竹内薫『教養バカ わかりやすく説明できる人だけが生き残る』(SBクリエイティブ、2017年)
 
 
 
◆教養のブーム化?
教養を深めたいという思いがブーム化しているのではないかと、昨今の本の売れ行きを見ていると思うことがある。「教養」と耳障りの良い言葉はよく聞くが、深め方次第では本書の指摘するような「教養バカ」となってしまうようである。
 
本書では「教養バカ」の特徴として、「知識だけは豊富」「なぜ三角形の面積で÷2をするのか説明できない人」「年号丸暗記」などの例が挙げられていた。
 
◆わかりやすい話し方
「教養がある」とは一体何なのか。
上記のように、例えば「三角形の面積の求め方の背景を踏まえることができる人」などはあるのかもしれない。
医者による病気の説明の例もあり、いかに相手の頭に絵を描くことが難しいかがなんとなくわかる。(オノマトペで病状を判断するという話には感心した。使うことのできる語彙が多いことが生き抜くことにもつながるのではなかろうか・・・?)
 
著者はそうした理解を他人の頭に描かせることができる人、という解をひとつ提示している。
 
つまり、「わかりやすい人」とは、相手の脳内にすばやく「絵」を描いてくれる人です。逆に、なかなかうまく「絵」を描かせてくれない人が、「わかりにくい人」ということ。その意味では、書店で見かける「よくわかる」「マンガでわかる」というタイトルの本は、脳内にすばやく「絵」を描く助けをしてくれるのだといえそうです。(p.30)
 
個人的にも電話をする時に、伝える内容を可能な限りイメージしてもらうことを心がけてきてはいたが、この文面を読んでそのことを思い返してみた。
「絵」として相手に伝えることができるという人が、自分の持っている知識の活用・応用ができる人ということなのである。
 
「相手の脳内に絵を描く」ということが本書における「教養」の一例であり、この他にも興味深い話が続いていく。
 
◆その他
個人的に面白いなと思ったのは、心理学の言葉に「交換記憶」というものがあるそうで、意味合いとしては「人間の脳は、自分で覚えなくても誰かに聞けば教えてもらえる事柄については記憶しようとしない」ということが挙げられるらしい。
 
本の中では「ネット検索」をそこでの例に挙げており、「記憶の外付けハードディスク」として機能しているそう。そんなことはいちいち会話の途中ではできないし、脳を使わない暮らしになる。確かにレシピはネットに転がっているだろうし、自分で料理の材料とか工程とか覚えなくてもいいかなとか心当たりはあったりはする。
 
そうした生き方の害がどんな形で表面化してくるものなのか、考えると少し怖い話である。
千野栄一『外国語上達法』(岩波書店、1986年)(2017/02/13読了)
 
 
◆1986年・・・
およそ30年前に書かれた書籍であり、著者もすでに2002年に亡くなっている。ロシア語学科を卒業した方だそうで、本文の中でもちょくちょくその話が出てくる。
1986年といえば、まだ「ソビエト連邦」の時代だ。
まとめの章で「世界は望むと望まざるとにかかわらず二つの社会体制に整理されつつあり、ロシア語はその一つでの共通語である」(p.197)とあり、英語に次ぐ国際語としての位置付けで著者は語っている。
まずその点で時代認識が今とは違うなあと思うことになる。
(下記引用は直接は関係ないがくすっと笑えたので・・・)
 
最近ソビエトで出たロシア語の初歩の本を見ていたときのことである。「これは魚ですか、鳥ですか」という疑問文があり、一瞬「ロシア人よお前もか」と思った。ところがその横に挿絵がついていて、展覧会で一枚の絵の前に立った見物人が抽象画をさしながら画家に聞いている場面が描かれていたので、思わず笑わされてしまったし、「……ですか、それとも……ですか」という構文を一緒に覚えさせられてしまった。(p.102)
 
しかし、本書の主題である「外国語上達法」という観点そのものへの衰えは感じられない面白さはあったように思う。
 
◆内容ー何のために学び、いかに学ぶか
外国語を学ぶ目的と意義、語彙、文法、学習書、教師、辞書、発音、会話などとそれぞれ章立てされており、「まずは頻出の千語を徹底的に極める」ところから始めるということが主張されている。また辞書については初歩中の初歩の人が使うものではなく、ある程度外国語が読めるようになってから使った時に初めて効果的に機能する、とのことだ。
 
