(3)起湊屋での円空講演会と三岸節子記念美術館(1112日)

 

三番目は、実は一番早く私に来た案内情報で、1015日づけで、長谷川公茂先生から、

1112日に、一宮市起字堤町の茶店湊屋で、「円空仏の写真展と講演会」が開催される

という案内で、10:30から「人々に生きる喜びを与える微笑の円空仏」というテーマの講演の後特製ランチで食事をするということです。

写真展は1112日~16日まで湊屋西の蔵で、土日水の3日間のみ開催。

 

 

 

 

 

 

会場となる湊屋とは、美濃路の宿場町「起宿」で船問屋として栄えた「湊屋文右衛門邸」で、築150年、明治24年の濃尾大地震にも倒壊しなかった起宿唯一の建物です。

 

起宿は、美濃路(東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ脇街道)の7宿のひとつで木曽川に於ける起渡船場として、古くから人の行き交いや物資の集積の中継基地として賑わった定渡船場でした。その船の管理、運航を任されていたのが船庄屋で、その下に「船方肝煎」が数人おり、その一人が「湊屋文右衛門」でした。

 

かれは、渡し船を扱うだけでなく年貢米の輸送にもあたり、早くから木曽川の舟運を利用して遠隔地との取引をおこない、寛政年間(1789-1801)には「縞木綿を扱う仲買商」として成長しました。越前丸岡から糸を仕入れそれを地元の機織りに売りさばき、織り上がった縞木綿を全国に売りさばいていたようです。

 

湊屋文右衛門は、慶応4年(1868)の起村身代向書上には、身代1000両以上、正業は織元・船方肝煎の小川文右衛門として記載されています。この小川家は明治年間に東京谷中に転居され、日本で初めてのデザインタオル製造といわれる「小川タオル」を興こされました。

 

その後、昭和27年に空家になっていた湊屋文右衛門邸を、丹羽家が購入され平成21年まで住まわれていましたが、転居されるにあたり、何とか残す方法がないものかと、

名工大是沢典子研究室に相談され、(株)まちづくり一宮21に委託し、そのもとに市民団体「湊屋倶楽部」を設立して管理活用に当たることになりました。建物は、平成229月に,文化庁登録有形文化財に登録された。

 

「湊屋倶楽部」は、「旧湊屋文右衛門邸を食の拠点として美濃路の振興を図り、かつ集会の場に活用して日本の伝統的な暮らし方を考える」ことを目的に、ボランティアで運営され、各種の活動を、ここを会場にして開催されている。

たとえば、1016~26日堀部美奈子木彫り作品と有松絞コラボ展示会。

 1016日(日)渡邊みかこシャンソンライブ(オープニングセレモニー)

 1023日(日)詩人佐藤一英童話の朗読会

 1029日(土)野田ひさ子ジャズライブ

 1112~16日 円空写真展 12日(土)長谷川公茂氏講演会

 

1112日(土)は、朝730分すぎに家を出て、名鉄電車を乗り継いで一宮駅に着きました。ここは、妻千恵子さんの今伊勢町の実家に一人で行く時、いつもここまで来て駅からタクシーに会社の名前をと言うと、それだけで目的地へ連れて行ってくれました。

 

起へ行くバス停が見つからずかなり迷いましたが、とにかく1010分過ぎには、湊屋に着きました。店に入るまえに、堤防に上がり濃尾大橋を眺めました。

昭和31年に濃尾大橋が開通して起の渡船場は廃止されたのです。

堤防に上がると、濃尾大橋は車がいっぱいでゆっくり流れていました。

起の対岸は羽島です。木曽川を越えれば、円空の出生地の中観音堂はすぐそこにあります。そこに何か縁を感じます。

 

 

 

 

 

 

始めは蔵の中で円空仏の写真を展示し、10名位を相手に長谷川先生がお話をするという企画でしたが、申込み者が30名を越えて急遽別室で講演を行うことになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 長谷川公茂先生のお話

ここ、旧湊屋文右衛門邸は、文化庁登録有形文化財として登録されましたが、公共的な支援は全くなしなので、一宮で喫茶店チェーン「野の花」を経営して見える大島八重子さんが「湊屋倶楽部」の代表になってこの「旧邸」を維持しているのです。私の娘も「野の花」にお世話になっている関係で今回の企画をお受けしました。

 

私は昭和888日の生まれで89歳ですが、一日違いの89日生まれに黒柳徹子さんがいます。

 

 徳川家康は、九男義直の名古屋入りに際して、犬山から佐屋に至る木曽川の堤防50kmをわずか10年間で築かせました。堤防の下は、私が生まれた下島とか、時之島、宮田、荒井、等どこにも坂道はなく、河原のようなものでした。一方の美濃の側の堤防は3尺低く作らせれていましたので、洪水の時は必ず美濃側の堤防がが切れました。

