国巡幸海濱至 此地八尾岡

春臣命令造立一社鎮祭之

 

また「伝承を考えるⅢ」にも

 

また景行天皇が東国巡幸の折、当地(旧称八尾岡)に七日とどまり、のちに東海鎮護のため春日命に造営させたものとも伝え、かつては八尾神社と称したという。

 

「春臣命・春日命」?

 

 

彼らがどの氏族なのか、ヒントがすでにこの記事に出ています。

 

わかりますか?

 

わからない?

 

これとか

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これとかです

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阿吽の鷹なのかなぁ。

鷹を神の鳥としている氏族といえば

そう、

秦氏です!

秦氏は一説ではエラム人で自らの事を「ハルタミ」と称していたといいます。この「ハル」=「春」なのではないでしょうか。

 

一方で春日命の「春日」=春日氏と考えると、元は和邇氏族で、一説によれば和邇氏族=海人族=アムール人だそうです。彼らは奈良に移住して春日臣となりました。

敏達天皇の夫人に春日老女子がおり、子に難波皇子がいて、その子孫に橘諸兄がいます。東大社の鎮座地は古代立花郷(橘郷)と呼ばれていて、東庄町小南には小野神社もあります。小野神社を奉斎したのが小野氏だとすれば、小野氏も和邇氏族です。

茨城の鹿島神宮は元は安曇イソラを祀る海人族の社であったようですから、香取郡・海上郡一帯は海人族の土地だったと考えられるので、東大社を小野氏が創建したとしてもおかしくはありません。

 

ただ自分的には東大社は秦氏が奉斎していた線が強いと考えております。その根拠は以前記事にした茨城県の大杉神社にあった境内社捄総社クゾウシャです。

 

茨城県稲敷市阿波 大杉神社

 

捄総社

 

 

捄総社には日祀社・鵜神社・梶鳥社・神護社の4社が合祀されています。この中の鵜神社の説明がこちら。

 

鵜神社ウナカミシャ

御祭神 鵜神大神ウナカミノオオカミ

歴代のウナカミの王と、これに連なる菟上国造の御霊

 

そうなんです。

ウナカミは

鵜神であり

菟上であり

海上なのです。

 

ではウナカミとはどのような神なのかです。

今現在の私の推測では、ウナカミのウナ=ウサ=ウ=と関係があると考えています。

禹とは古代中国の夏朝の創始者で黄河の治水を成功させた人物です。なぜウナカミのウと禹が関係していると考えたかと言うと大杉神社にヒントがありました。大杉神社の境内に、非常に珍しい禹歩が体験できる場所があるのです。

 

禹歩というのは禹が大規模な治水工事により体を壊し、普通に歩くことができなくなったその様子を表現したもので、後に占いや祭祀において巫者が行うようになった、日本では反閇ヘンバイと呼ばれる独特な歩き方のことを指します。

なぜ禹の歩き方を真似たのかというと、黄河という大河の水を操ったことから龍を操る力があったとされているからだと思います。

そもそも「禹」という漢字が雌雄の龍を組み合わせた形で、洪水神の意味もあったようです。

つまり「禹」=「龍」なのです。

海上に祀られていた龍がいまどこに祀られているのかは謎です。

あそこかな~という所はあるのですが、まだ行けていないので取材に行ってからご報告したいと思います。

東大社の御祭神は鴨玉依姫と鵜草葺不合尊ですが、「ウ」繋がりで「ガヤ」なのではないかと思えてきました。実は「ウガヤ」の「ウ」は「禹」なのかもしれない?

むーん、調べてみよう。

 

さて、実は東大社にはもう一柱、祀られています。

それが「名前を呼んではいけないあの人」なのです。

いやいや、ハリポタのヴォルデモート卿ではありません(笑)

 

宝珠シリーズ その1の側高神社の御祭神は

 

「古来神秘として口にすることを許されず、俗に言わず語らずの神とのみ伝う」

 

と言われていました。

実はあまり知られていませんが東大社にもそういう方がおられます。

「東庄町史研究 第四号」によると

 

玉子大明神本殿玉依姫命にて左の御殿は鵜茅葦不合之命の、右の御殿は祭神神秘にして口伝の

 

と記載があります。また左の御相殿・右の御相殿ともに景行天皇の御勧請とも書いてありました。

景行天皇がウガヤを勧請したということは、ウガヤ系の氏族であったということですかね。

それよりも口伝でしか伝わっていない右相殿の神はどなたなのでしょうか。

 

私は傍高神社の記事で「秘された神」は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命ではないかと考察しました。

でも東大社の秘された神は別の方だと考えています。

なぜなら玉依姫が主祭神でありながら千木が男千木であることの理由になる方なのではないかと思うのです。

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そしていまだ理由がはっきりと説明できていない東大社の過去の名称である「玉子大明神」もヒントの一つではないかと。