幼稚園児のフロックコート姿を見れば笑う人が、ごく初歩の語学で何万という語の入った辞書を使うのはナンセンスで、ちょっとした旅行にいくのにあらゆる薬の入った大きなトランクを持って歩くようなものといえよう。
 
などと注意を促している。
会話の章では「沈黙は金」よりも「あやまちは人の常」の気持ちを採用することを促しており、この点については近年の英語教育に対する諸々の主張と似ている部分があるように思える。
 
◆レアリアの重要性
レアリア、チェコ語ではレアーリエ(realie)といい、「ある時期の生活や文芸作品などに特徴的な細かい事実や具体的なデータ」を指す。
これこそが外国語の上達に重要な役割を果たしていると著者は言う。
 
例えば "A cup of tea"。
・日本:「少量の中国産あるいはロシア産のお茶を越して得られたややくすんだ金色の液体」
・英国:インド産あるいはセイロン産のお茶をもっと多量に入れて作ったこげ茶色の液体で、生のミルクと混ぜられる」
 
「荒城の月」という言葉を知らずに「工場の月」と日本語の話し手が訳したというエピソードも紹介される。
 
このように、言語が必ず何かの状況下で使われることを念頭においていれば、レアリアの重要性が理解できる。言語の深い理解に繋がるのである。
 
 
まあ英語教育における論点は最近の新書に出てくる中身と大きくは変わらないのかなと思ったりも。本書の各章のトピックの中に大体論点が含まれているのではないかという読後感が得られた。
ソビエトはなくなっていても、英語教育の議論は30年経った今でも続いているところに面白さというか不安さを感じるところではあるが。

三浦しをん『お友だちからお願いします』(大和書房、2012年)(2016/11/04読了)

 

 

 

◆エッセイ集

何が面白いのかよくわからないけれど、とりあえず何となく身近で共感的で面白い。

そんな率直さを淡々と味わうことができる本だった。

というかエッセイとはそのようなものなのでしょう。

 

◆ものを見る視点

そんなところに注目するのか、あんなことを深く考えるのかとか、ものを見る目が変わることも面白さなのだと思う。

永田町駅の半蔵門線から他社線へ乗り換える際に上がっていく長い長い階段を、最初の数段で後悔しつつも引き返さずに歩いて登っていく話は、まるで自分が歩いているような感じ。(自分も何度も何度も通って行った道でもあるわけで)

 

しかし自分も何度も通ったにもかかわらず、気づかなかった景色もある。

 

私はひたすら、長い階段を上った。上りきったところにお寺でもあれば、まだありがたみも出てくるのだから、などと考えつつ、黙々と上りつづけた。そしてふと気づいた。

階段の段差部分の右隅に、小さく「40」と書いてある!

これはもしや……。頭のなかで数を数えながら、なおも上る。十を数えたところで、またも段差部分に数字を発見。今度は「50」だ。

やっぱり!あまりに長い階段を上る人々へ、せめてもの「上り甲斐」を与えるためか、駅側がぬかりなく段数を表示したようである。粋なはからいではないか。(p.104)

 

…是非とも今度エスカレーターを避けてじっくり数字を探してみよう。

駅員の心情を察しようとする著者にも、駅員にも、こんな風景があることにも、何から何まで共感を覚える。気持ちがゆったりする。

新しい発見だ。

 

◆旅行帰りにて…

楽しさゆえに家に帰るのがつらい…というわけでもない何か別のつらさがある、とモヤモヤ考えていたけれど、「これだ!」と実感できるお話を発見。

 

旅が楽しければ楽しいほど、家に帰るのが憂鬱になる。(中略)旅から戻って、アパートの玄関の鍵を開ける時点で、ため息がとどめようもなくこぼれる。そして実際に玄関のドアを開け室内を目にした瞬間、足が萎えてへたり込みそうになるのをノブをつかんでなんとかこらえる。

 部屋が汚い。この事実の重みがいかばかりか、汚くない部屋に住むひとは到底想像できぬだろう。

 その部屋で毎日生活するぶんには、感覚が麻痺し、埃への耐性もできるからいいのだ。しかし、小綺麗なホテルや旅館で数日を過ごしたあとだと、なんかもう自身の精神の荒廃と自堕落を突きつけられているようで、衝撃が大きい。(p.192)

 

自分の部屋に関しては、絶望的な汚さではないと思ってはいるけれど、なにぶんビジネスホテルなどの頻繁に掃除が繰り返される部屋には決して叶わない綺麗さである。

そんな部屋に滞在したあとに自宅に戻ると、どうしても比較的汚く見えてしまう。

致し方のないことではあるのだけれど、奇妙なつらさを感じるタイミングがやはり旅行後の自宅のドアを開けた時、なのだと思っている。

 