 

 円空は,1632年に羽島竹鼻に生まれ、7歳の時大洪水で母が亡くなり、孤児となってお寺に預けられました。羽島は、竹鼻別院があるように浄土真宗の地盤でしたので、真宗のお寺に預けられたと考えられます。

それから、そこを離れ修験道の道に入り各地の山にこもりで修行しながら、庶民の救済を願って仏像を彫りました。

 

五來重という修験道研究の先生は、円空は木地師出身だと考え、円空の出身地を郡上美並村と考えました。

私は、以前から竹鼻を出生地と考え、7歳の時の洪水での母の死を重要視していました。

 

羽島の中観音堂には、母の33回忌を期して十一面観音像を彫って建立したという言い伝えがあり、その十一面観音像の裏に10cmほどの埋め木があって、開ければその人は死ぬとされていました。それを「開ける」ということで私が立ち会うことになりました。

 

すると、紙屑に包まれた8cmほどの鏡、5cmの阿弥陀像、般若心経の一部、筆などが出てきました。この鏡こそ、母の形見で、円空の和歌で詠われていた「わすれ鏡」だったのです。

  我が母の 命に代わる 袈裟なれや 法のみかげは 万代をへん(円空歌集880

  あさことに 鏡の箱に かげ見へて 是はふた世の 忘れ形見に(円空歌集445

 

 私の円空仏との出会いは江南の音楽寺でした。当時私は画家を目指し、日本版画協会に属し、入選はしてもなかなか入賞できませんでした。ある先輩が、「10人の審査員に挨拶をしたのか?」と指導を受けました。”絵の世界でもそういうものか。絵の本質はどこにあるのか”と思いました。

 

音楽寺の仏像を見た時、その笑顔の仏像、ここにこそ真髄があると直観しました。

円空についての本を讀んでいくと、その背景には弥勒信仰があって、弥勒菩薩は、仏陀入滅後56億7千万年後にこの世に現れ人々を救済する”未来仏”とされ、その「下生」に今から備えようとする信仰です。

 

弥勒がこの世に出てくるとき、お役にたてるのは、ミイラ(即身仏)になったものだけで、弥勒が現れるまで仏教を守っていくのが私の使命だと、円空は心に決めていたのです。

 幾度も 絶へても立つる 三会の寺 五十六億の 末の世までも (円空歌集222

 

そのために円空は、生涯12万体の仏像の造顕を悲願し、全国の神社のみならず多くの人々に直接渡されました。

 

 円空は、仏像のほかに、和歌も残しています。

昭和35年に洞戸の高賀神社に参詣した時、そこの「大般若経」約600巻の裏表紙に貼り付けれた円空の歌集を発見しました。

 

それから高賀神社に通い、巻物から折り本にしていく時に使われた裏紙がやがて剥がれてきたものを一つづつ表装してから写真に取って読んでいきました。

私は、円空仏の微笑の謎を解こうと追求してきましたが、ここで円空自身の肉声でもって円空を語ることの喜びを得たのでした。

 

先輩から「円空研究者にも利用できるように『円空歌集』を出版せよ」という声に押され、3年後の昭和38年に「底本円空歌集」を自費出版しました。

そのとき、最後に円空の年表を作成して付けました。

 

円空の没年は、1695715日と、墓碑銘にある通りはっきりしていますが、生まれた年が解らなかったのでしたが、私は円空歌集から、1632年寛永九年とし、生地を中観音堂のある竹鼻上中町を有力と書きました。

 

賀 ほそき世の みの一はも 富ならで 十といえど 六はへにけり(円空歌集474

これは、寛永9年壬申生の円空が元禄5年壬申で還暦を迎えたこと詠った歌です。

それから10年後群馬県富岡の一之宮貫前神社の「大般若経」奥書で「壬申年生美濃国円空」と自書したのが出て、確定しました。

 

私は、この歌集の中に円空の本当のこころが詠われていることを確信しました。

 作りおく 神の御影の円なる 浮世を照らす かがみ成りけり(円空歌集1332

 楽しまん こころとともに 法の道 月のみやこの 花の遊びか(円空歌集1256

 もろともに 浮世の中は 神なれや 思う心に 身は渡りつつ(円空歌集749

 

ほほえみの仏像から始まった私の円空の旅は、円空の歌集を通じて、円空の心の中に分けゐていくことになり、それは私自身の心の中に分け入っていくことにもなりました。

こうして、仏教徒でもないのに、全国の寺社を周り、又仏教の研究をしたり、「円空」を「体験」しようと「内観道場」に入ったこともありました。

 

今想うのは、我々人間は、仏さまに生かされて生きているということです。

仏の掌から生まれ、自分の寿命も自分で決めることは出来ない。

阿弥陀様に生かされいるからこそ毎日が極楽のように生きられる。

自分の中の、仏の命(宇宙生命)を生きているのだ。

他者への救済こそ人間の幸せな生き方なのである。

きっと円空はこのように思い至ったのだと思う。

 