 

よく「王子」=熊野神社と考えて考察されている本があるのですが、これは後世真実に辿り着かないように張り巡らされたトラップだと思います。

景行天皇にかかわる神社で王子=皇子といえば県内ではほぼ日本武尊一択です。ここでもそれを当てはめればいいのに、そうしていないのは何故なのか。

それはこの「王子」が古代海上国の王子だったからなのではないかと思うのです。

この地には鵜神社の説明にも出てきた「歴代のウナカミの王」が統治していた国がありました。しかしその国の痕跡は現在はまったく残っていません。でも口伝として伝えることで真の御祭神を護ってきたのではないでしょうか。

側高神社の向津媛も同様です。

勢力を広げ祭祀権をも奪う藤原氏から護る為の最終手段だったのだと考えます。

 

東国満珠干珠伝説と銘打ってはじめた当シリーズですが、結局宝珠はいまどこにあるのかわかりません。

玉前神社と東大社にあるといいなぁ~とは思いますが、そんな宝を藤原氏が放っておくとは思えませんし、香取神宮や香取郡域の神社の状況や古代海上国の痕跡の皆無さを考えると、もうこの世には存在しないと思えてなりません。

もしかしたら心ある神職の方が悪用を恐れて海に返してしまったのかもしれません。

それを知っているフサ国民だからこそ、浜辺に流れ着いた玉を大事に奉納した。そしてあちこちに宝珠伝説が残る事に繋がったのかもしれません。

 

今回のシリーズもとても長かったですが、自分にとって偶然行った神社が後から繋がってきたりして、なんだか導かれているという感じを受けました。

なんとも時間がかかってしまい、本当に読んでくださっていた皆様にはお待たせしてばかりで申し訳なかったです。

最後までおつきあいくださって、ありがとうございました。

 

以下はいつものように境内社などの紹介です。

 

何故か境内に野見宿祢像

昔は秋祭りで相撲もあったらしい           

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子安宮

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石祠

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神明社

 

 

いやぁ~、新年に最後の記事をUPになってしまいましたが、

なんとか完結できてよかったです。

個人的には本当にいま海匝地域が熱くてもっと調査に行きたいんですがね~、忙しくてね~、時間がね~。

でもホントに記事にできていない取材済神社がたっくさん、

あり過ぎなので、今年はそちらを整理していこうと思います。

高市皇子についてもご報告したいので。

おお、そうだわ。

最後に東大社の鴨玉依姫にあのように言われた時の事件を。

 

 

取材を終えて帰ろうと車に乗り込んだ時、

ヒュッと何かが社内に入ってきました。

ん?と思って見てみたら、すんごいデカい虻!

大騒ぎでスピ友と外に逃げたものの車を発進させないとだし、

神社内で殺生はダメだよなぁとか考えて困っていたら、

察したのか虻は再びシュッと車外に飛んでいきました。

私がホッとして車に乗り込むと「あ~」とスピ友。

どうしたのかと聞いたら鴨玉依姫が虻を車に飛び込ませたと。

なんでそんなことを!?なにか失礼なことした??撥??って聞いたら

スリルだっただろう?と。

え?と思っていたら、あのセリフです。

 

『平穏な日々ではつまらないだろう』

『刺激があるからこそ生きていると実感できるものだ』

 

って。

 

ね?もうこの考え方が戦女神以外の何物でもないと思ったんですよ。

そうでなかったとしても、非常に男勝りな女神様です。

でもサバサバとしていて大好きですけどね。

20年に一度の神幸に関しても

「他の二社と繋がりがあるのですか?」

と尋ねたら

「人が決めたことだ」

とだけ。

他の二社と奉斎しているのが同族だからではないのかと聞いても、知らぬ、と。人が勝手に決めたことだ、とだけ。

 

姉埼神社のシナツヒコさんもそうだったんですが、自分を祀る氏族とかに関してあまり興味がない?ようです。

シナツヒコさんも御自分の子孫が祭祀をしていたのか聞いたら、よくわからないみたいでした。

天日鷲命に聞いたら、昔は子孫が奉斎してくれている所が多かったからなと言っていましたが、いまの神事は昔とは違うから結局子孫が奉斎してくれても100%じゃない、みたいな事をいってました。

 

今回東大社を取材して感じたのは、式内社でもおかしくないクラスの神社が埋もれているなぁという事実です。

東大社も裏に雲井岬という神苑があり、古代はもっと広い境内であったようです。おそらく船で雲井岬まで来てお参りする形であったと思います。

鹿島神宮も香取神宮も往古は船で行く前提だったので、この地域の古くからある神社はみなそうなのだと思います。

 

本当は東大社に関係している御産宮、菅原大神天満宮、代大神や白幡宮のことも書きたかったのですが、宝珠には関係ないため今回は取り上げませんでした。

いずれまた書くことがあると思うので、その時に。