◆旅の効用

なぜ家の中で写真で見ることができる場所にお金をかけて行くのか。

そんな問いが出てきても違和感がなくなりつつあるような時代を生きている。

自分の中で明確な言葉として、それに反論しようと思ったことはなかったけれど、下記の文面だけで充分なのではないかとは思う。

 

 熊野詣でが盛んだったころ、この道を多くのひとが行き交った。篤い信仰心と、故郷を離れて旅をする高揚感が、かれらの胸にはあったはずだ。途中で生き倒れてしまったひともいただろう。かれらもみな、いまと同じ石畳の道を歩いたのだ。
 過去と現在はひとつづきなのだと、改めて思い感じられる体験だった。(p.218)
 

 

自分も歴史的な空間を歩く1人となっている。

そんな道は過去に大勢の人が行き交った。

大勢の人がそこの空気感を味わった。

石畳の道を歩いた。

 

そんな事実だけを身体全体で実感できた時の感覚には、何にも代えがたい魅力が詰まっていると思っている。

それをエッセイの著者も実感していると知ることだけでもなぜだかとても嬉しくなる。

 

たまに触れるエッセイ集はこういう感覚を頂戴させていただけるところが最大の魅力なのでしょう。

坂東眞砂子『旅涯ての地ーDOVE UN VIAGGIO TERMINA』(角川書店、1998年)(2016/10/17読了)

 

 

現在修行僧である大学の先輩にオススメされた本。

仏教よりもキリスト教メインの話であるが、信仰とは…を問うてくるような小説であった。

 

◆あらすじ

概ね3分構成となっており、1部では宋人と倭人の血を引く主人公の夏桂が、ポーロ家の奴隷としての生活をイタリアで過ごす日々が描かれる。イコン(=キリスト教の異端であるカタリ派の聖杯)をめぐって諸々起こり、ポーロ家を追われ流。2部ではそれから数十年経った後の物語で老いた夏桂が当時の様子を、夏桂を追ってきたマルコとポーロ家との手紙のやり取りから知ることになる。3部ではカタリ派の「山の彼方」という場所で過ごした日々が描写されている。イコンの中にあった「マリアによる福音書」をめぐった甚大なる影響が明らかになる。。

 

◆宗教、異端、信仰…

1冊本で読んだので、合計560ページ近く上下段式で書かれた小説で、ページ数だけで見ても超大作である。長いが展開構成が上手で全く飽きさせない様式だった。

テーマとしては、「宗教」「異端」「人間性」「性」「一神教」etc. といったところが挙げられそう。

主人公とカタリ派の信者である女性マッダレーナとのやり取りで、お互いの話のテンポが心地良いだけでなく、「宗教は何を求めるものなのか」「信仰の先には一体何があるのか」など深い部分まで考えさせられてしまう場面が散りばめられている感じだった。

 

◆信じることについて

司教の言葉だけでは、天の国があるという証にはならないのだ。それは各人が自分で確かめるしか術はない。だが人は自分の信じたいことが目の前に出されると、疑うことを忘れる。(p.395)

 

信じること、この確かさを求めることがどれだけ困難であることなのか。

それが合っている・正しいことであると確信する客観的な材料というものはないのかもしれない。それが盲目的にさせてしまうのではないかと主人公の視点を通して見せられる場面がある一方で、

 

 彼らは神に頼らなくてはならないほどに弱く、神を信じ続けるほどに強いのだ。(p.425)

 

このように信仰自体の強さというものを実感する主人公視点も出てくる。

信じることにおける弱さも強さ描かれていることが興味深いだけでなく、主人公が東洋出身の人物であることから、そういった立場からキリスト教や異端といったテーマも考えやすくなっているような気がした。

 

「なぜ信仰を続けるのか」

こうした明確な答えのない問いがキリスト教がテーマの本に触れるたびに飛んでくる。考えるだけで決してはっきりとした答えは出ない。もどかしさもあるけれど、時折必要なもどかしさなのかもしれないとは思う。

 

1998年出版の本ではあるが、今読んでも、おそらく数十年後に読んでも遜色ないテーマとして自分の脳内に残り続けるような気がする。腐らない文章とはこういう文章のことを言うのではないだろうか。100ページ読んでめげてももう少しだけ、読んでから本を閉じるかどうかを考えてほしい本。