 私はこれまで全国を回って円空仏の写真を撮ってきましたが、円空の写真には人を癒す力があると信じています。

昔、私が旅から帰ってきて寫眞を現像していると、父が寫眞を見て、「いい顔しているなあ」と言ってくれました。

 

私が円空の研究を始めた頃、名古屋松坂屋美術館ではじめて「円空展」が開かれました。それが東京、大阪でも開催され全国的に「円空」ブームが起きました。

 

いま、地方の無人のお寺や地域の組合に保管してあった「円空仏」が盗難にあって、一部美術市場に出てくることもあります。

 

私は、65年の間円空の研究はしてきましたが、これまで一体の円空仏も所蔵していません。その理由は、「一体持っていたら、きっと次が欲しくなるに決まっている」から。

 

私は、これまで撮影した写真は12万枚を超え、親友から「円空上人の心を伝える会」として「微笑みの円空仏」を冊子にして発行することを勧められ、これまで、13集まで発行することができました。

もう89歳を迎え取りあえず15集まで頑張りたいと思っています。

 

昔円空の写真を取り入れた名刺を25万枚作って配りました。今日は、円空仏の写真を貼り付けた色紙と円空仏の写真を挟みこんだ掛け軸風のものの2種類を頒布用に開発しましたので、あとからゆっくり見てください。今日は有難うございました。

                     (2022.11.17) 

 作成 しまだゆうじ 当日のメモから「円空の生涯」「円空歌集」を一部参考に作成

 

 

 

 

 

 

 

鮎の塩焼きと冬瓜汁がついた湊屋特製弁当を頂き、それから、円空佛の写真の二種類を見るため写真展の西蔵にいきました。まだ誰もいなかったのでゆっくり選ぶことが出来ました。色紙5枚、掛け軸風を2枚選んで、元のところに戻ってきたら、長谷川先生と記念寫眞撮影の最中だったので便乗して撮っていただきました。

 

13時過ぎになって、湊屋から歩いて1km位のところにある「三岸節子記念美術館」に向かいました。「三岸節子記念美術館」は、この起市出身の洋画家を名誉市民として、その生家である元毛織物工場や土蔵などを改造して美術館にしたもので、平成10(1998年)に開館しました。

 

 

 

 

 

 

 

「三岸節子」は、明治38年(1905年)に起の豊かな地主で毛織物工場を経営する家の4女として生まれたが、幼少の頃から「先天性股関節脱臼」で辛い幼少期を過ごした。

12歳で名古屋の淑徳高女に入学し寄宿舎生活に入ります。ここで読書や絵を描くことに関心を持つ。

 

大正9年(1920年)に実家が倒産。そのとき15歳の彼女は「一家の苦しみを何者かになってとりかえそう」と決意し、兄の援助もあって、16歳て単身上京し岡田三郎助の指導を受けることとなり、女子美術学校の西洋画科に学んだ。

 

大正11(1922年)札幌から上京し母と妹と狭い室に住んでひたむきに制作をしている三岸好太郎と出会い、その貧しい生活のなかで芸術を志す彼に感動した。

 

「当時の私には貧しさに対する正義感から、純粋で清潔な尊敬の念さえもっていた。

ふたりの芸術家の生活ぶりをみてこれこそ真の生活であると信じてしまっている。

貧乏の実態もがいかなるものか少しもわきまえず、無分別にさえも高貴なものに昇華するような、冒険の誘惑も手伝って三岸の胸に飛び込んでいる。」(「女流画家の血みどろの路」)

 

19歳で結婚、翌年1925年に長女が誕生、夫婦揃って春陽展に出品して入選。女性初の入選作家となった。これから女性画家の地位向上を目指し「婦人洋画協会」を結成、全国に作品展を展開していく。

 

1929年長兄の援助で中野鷺宮にアトリエ付き住居を新築し、長男を出産。三人の幼児の子育てと好太郎の母と妹の看病に追われ、満足な制作時間もとることができなかった。1934年好太郎は胃潰瘍で名古屋で急逝。享年31歳。わずか10年の結婚生活であった。

 

それから、三人の子供の生活費と生前好太郎が立てはじめたアトリエ建設の資金のため、節子は挿絵、座談会、エッセイなどどんな仕事でもこなしながら、制作と出品を続け、東京や大阪で個展が開かれるようになり、女性画家としての存在を高めた。

 

戦時中は、全ての公募展が開催中止や解散となった。画材もすべて配給となり、「大東亜建設に寿ぐ」という命題で80号の作品を出品することが奨励されていた。節子はこのなかでも「新制作派協会」のもと、自由な在野団体として活動していた。

 