 

レナード・ムロディナウ(著)、水谷淳(訳)『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(河出書房新社、2016年)(2016/10/03読了)

 

 

400万年史、とタイトルにある通り、時代の範囲が良い意味で幅広すぎる。

長期スパンではあるので、詳細に書かれていない部分もあるかもしれないが、あまりそれを感じさせない作りとなっていた。

1部2部3部構成で「数百万年前から400年前あたり」「400年前から100年前あたりまで」「直近100年間」というバランスである。

 

◆1部

石器時代での人類の動き方を捉えている。

世界を理解しようとし始めた人類に焦点を当てている。

最近読む本には「好奇心」に関する話題が多いが、この本のこのチャプターでもそのようなことが書かれている(2部3部にも通底しているが)。

 

人間以外の動物も、食べ物を得るために単純な問題を解決したり、単純な道具を使ったりする。しかし、たとえ原始的な形であっても人間以外の動物には決して観察されたことがないのが、自身の存在を理解しようとする探求の行為である。したがって、旧石器時代後期や新石器時代前期の人々が単に生き延びることから視線を逸らし、自分自身と周囲の世界に関する「不必要な」真理に目を向けたことは、人間の知能の歴史においてもっとも意味深いステップの一つだった。(p.44)

 

「好奇心」と直接は書かれてはいないが、自身の存在を理解しようとする欲求が人類固有のものであり、科学の通史を踏まえた上でも重要なステップと位置付けている。不必要な真理へ目を向けることが人類史に多大な影響を及ぼしていることが強調されることが興味深い。

その後、ギリシアのミレトスでの多様な文化の交わりによって、因習的な知識への疑問を投げかけるプロセスがあったと説明されている。未知のものとの遭遇はこうした「疑問」を発する良いタイミングなのだろう。

 

◆2部

ニュートン、ガリレオ、ダーウィンなど、物理・化学・生物など様々な分野で歴史に名を残した人が主に記述されている。ガリレオを中心に宗教と科学の対立模様が描かれている。

 

生物学が誕生するよりかなり以前から、生物を観察する人たちはいた。農民や漁師、医師や哲学者はみな、海や田舎に棲む生物について学んだ。しかし生物学は、植物の目録や鳥の野外観察図鑑の詳しい記述だけに留まらない。科学とは、じっと座って世界を記述するだけでなく、飛び上がってアイデアを叫び、我々が見たものを説明してくれるものだ。しかし、説明するのは記述するより難しい。そのため科学的方法が生まれる以前の生物学は、ほかの科学と同じく、理にかなってはいるが間違った説明や考え方に満ちていた。(p.242)

 

上記の記述にもあるように、間違いまくりで発展してきたのが科学なのである。ニュートンもガリレオもダーウィンも、仮説を立てては外し、たまに当てて…など。

ニュートンは自説に対して執念的であまり人との関わりを積極的には持とうとしなかった。ダーウィンは自説と似たような説が同時期に出された時に、相手に敬意を払うようなスタンスでいることもあったなどなど、著者が登場人物の性格面を特徴的に描いているのもこの本の特徴の一つになっている。個人的なお話がこの本における面白さの一つだった。

 

◆3部

アインシュタイン、プランク、ラザフォードなどが登場してくる。

量子などが語られる「決して目には見えない世界」があることを考えてきた時代である。「目に見えない世界」の存在を受容するプロセスがこの100年間での出来事なのかと。もちろん、そんなものは存在するわけがないという意見も多く聞かれた中で、そうした世界が存在すると証明していこうとする過程自体が印象的だったことと、プランクの下記の諦念も含まれたような言葉が残った。

 

プランク本人がのちに科学について語った次の言葉は、むしろどんな革新的アイデアにも当てはまるように思える。「新たな科学的真理は、それに反対する人たちが納得して理解することによってではなく、反対する人たちがやがて世を去り、その真理に慣れ親しんだ新たな世代が成長することによって勝利を収める」(p.296)

 

最後に解説で書かれた「一般人と科学」に関する見解を引用したい。

科学を通史として大枠的に理解することも少しはできるが、おそらく著者の最も伝えたい点の一つは「科学者の苦悩」が一般人の苦悩と同じようなものであることなのかもしれない。「好奇心」から端を発して科学は発展してきたのだろう。

(解説)科学はそもそも、太古から人類が持っていた、身の回りの世界のことを理解したいという本能的欲求に端を発している。だから、科学的な探求をしたいという思いは、どんな人の心にも秘められている。またいくら超大物の科学者でも、我々一般人と同じくなかなか前に進めずに苦悩し、ときにはまったく見当違いの道を進んで膨大な時間と努力を無駄にしたり、どうしても同業者の手助けを必要としたりする。(p.388)

 

 

 

エラ・フランシス・サンダース(著)、前田まゆみ(訳)『翻訳できない 世界のことば』(創元社、2016年)

 

 

表参道の本屋で平積みされており、手に取ったパラパラと眺めているうちについつい買ってしまった。さらっと読めるけれど何度も読み返したい本である。ことばが身体に染み入る感覚が心地よい。

 

◆感覚として持ってもおかしくない。しかしそれを端的に表すことばがない。

例えば、スウェーデン語の「MANGATA」。これは「水面にうつった道のように見える月明かり」のことであるらしい。「水に映る月の道」が綺麗に見える感覚自体はよくわかるものの、確かにこれを端的に表現することばは見つからない。

フィンランド語の「PORONKUSEMA」は「トナカイが休憩なしで、疲れず移動できる距離」ということばらしい。日本語で存在しそうもない表現である。トナカイが生息する地方の感覚としてはあるだろうが、身近にトナカイがいない日本人にとっては感覚を掴みづらい。

 

◆日本語からの選出

本書では4単語選ばれていた。

その中には「BOKETTO」ということばもあった。「何も考えずにぼんやりと遠くを見ている気持ち」とあったが、これに代替する表現って意外にないのだなと感慨深い気持ちである。解説上で、「日本人が、なにも考えないでいることに名前をつけるほど、それを大切にしているのはすてきなことだと思います」と書かれていたが、これに関しては本当にそうなのかと疑問を呈する部分もある。

それでも良いことばなのかなと改めて思わされる。

 

「KOMOREBI」ということばも選ばれている。

「木々の葉のすきまから射す日の光」という表現も意外に世界にはないものなのか。諸外国でも「KOMOREBI」の風景を美しいと思うものかと思えば、そういう感覚ってことばとして表現されないのだろうか。あるいはそう言った風景の独特の美しさを自覚しないのか。そして本を読んだおかげで「木漏れ日」の風景の美しさを再確認するきっかけとなったと思う。綺麗なことばである。

 

◆ことばがない=感情に結びつかない?

翻訳するための代替表現が見つかりづらいことばがもつ意味は、実感としてそのことばを持たない相手と共有することができないのかという疑問はある。

雰囲気で言われてみれば、とわかるというものでも該当することばがないから鮮明に伝わるのは難しそう。あるいはそもそもその雰囲気のことばがない言語話者は感覚として実感することができないということもあるのだろうか。

 

◆「日本酒」の味を表現することば

後々、秋山裕一『日本酒』(岩波書店、1994年)を読んだ中でも「なかなかおもしろい可愛い酒だ」「おとなしい、後味はまるで女性のようなところがある」とワインを表していたり、「落ち着いた酒だ。このすっきりしているが幅もある味は山田錦かな」「香りにやや熟成香が感じられ、味は落ち着いた幅広い大人の風格がある」と日本酒について述べたりする章がある。

 

日本酒の品質の差はごく狭い。しかし、吟醸酒、純米酒、普通酒と、わずかな差を拡大して楽しむことは、無限の喜びが隠されているともいえる。(p.206)

 

わずかな差を楽しむことが日本酒やワインでは好まれる。

お酒にはそんな風に表現できるのか、と面白みのあることばも多くあるように思える。

『翻訳できない〜』に載っていることばも、ある一部の人にとっては共感・理解出来ることばなのかもしれない。狭いわずかな差を楽しむこととどことなく似ているような気がする。

 

「ooのような××であるもの」=1単語

のように表すことのできることばが世界のどこかにあるかもしれない、と考えるだけでもワクワクしてくる。

 

あと原題が"Lost in Translation"ということになぜだか非常に感銘を受けた。

●ジェームズ・W・ヤング(著)、今井茂雄(訳)『アイデアのつくり方』(TBSブリタニカ、1988年(1965年初版))

●ジェームズ・W・ヤング(著)、今井茂雄(訳)『広告マンバイブル』(TBSバイブル、1994年)

 

先日読んだ『子供は40000回質問する』の中で引用されていた文章のうちの2冊。

新入社員にこの2冊の本を配る会社も外国のようだけれどあるらしい。

 

執筆されてから半世紀過ぎているものであるのにもかかわらず今も多くの人に読み継がれている古典に近い本であるという。

 