19459月には節子は銀座の日動画廊で早くも個展を開き、「婦人民主クラブ」にも参加。「女流画家協会」の結成を提唱した。彼女の作品が、文部省買い上げ作品になったり戦後初の海外展にも選ばれた。こうして日本を代表する画家として認められるようになった。

 

19543月好太郎も夢見たフランスへの旅を実現。パリ、カーニュ、スペイン、イタリアを廻って、19556月に帰国。ヨーロッパの風景画家として名声を博した。

 

帰って来てからの彼女は「日本美術に大変自信をもって帰ってきた」と語って、埴輪や素焼きの壺などの日本古来の美術品をモチーフとする作品を制作する。

 

「原始美術の魅力はこれらのものを生み出した背後の人間生活にこそあるのであって、作品とは切りはなせぬものである。生きるという本能は、見えるもののほか、見えざるものの世界をも透徹した本能で体得したのである。文明が合理主義に従属して、見えざる世界へ立ち入る本能を磨滅させてしまった。」(「原始美術と現代」)

 

1957年から節子は、50歳を迎え著しく体調を崩し、精神の不安を招き、制作活動も困難になって、苦しんだ。一人軽井沢の山荘にこもって過ごした6年の思いを込めた作品は貴重である。

 

1964年から太陽と大海原に囲まれた大磯の山荘に移り住んだ。

「私は大磯に移り住んで太陽画家になった。風景画への開眼はここで始めて可能となり、生物に、花に、太陽が必ず登場する、太陽こそ生命。エネルギーの源泉。活力源。樹木が太陽に向かって手を差し伸べるように、視界いっぱいの蒼穹。両手をさしのべて太陽讃歌に歓喜雀躍する。私はとびきり明るく快活で自由で奔放になる。」(花の四季太陽讃歌)

 

1965年好太郎の生まれ故郷の北海道を訪れ、これまで節子が全国各地から買い集めてきた、好太郎の絵をまとめて北海道に寄付することを決め、それを基に北海道立三岸好太郎美術館が、1983年に開館する。

 

1968年息子の黄太郎一家とともに再び渡仏し、南部のカーニュにきて、そこを拠点にベネチアを愛し、フランスパリでも個展が開かれ成功した。これから20年にわたりパリ、スペイン、イタリアなどの風景画作家として確固たる地位を築いたのである。

 

1988年故郷の尾西市で節子を名誉市民に推挙し、市政35周年記念に「三岸節子新作展」を開催。これをきっかけに美術館建設の署名が集まり、記念美術館建設が進められ、

1998年に完成した。この時節子は生まれて77年たっていた。

 

19897月新たなる展開を願い大磯のアトリエに帰国。

1990年朝日賞。1991年ワシントン女性美術館で回顧展。

1994年文化功労賞 1998パリ回顧展

19994月急性循環器不全のため94歳の生涯を閉じた。

 

     (三岸節子収蔵作品集「三岸節子の生涯」から)

 

以上、三岸節子の生涯を詳しく記録したのは、彼女の人生と、私の妻千恵子の生涯とが時代が違え少し重なるところがあるからである。

 

 千惠子の実家は、尾西とおなじ、一宮・今伊勢の毛織物工場の6人兄弟の4番目に生まれ、小さい時から家庭教師について学び、お琴、ピアノ、書道等を習い、中学校から名古屋の中学に越境入学して電車通学をし、高校、大学と名古屋の典型的コースで進学をした。

 

ところが大学で、体制批判的な研究会サークルに入って活動するようになり、家に帰って来ても、両親と意見を激突させることが多く、大学4年のとき、長兄のお嫁さんに、姉と同級生の人が家に入って来ることが決まり、自分の明日をみる思いで、家に居たくなくなった。

 

 卒業しても、うまく就職先が決まらず、高校の産休の代用職員を1年経験して学校の教師は向かないことを知り、義姉の紹介で名古屋の印刷活字会社に就職したが、その7月、大学時代のサークルのリーダーであった、町工場の職人の息子で、いつも特別奨学金とアルバイトをして一人で大学生活をしていた男と家出同然に結婚した。

その時彼女は「名もなく貧しく美しく」という生き方をして行くと誇らしく宣言した。

 

結婚後、それから続けて3人の子供が出来、子育てに苦労をし、本来の自分はどこにあるのか分からなくなっていった。長女の子育てに悩み、夏休みにヤマギシ会の「幸福学園」に子供入れることを決めた時、誘われてヤマギシ会の特別研鑽講習会(特講)に参加して、一挙に「もう娑婆に戻りたくない。ここで参画してヤマギシの生活に生きる」と一方的に決意した。

 

我々家族が駆けつけ、向こうの幹部は「とりあえず帰れ。夫も新春には特講に来ると言っているのだから。それから一緒にくればいい。」」と彼女を家に返した。

 