◆『アイデアのつくり方』

アイデアとは天才的な思いつき、というわけではない。

フォード車の製造のように一定の明確な過程に基づいてできるものであると著者は述べる。アイデア生成の「技術」を修練させるとで有効に使いこなすことができるものとして「アイデア」を見ろと言っている。

 

その過程とは、下記の5段階のことである。

 

第一 資料集めー諸君の当面の課題のための資料と一般的知識の貯槽をたえず豊富にする事から生まれる資料。

第二 諸君の心の中でこれらの資料に手を加える事。

第三 孵化段階。そこでは諸君は意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる。

第四 アイデアの実際上の誕生。<ユーレカ!分かった!見つけた!>という段階。そして

第五 現実の有用性に合致させるために最終的にアイデアを具体化し、展開させる段階。

(pp.54-55)

第1と第2段階はひらめきなどは関係なく、丹念に行えば誰でもできることである。そこを怠らずに行うことでアイデアの組み合わせという第3段階に進むことができる。努力次第で誰にでも「アイデアをつくる」ことができる可能性が広がる。

 

また、真にすぐれた広告マンの特徴として下記の2項目を挙げている。

第一は、例えばエジプトの埋葬習慣からモダン・アートに至るまで、彼らが容易に興味を感じることのできないテーマはこの太陽の下には一つも存在しないということ。人生のすべての面が彼には魅力的なのである。第二に彼らはあらゆる方面のどんな知識でもむさぼり食う人間であったこと。広告マンはその点、牛と同じである。食べなければミルクは出ない。(p.37)

この部分は『子どもは40000回質問する』でも強調されていた話である。

「好奇心」というものが無限大であること、そんな「人生のすべての面が魅力」に思える人がいろんな知識を組み合わせていくことができる。

 

会社の机の形だったりエレベーターのボタンが触れる式のものであったりボールペンの滑らかさだったり、、、なんでも良いと思う。とにかく身近なものに興味を持ってみる意識を常に意識してみること。端的にそれが一番よく伝わってきた本であった。

 

 

◆『広告マンバイブル』

だいたい1冊目と内容が似たような本ではあるが、アイデアの話に限らず、「市場の知識」や「メッセージの知識」など様々な観点から広告マンの仕事を考える。

 

広告に備わる5つの機能を後半では詳述している。

広告の5つの機能(p.77)

1 身近なものにさせること

2 思い出させること。

3 ニュースを広めること。

4 停滞した状況を打破すること。

5 製品のなかにない価値をつけ加えること。

基本原理として今でも読む人が納得するようなことが多い印象。

何も意味がない言葉でも繰り返し言い続ければどことなく「身近なもの」となる。選挙で自分の名前を連呼し続けることに何の意味があるんだと思っていたこともあったが、こうした意味合いを含めているとも(無理やりだが)捉えることができると思う。

 

こうした機能を十分に活用する前提として、「人間理解」が重要になる。

人間とは何か?人間の心的・物的要求は何なのか?などを考え、それを的確に捉えることを「広告」によって実現できること。相手の本心理解へ近づくプロセス自体が「広告」なのであるといったようなことを(たぶん)著者は述べていた。

広告自体の機能面の理解に加えて「人間理解」というところにも入っていくことを強調していたような気がする。

 

 

蛇足部分だが、個人的に冒頭部分で著者が引用していた言葉が気に入った。

<希望を持って旅を続けることは、目的地に到着するよりもずっと良いことだ>(ロバート・ルイス・スチーブンスン『ロバ旅行記』)(p.9)

過程でのあらゆる経験へ関心を持って生きることが楽しいこと、という感覚はこれまででも色んなことで実感してきた気はしている(何かの実行委員会であったり文化祭の準備であったり?本番ほどあっけなく終わるものなんか特に)。

 

イアン・レズリー(著)、須川綾子(訳)『子どもは40000回質問する:あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』(光文社、2016年)

 

主題にばかり目がいっていたので、「好奇心」がメインテーマであるとは思わなかった。子どもの教育関係の本というよりも、大人も含め「人間と好奇心」について体系的に書かれた本という印象。

 

◆好奇心を抱く意義

一見役に立ちそうにない事柄も含め、学ぶことの本当の美しさとは、自分だけの世界から抜け出し、自分が壮大な営みのなかで生きているのだとあらためて思い起こすことにある。私たちは学ぶことで、少なくとも人間が言葉を交わすようになってから受け継がれてきた、とてつもなく壮大な営みのなかで生きていると実感できるのだ。(p.31)