それから彼女は、ヤマギシで覚えた「整体と活元運動」や「玄米食」等の自然食に取り組んだ。第4子を生んで、住いを名古屋の借家から岐阜の西可児に新築の家を建てて移った。

そこで夫の両親との同居もして、地域で幼稚園前の子供を抱えるお母さんたちを集めて「ちびっこひろば」という子育てサークルをつくったりして、活発に活動していたが、義母がアルツハイマーになって同居していた両親が名古屋に帰って行ったとき、自分の無力感から心が落ち込み、寝込んでしまった。

 

そうした中を、近所の信仰深いお母さん方が訪れ、彼女は、38歳の時、創価学会の信仰生活に入り、先輩方の指導を純粋に受け容れながら、「聖教新聞」の配達員に自ら手を挙げてその仕事についた。以来発病で足が動けなくなるまで22年間雨の日も風の日も休まず毎朝、新聞配達を続けてきたのである。

それから58歳で地区の婦人部長を務め、66歳と1か月、自宅で早すぎる最期を迎えた。

 

私には、節子と千惠子の生涯がだぶって見えてしまうのである。節子が好太郎の作品を買い集め、北海道に記念美術館を完成させたように、私も千惠子が亡くなってから、千惠子が残したノートやメモなどから、「千惠子の記録」を10年にわたって、26冊を私が編集印刷して彼女の4人のご兄弟と4人のこどもたちに送っている。(まだ継続中である)

 

 

 

 

 

 

 

私が少し汗をかきながら「三岸節子記念美術館」に着くと、昔の毛織物工場ののこぎり屋根の形を残した建物が見える。

 

本当の工場は、ここのように茶色ではなく、白いスレートの屋根とトタンを貼った安普請の建物で、のこぎり屋根から自然採光を取るコスト最低のものだった。日曜でも一日中ガチャンコガチャンコと紡織機の音が絶えず聞こえ、全国から集められた女工さんたちが交替で働いていたのである。

 

この日、特別展では、「河鍋暁斎の娘曉翠展」が開催され、明治の半ばから昭和の初期にかけて活躍した女流日本画家で初めての作品展だそうです。

 

河鍋曉翠は、幕末から明治の初期に、狩野派から浮世絵まで幅広く活躍した河鍋暁斎の長女で、父の教えを受けるとともに歌絵や物語絵などのやまと絵を得意とする土佐・住吉派の技も身につけ、美人画や浮世絵などを書いた。

 

22歳と時に父と死別。父の書き残した作品を完成させたりしている。明治30年後半には女子美術学校の教授をつとめ教育者としても活躍した。後年は両家の子女や趣味人の個人教授が主体となり、盆石「古月遠山流」の家元となった。1935年(昭和10年)脳溢血で急逝した。67歳。

 

二週間前に千葉市美術館で見た「新版画」程に感じなかったのはなぜであろうか。

思うにそれは、この日本画は、余りにも様式形式が決まっていて、それをなぞっていくことが求められているため、その前提の知識がないと少しも面白くない。退屈となる。

 

「湯屋の七福神の石鹸の広告」は本当に傑作だとおもうが、あとの錦絵風のおどろおどろしい色遣いには辟易する。やはり体質に合わないと思う。

 

一方、常設館の「画家の系譜」は、節子の「自画像」からはじまって年代順に「花果実」「静物」「室内」「火の山にて飛ぶ鳥(軽井沢山荘に)」「スペインの白い町」「霧」「花」「ブルゴーニュのブドー畑」「モンマルトルの家」「花」「作品1」「作品2」「作品3」と20歳から86歳までの作品は皆素晴らしかった。

 

あとの小林和助、三岸好太郎などの作品は、節子の作品に比べものにならないくらい力がないと感じた。

 

奥の蔵屋敷の展示は、埴輪やメキシコの壺等彼女の興味の広さを見せて面白かった。

 

カメラに一通り収め、カウンターで「三岸節子収蔵作品集」と「貝殻旅行ー三岸好太郎・節子展」の2冊を買って美術館を出た。

朝、濃尾大橋口迄乗ったバスに乗って一宮駅まできて、今度は、岐阜から各務原線経由で犬山に来て4時には西可児に到着した。

        2022.11.18 やっと完成/12.05一部補正    

                         しまだゆうじ

(2)三重県総合博物館(三重の円空展)と一身田高田専修寺(118日)

 

 二番目は、これもNHKのローカル番組でチラッと、三重県総合博物館で「三重の円空展」が開催されている、という放送があり、ネットで調べたら、10/8-12/4で、志摩の大般若経見返しに書いた絵を全点公開するとともに三重の円空仏を展示している、とあった。

 

118日(火)やはり朝8時に家を出て8:15の電車に乗り、名鉄から近鉄に乗り換え、津に降りたのは10:23。それからバスに乗り、三重県総合博物館に着いたのは、11時前でした。三重県の文化センターや図書館などが緑の中にゆったりと立っていて、博物館へは広く長い階段を昇って、2階に受付がありました。

 

 

 

 

 

 

 

企画展のチケットをもって3階にあがり、ミエゾウの全身骨格標本の展示を回って、企画展「三重の円空」の入口に入る。

中はすぐに、志摩の片田や立神の大般若経の見返し絵の展示がつづき、2部屋を埋める。3の部屋は三重の大型の円空仏が並べられ、4の部屋は個人蔵の円空仏のような小さい仏様が展示されている。また、円空の事績を記した「近世畸人伝」と「東蝦夷日誌」の原本も陳列されていました。

 

入場客は平日のこともあり、34人くらいの人がじっくり見学しているようでした。途中小学生が数人集団で乱入してきましたが、彼らには少し無理のようです。

 私としても、僅か1時間ほどで切り上げ、ミュージアムショップで「図録三重の円空」などを買って、受付に戻りました。

 

「ここと同じ一身田にある高田専修寺に行きたいのですが、どういけばいいか」と聞いたら、「歩いたら1時間はかかりますよ」という。

 

又バスに乗って津駅に戻り、JRで一身田駅に行くことにする。バスもJRも乗っているのは5分足らずだが、いずれも待ち時間が大きい。バスは1時間に2本、JRが1時間に1本である。それでも、1時ごろには、無人駅の一身田の駅に着いて、駅からぶらぶらと高田専修寺のあたりへ歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 すぐ赤い小さな橋があり、そこに濠が巡っていた。濠で囲むのが寺内町の特徴であるとは聞いていたが、思うより狭いのに気がついた。実戦用ではなく象徴としてあったのではないかと思われる。

濠に沿って進むと、大きな「唐門」があって、そこから境内に入った。正面に「如来堂」(本堂)があり、橋で隣の「御影堂」と結ばれている。御影堂の正面に立ち、靴を脱いで一礼をして段を昇り、国宝・御影堂の大きな襖を開けた。

 

 

 

 

 

 

中は金襴極彩色に満ち、正面に「見真」という額が架かっている。調べてみると明治天皇真筆を原本に制作したものであるという。中をゆっくり一巡してからそこをでて、「如来堂」に続く「通天橋」の方に進み、何枚か写真を撮ってからもとの所に戻ってきた。それから「山門」をでて、再び濠沿いに歩きだした。

 

古い町並みを感じさせるたた住まいがつづき、それから「一身田寺内町の館」という情報センターを発見し、中に入って、一身田寺内町に関するパネルを見たり各種のパンフレットを集めて外にでた。その情報をまとめると、次のようなことが分かった。

 

 高田専修寺は、もとは下野国、今の栃木県真岡市高田にあって、親鸞聖人が建立されたのが始まりで、ご本尊に長野の善光寺から「一光三尊像」を迎え、高弟真仏上人に後を委ねたが、その後戦火に焼かれ、1464年(寛正5年)高田派十世真慧(しんね)上人が、東海北陸の布教する拠点として、この一身田に無量寿院(後の専修寺)を築いて、上人がここに移ってきたことで一身田が高田教団の中心となった。

 

一身田は当時、伊勢神宮の荘園だったが、伊勢街道と伊勢別街道(東海道関宿ー伊勢街道江戸橋)の交わる交通の要所であった。そこに高田専修寺ができて、賑わっていくと、16世紀には、寺内町が形成され、信長時代には、加賀や長島などの本願寺派と組むことはなく、信長政権と深くつながり、江戸時代の藤堂家とも縁戚になり、広大な土地の寄進を受け、境内地が9万平米となって、専修寺を中心とする環濠をめぐらし、町に入る三つの門(赤門、黒門、桜門)を整備し寺内町の形成も行われていた。

 

境内には、1666年(寛文6年)全国屈指の大きさを誇る現在の御影堂が建立され、1672年御廟、1704年山門、1748年には門信徒の25年にわたる寄進でできた如来堂など順次幕末に至るまで伽藍の整備がなされた。

 

明治になり、境内と墓地以外の寺領を失い、1974年(明治7年)には三つの門が売りに出されるなど苦境に至った。しかし、今もなお、一身田の寺内町では、環濠がほぼ完全な形で残り、専修寺をはじめとする多くの寺院や古い民家などのたたずまいが往時の面影を残していて、何回も時代劇のロケ地になったという。

 

 高田本山専修寺には、建物としては、国宝として、御影堂、如意堂があり、その間を重要文化財となっている通天橋という廊下で結ばれている。御影堂の正面に立つ山門、如意堂の正面の唐門、太鼓門、御廟唐門など11棟が重要文化財となっている。

 