意義については様々な形で示されてはいたが、一番印象的なフレーズはこの点であるのかなと思う。好奇心によって得られたものがどこに繋がるといえば、仕事でも学問の深みでもあるとは思いつつも、壮大な営みの中にいる自分に繋がることであるというところに行き着くのだろう。

 

◆好奇心だけで良いというわけでもない

「知識偏重型教育ではなく、子どもの好奇心の幅を広げていく教育を」ということはよく聞く話であるが、著者はその好奇心を養うためにもある程度の「知識」の必要性を訴えていることも印象的であった。「知識偏重型教育」が否定傾向にあっても、「知識」それ自体を否定するのは好ましくないと自分自身も思っている。

 

 知識を積み重ねることは充実した長期記憶を構築するために必要であって、時代遅れでもなんでもない。知識こそが、私たちの洞察と創造性、好奇心の源泉なのだ。「好奇心駆動型」の教育スタイルの致命的な欠陥は、好奇心が知識の獲得の原動力になるのと同じくらい、知識が好奇心を育む原動力になることを見落としている点である。(p.215)

 

 知識はたとえ浅いものでもー多くのことについて少しずつしか知らなくてもー認知上の帯域幅を広げてくれる。劇場や美術館を訪れても、小説や詩、歴史の本を読んでも、より多くを得られるということだ。(p.216)

 

少しの「知識」があるだけでも好奇心の幅が広がる。逆に全く知識がなかったり、知識を抱きすぎているような時であったりしたほうが「好奇心」は発達しにくいらしい。

徐々に知識の幅が広がることで長期記憶が養われ、関連づけが深まっていく。そうすることで面白さがさらに理解できるようになり好奇も深まる。

 

◆好奇心維持のために

大きく7つの項目で説明していた。

好奇心を持ち続ける7つの方法(pp.310-313)

1 成功にあぐらをかかない

2 自分のなかに知識のデータベースを構築する

3 キツネハリネズミのように探し回る

4 なぜかと深く問う

5 手を動かして考える

6 ティースプーンに問いかける

7 パズルをミステリーに変える

 

ティースプーンに問いかける、というのは些細なことへの集中を意識すること。日常生活の中で興味深い事例を探してみる感覚を大事にしたいという話である。

 

駐車場の屋根、ハンドドライヤー、牛乳ーどんなものでも集中して観察すれば、隠れていた面白さや意味や美しさが明らかになる。(p.276)

 

また本書では「調べれば答えがわかってくるようなもの」をパズルと表現しており、現代社会がパズル社会となっているとする。考えて答えが出てくるまでの間の時間(あるいは考えても答えが出てこずに終わってしまう感覚)が短くなることで、好奇心を維持する時間も短くなってしまう。パズルではなくミステリーを日常社会の中に持ち込んでいきたいものである。

 

あらゆる疑問に対して徹底して効率的に答えを提示するインターネットは、その答えよりももっと貴重なもの、すなわち生産的なフラストレーションをもたらす機会を断ち切ってしまう。私の理解が正しければ、情報の扱いに慣れた子どもを育成することが教育の唯一の目的でもなければ、最大の目的でもないはずだ。教育とは、時間を費やすことで純粋な興味へと発展するような疑問で子どもたちを満たすことでもある。(pp.105-106)

 

 

◆その他

グーテンベルクによる印刷革命が好奇心のための装置になったという話や、知識が本質的に不安定なものであることを教えてくれるなどと、ウィキペディアを完全に否定するわけではないスタンス、テロリストとの交渉官が相手の考え方を本気で知ろうとするという「共感的好奇心」を活用する話、、、などなど具体事例での興味深さも枚挙にいとまがない形。

 

 

カーレド・ホッセイニ(著)佐藤耕士(訳)『君のためなら千回でも(The Kite Runne)(上・下)』(早川書房、2007年)(2016/09/04)

 

◆背景

身内が読んで感動的だったから読んでみて、ということで手を出してみた。

舞台はアフガニスタンで、タリバンの支配以前から始まり、幸せな状態の国から不幸な国へ。国が比較的幸せな時に個人の幸せが見つからず、苦悩の日々を過ごす主人公。ともに育った友を取り返しのつかない形で裏切ってしまい、26年が経ってから再びそのことを思うきっかけが出てくる。

 

◆所感

<国>

アフガニスタンという国自体の不幸が物語が進むに連れて描かれていくことが非常に印象的だった。ソ連によるアフガニスタン侵攻、タリバンによる国の支配など結果的に国自体が不幸になる流れの中で小説が展開されるためにリアリティさが伝わって来る。国民同士が対立してしまっている描写もあることから辛い感覚に陥ることが多々あった。

 

<主人公>

もちろん主人公の「弱さ」「臆病さ」からストーリーが始まることから、そんな性格の主人公がどのような行動をとっていくのかを知りたいがためにどんどんページがめくられていく。

 

"もう一度やり直す道がある"ラヒム・ハーンはいった。

嘘と裏切りと秘密の繰り返しを、終わらせる道。(下・p.53)

 

哀しい現実にぶち当たりながらも、主人公がどのように考え決断するのか。

目が離せない。個人的には原題の"The Kite Runner"という言葉響きが好きで、そこに関わるシーンを想起するだけで心が温まるような感覚に包まれる。そこだけをとっても印象的で良い小説であると思っている。

金菱清『震災学入門ー死生観からの社会構想』(筑摩書房、2016年)

 

以前講演会でのお話を聞いてこうした分野での関心が深まったので著書の方も読んでみた。タクシーの運転手が見た幽霊のお話が一時期ニュースになっていた。(http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/07/yuka-kudo_n_9398868.html

開沼博さんの『はじめての福島学』も1年ほど前に読んでみたが、当時から数年経った上で振り返ってみる震災について考えるきっかけが多くなってきた。

 

◆死者との向かい合い方

死者とは一体誰なのか、生者との関係は?

内田樹さんの様々な著書でこうした話を聞く。この本の中でもそうした話も書かれており、家族が突然「生者」と「死者」に分かれてしまった人の感覚について考えるきっかけとなったと思う。

 悲しみは、それだけ自分の人生に大きなものがもたらされていたことの証であり、死者は目には見えないが、見えないことが悲しみを媒介にして、実在をよりいっそう強く私たちに感じさせる、という。彼の言明は、死を彼岸に追いやる現代の趨勢に抵抗して、家族を突然亡くした人びとの感覚と非常に重なっているといえるだろう。(pp.98-99)

この一節を読むことで自分自身も経験したことが思い出される。

震災ではなかったが、突然友人の訃報を知らされることもその感覚に近いような気はしている。

 

◆防潮堤

津波を防ぐという側面では意義のある政策に見える防潮堤だが、景観論やコストの問題など様々な問題も合わせて含まれてはいる。またそもそも本当に「安全」を確保するための政策になっているのかという問題もある。

 危険地域に堤防をつくるのは行政の仕事、浸水想定区域をハザードマップで示すのも行政の仕事、避難の必要があれば防災無線で知らせてくれる、これら自分の命を守ることに対する主体性が失われ、災害過保護的状態が顕著で、その結果として人為的につくり上げた安全は、物理的、確率的な安全性を高めたが、人間や社会の脆弱性をかえって高めることになっている。(pp.109-110)

人為的に作られた安全が逆に脆弱性を高めるとは。

「安全」を他人(=行政)に任せ切ってしまうことが逆に危険につながるということなのか。「防潮堤があるからもう安心」のような気持ちでいることが柔軟な避難につながらないということはあるのだろう。

 

◆住居

人が住む場所についても複雑さをはらんでおり、復興ということで津波が来ない安全な場所に移り住めば解決、という簡単な問題ではない。

 海に背をむけることなく海で生業を営む人びとは、海と遠く離れて住むようなことはない。たとえ命や家屋を流されたとしても、津波を日常の連続性のなかに組み込んでいるのである。漁師や海の近くで暮らす人びとでも、流されればまた建てればいいだけの話とかなり割り切った言い方をする人はかなりの数にのぼる。

 しかし、このような日々の暮らしの水準における時間は、自然科学者のフラットな時間軸に対して、かなり濃くて、自分が生きる前の時間は、30年前も何万年前と同じように現在から比べれば薄いのである。(p.39)

フィリピンなどの高潮被害を被る国でも同様の声があると聞いたことがある。行政が高潮の被害の及ばないエリアでの住宅再建を進めようにも、漁師などの海での生業で暮らす人々が海沿いに戻ってきてしまうという。防災面では離れた場所に住むということが最善ではあるが、結局は自分が生きるための場の近くに住みたいということなのだと思う。高潮のリスクを受け入れた上で住んでいるのかははっきりとは分からないが、「安全」という主軸をひとつ通すことすら困難なことが復興なのかなと。