親鸞84歳直筆の「西方指南抄」や「三帖和讃」は、真仏に与えられたもので、国宝になっている。そのほか「覚如筆善信上人絵詞伝」「絹本着色阿弥陀三尊像」「親鸞筆唯信鈔」「教行信証高田本」「快慶作阿弥陀如来像」などが国指定の重要文化財となっている。

 

また、お寺を中心とした寺内町の伝統を今も受け継ぐべく、寺内町通り沿いに「寺内町の館」を開設し、30名ほどが町の散策コースの紹介や案内などのボランティア活動もしている。そして、一身田の住民たちは、歴史と文化のまち・一身田寺内町再発見、をテーマに、「一身田寺内町まつり」を毎年町挙げて開催している。

 

すっかりお腹も空いて、食事処を探し、通りの一本入ったところの「五郎太夫」という普通の和食店で少し遅い昼食をとってから、その道を再び駅の方へ戻っていった。そこは今の商店街で、新旧の店舗が混在していた。

ふたたびJR一身田駅にきて、14:32の電車で津駅に戻り、14:56の近鉄の急行で名古屋へ、そして、名鉄で西可児に17:01に戻った。長い一日だった。

 

      2022.11.18 作成/12.05補正     しまだゆうじ

 

 

霜月にそぞろときめきて・・・円空と美術館を巡る三つの旅

 

(1)千葉市美術館で朋友に会うー(111日)

 

此処のところ、朝晩冷たくて、昼は20℃を越す陽気となり、重ね着をすると汗が出るほどの日が続きました。

今年は、これまで、名古屋の熱田や犬山で娘たちを迎えることはありましたが、こちらから出かけることは、4月に地元の友人と伊那、諏訪方面に出かけたこと、6月に長谷川公茂先生の講演会に江南までいったこと、8月には帰省した娘家族と一緒に洞戸の円空記念館を訪れたこと、ぐらいでした。

 

 秋になって、どこか行きたいという気持が高まっていたとき、こういう時には、必ず向こうのほうからお誘いの情報が次々と舞い込んでくるもののようです。

 

 まず、1029日に、テレビで「新美の巨人たち」という30分番組を見ていたら「川瀬巴水ー『秋の越路』」という番組で、江戸時代の浮世絵版画の技と美意識を継承して、大正から昭和にかけて、木版画として復活した「新版画」というジャンルの、その代表的な作家として、川瀬巴水がいたのです。

 

 テレビで映るその作品を見ていたら、すぐにでも本物を見たくなりました。そこで、チラッと案内のあった千葉市美術館をネットで探して見てみると、何と「進化系浮世絵の美新版画ー世界を魅了した木版画ー川瀬巴水・吉田博・伊東深水」という展覧会が113日までやっているではありませんか。まだこれは間に合う。千載一遇のチャンスと思い、すぐ千葉市の近郊に住む高校時代からの友人に電話しました。

111日ならいい”ということで、1207分千葉駅到着でそこで会うことにしました。

 

一 緒に食事をして、探しながらやっと古い銀行を改造した千葉市美術館を訪れ、一緒に絵を見て回りました。北斎、広重の絵が国際的に評価されゴッホやモネの印象派やクリムト達のウイーン派にも大きく影響を及ばしたことは、”ジャポニズム”として広く知られていることですが、明治以降の版画については、余り知られていません。明治初期に、欧米の版画家たちが、東洋の生活風景を版画にしていたことにはびっくりしました。

 

日本の版画家たちも、江戸からのテーマを引き継ぎ、役者絵、美人画から旅の風景画まで描いてきましたが、川瀬巴水に代表される「風景画」は、明治以降の日本の近代化の中で、全国の都会や田舎を旅して、消えていきつつある江戸のころからの情緒を、版画独特のテーマと技法を駆使して私たちに訴えかけています。

 

特に、雪と雨の表現では、版画を超える絵画を見たことがありません。

朝焼けの中の崩れた河岸、夜の帳の中の田舎の灯り、空と海に囲まれて作業をする老人たちの姿。すべて、今はない、私たちがいつか見てきた”原風景”そのものです。こうした絵が北斎、広重にならって、「東京二十景」とか「旅みやげ」と題して出されていることにも意味があると思う。

 

そして、彼の乗り換え駅の船橋で夜の食事をしながら、彼の今の生活を聞きました。

一年前、私の「本と映画の館」に訪問した時その後、「今日中に帰らねば」と急いで帰っていった彼は、奥様を一人にしておくことができなかったのでした。

 

その後も、だんだん認知症的な症状がでてきて、スーパーへ買物に行くとき、昔は自転車で行っていたのに今は不可能で、一緒にバスに乗って出かけ、買物は彼がして彼女はただ待つのみ、帰りはタクシーで帰って来る、という状況だという。

 

そんなときに、私のわがままを聞いて半日しっかりと付き合ってくれて、本当にありがたく思っています。

 

彼は定年退職後、奥さんと一緒に、パリ、ローマ、ウイーン、ブダペスト等のヨーロッパの街を巡ったり、国内も夫婦のフルムーン切符で、全国を旅をして回ったという。

それも、もうできなくなってしまった。後は、妻に寄り添う夫の務めを日々繰り返し送ることを第一義として、そこに新しい喜びと楽しみと幸福を見つけることになるのでしょう。

 

 私の父も、母のアルツハイマー病が分かったとき、我々との同居を解消して、名古屋のアパートに引っ越して、全ての外的活動を断ち切り、妻を支えました。62歳で母が亡くなってから父は、京都へ写真を撮りに出かけるようになり、いろんな集まりにも参加して海外旅行も果たしました。そして11年後の母と同じ10月に胃がんで79歳で亡くなりました。私は、その時病院で父の最期を看取ることができました。

 

 私自身も、まだ仕事をしていた64歳の時、妻が急に両足が動かなくなり、病院に入院しました。私は、毎日1時間の時間休暇をとって、病院に一日も欠かさず通いました。

検査の結果、病名は、肺がんの骨転移で、医師にただしたところ、余命は何もせず3か月、治療をして1年、と聞きました。

 

妻は、4人の子育てに悩み、同居していた私の両親が家を出ると、心身ともに落ち込み、自分に自信が持てず苦しんでいたところ、近所の人から勧められて「創価学会」に、私には内緒でひとり入信しました。先輩の指導に熱心に従い、やがて元気になって、「聖教新聞」の配達に自ら進んで手をあげ、それから早朝の新聞配達と毎月の集金業務を、足が動けなくなるまで22年間続けてきました。

 

私が医者に聞いた病名を包み隠さず妻に告げると、彼女は、少しも動揺を見せずに「今度はあなたが祈る番ね」といった。

彼女が、抗がん剤の副作用でひどく苦しんでいるとき、付き添っていた私にこういった

「お願いだから、今から家に帰って仏壇を開けて、嘘でもいいから、お題目を挙げてください。」と。

私は、その涙にぐっときて「いいよ!」と言いそうになって、思わず思いとどまった。相手の言葉尻を捉え、「私のような不信心ものが、嘘でお題目を唱えることは許されることではない。あなたのお題目を上げる場所は、家の仏壇ではなく、今此処にいる病院のベッドの上なのだ。」と突き放した。

”思想信条は何処まで行っても個人のものとして尊重されるもので他人に強制してはならない”というこれまでの立場を崩すことは出来なかったのだ。”嘘も方便”ということが出気なかった。

 

それから少したって、小牧城のライトアップが見える病室で、同室の老夫婦がぽつりぽつりと小声で語り合っているのを聞きながら、妻は、ぽそっと「私たちもあんな会話ができる夫婦になりたいね」といった。私は何とも答えることができなかった。

 

病院から退院して、自宅療養になってから、私はケアマネージャーと緊密に連携を取り、訪問看護師、ヘルパー、理学療法士などと完全なサポート態勢を整え、自ら「24時間ヘルパー」として、濃密な時間を費やした。入院半年。自宅療養1年半。自宅で最期を看取り、その自宅で24時間のお別れ会をしてあの世に送った。

 

彼女は、2010766歳と16日の短い疾風のような人生であったが、その時思うのは、私はよき「理解者」ではあったと思うが、本当によき伴走者であったかどうか、忸怩たるものがある。

 

夫婦はそれぞれの形あるので、一様には言えないが、それぞれのポイントの所で、いかに全力を投入するかが大切で、どれだけやっても必ず「後悔」というものは残るが、それでも後に後悔を残さないように尽くすことしかないと思うだけである。

 

今回は、私の急な思いつきでこちらへ出て来たので、こちらに住む娘たちには迷惑をかけないよう日帰りで帰ると宣言していたので、それからそのまま真直ぐに帰ってきました。

 

彼とは、これまで、毎月のように電話では夜遅く長時間話してきましたが、こうして、こちらから出かけることで、顔を合わせることによって、彼の心の内に触れることができたのは大きな収穫でした。しかし同時にこれまでのように、年に一回は仲間と一緒に旅行に出かけるということも難しくなったということです。

 

我々年寄りには、世界の未来も日本の未来にも、いささかの希望も持つことはできず、我々の生きた「平和と民主主義」を普遍的価値とする時代は終わり、自然と共に生きた生活の風景も消滅した。そんななかで唯一頼みになるのは、同時代を生きた友人の存在である。

 

近年同級生の訃報が次々と舞い込むなか、次は私の番かと考えてしまうが、とにかくお迎えが来るまで、しぶとく、自分の体は自分で守るということに努め、ストレスをためず、気ままに無理をしない生活をするだけと居直って暮らしているのです。

      2022.11.18 /12.06 

                    しまだゆうじ