(3)起湊屋での円空講演会と三岸節子記念美術館(11月12日)
三番目は、実は一番早く私に来た案内情報で、10月15日づけで、長谷川公茂先生から、
11月12日に、一宮市起字堤町の茶店湊屋で、「円空仏の写真展と講演会」が開催される
という案内で、10:30から「人々に生きる喜びを与える微笑の円空仏」というテーマの講演の後特製ランチで食事をするということです。
写真展は11月12日~16日まで湊屋西の蔵で、土日水の3日間のみ開催。

会場となる湊屋とは、美濃路の宿場町「起宿」で船問屋として栄えた「湊屋文右衛門邸」で、築150年、明治24年の濃尾大地震にも倒壊しなかった起宿唯一の建物です。
起宿は、美濃路(東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ脇街道)の7宿のひとつで木曽川に於ける起渡船場として、古くから人の行き交いや物資の集積の中継基地として賑わった定渡船場でした。その船の管理、運航を任されていたのが船庄屋で、その下に「船方肝煎」が数人おり、その一人が「湊屋文右衛門」でした。
かれは、渡し船を扱うだけでなく年貢米の輸送にもあたり、早くから木曽川の舟運を利用して遠隔地との取引をおこない、寛政年間(1789-1801)には「縞木綿を扱う仲買商」として成長しました。越前丸岡から糸を仕入れそれを地元の機織りに売りさばき、織り上がった縞木綿を全国に売りさばいていたようです。
湊屋文右衛門は、慶応4年(1868)の起村身代向書上には、身代1000両以上、正業は織元・船方肝煎の小川文右衛門として記載されています。この小川家は明治年間に東京谷中に転居され、日本で初めてのデザインタオル製造といわれる「小川タオル」を興こされました。
その後、昭和27年に空家になっていた湊屋文右衛門邸を、丹羽家が購入され平成21年まで住まわれていましたが、転居されるにあたり、何とか残す方法がないものかと、
名工大是沢典子研究室に相談され、(株)まちづくり一宮21に委託し、そのもとに市民団体「湊屋倶楽部」を設立して管理活用に当たることになりました。建物は、平成22年9月に,文化庁登録有形文化財に登録された。
「湊屋倶楽部」は、「旧湊屋文右衛門邸を食の拠点として美濃路の振興を図り、かつ集会の場に活用して日本の伝統的な暮らし方を考える」ことを目的に、ボランティアで運営され、各種の活動を、ここを会場にして開催されている。
たとえば、10月16日~26日堀部美奈子木彫り作品と有松絞コラボ展示会。
10月16日(日)渡邊みかこシャンソンライブ(オープニングセレモニー)
10月23日(日)詩人佐藤一英童話の朗読会
10月29日(土)野田ひさ子ジャズライブ
11月12日~16日 円空写真展 12日(土)長谷川公茂氏講演会
11月12日(土)は、朝7時30分すぎに家を出て、名鉄電車を乗り継いで一宮駅に着きました。ここは、妻千恵子さんの今伊勢町の実家に一人で行く時、いつもここまで来て駅からタクシーに会社の名前をと言うと、それだけで目的地へ連れて行ってくれました。
起へ行くバス停が見つからずかなり迷いましたが、とにかく10時10分過ぎには、湊屋に着きました。店に入るまえに、堤防に上がり濃尾大橋を眺めました。
昭和31年に濃尾大橋が開通して起の渡船場は廃止されたのです。
堤防に上がると、濃尾大橋は車がいっぱいでゆっくり流れていました。
起の対岸は羽島です。木曽川を越えれば、円空の出生地の中観音堂はすぐそこにあります。そこに何か縁を感じます。

始めは蔵の中で円空仏の写真を展示し、10名位を相手に長谷川先生がお話をするという企画でしたが、申込み者が30名を越えて急遽別室で講演を行うことになりました。

長谷川公茂先生のお話
ここ、旧湊屋文右衛門邸は、文化庁登録有形文化財として登録されましたが、公共的な支援は全くなしなので、一宮で喫茶店チェーン「野の花」を経営して見える大島八重子さんが「湊屋倶楽部」の代表になってこの「旧邸」を維持しているのです。私の娘も「野の花」にお世話になっている関係で今回の企画をお受けしました。
私は昭和8年8月8日の生まれで89歳ですが、一日違いの8月9日生まれに黒柳徹子さんがいます。
徳川家康は、九男義直の名古屋入りに際して、犬山から佐屋に至る木曽川の堤防50kmをわずか10年間で築かせました。堤防の下は、私が生まれた下島とか、時之島、宮田、荒井、等どこにも坂道はなく、河原のようなものでした。一方の美濃の側の堤防は3尺低く作らせれていましたので、洪水の時は必ず美濃側の堤防がが切れました。
円空は,1632年に羽島竹鼻に生まれ、7歳の時大洪水で母が亡くなり、孤児となってお寺に預けられました。羽島は、竹鼻別院があるように浄土真宗の地盤でしたので、真宗のお寺に預けられたと考えられます。
それから、そこを離れ修験道の道に入り各地の山にこもりで修行しながら、庶民の救済を願って仏像を彫りました。
五來重という修験道研究の先生は、円空は木地師出身だと考え、円空の出身地を郡上美並村と考えました。
私は、以前から竹鼻を出生地と考え、7歳の時の洪水での母の死を重要視していました。
羽島の中観音堂には、母の33回忌を期して十一面観音像を彫って建立したという言い伝えがあり、その十一面観音像の裏に10cmほどの埋め木があって、開ければその人は死ぬとされていました。それを「開ける」ということで私が立ち会うことになりました。
すると、紙屑に包まれた8cmほどの鏡、5cmの阿弥陀像、般若心経の一部、筆などが出てきました。この鏡こそ、母の形見で、円空の和歌で詠われていた「わすれ鏡」だったのです。
我が母の 命に代わる 袈裟なれや 法のみかげは 万代をへん(円空歌集880)
あさことに 鏡の箱に かげ見へて 是はふた世の 忘れ形見に(円空歌集445)
私の円空仏との出会いは江南の音楽寺でした。当時私は画家を目指し、日本版画協会に属し、入選はしてもなかなか入賞できませんでした。ある先輩が、「10人の審査員に挨拶をしたのか?」と指導を受けました。”絵の世界でもそういうものか。絵の本質はどこにあるのか”と思いました。
音楽寺の仏像を見た時、その笑顔の仏像、ここにこそ真髄があると直観しました。
円空についての本を讀んでいくと、その背景には弥勒信仰があって、弥勒菩薩は、仏陀入滅後56億7千万年後にこの世に現れ人々を救済する”未来仏”とされ、その「下生」に今から備えようとする信仰です。
弥勒がこの世に出てくるとき、お役にたてるのは、ミイラ(即身仏)になったものだけで、弥勒が現れるまで仏教を守っていくのが私の使命だと、円空は心に決めていたのです。
幾度も 絶へても立つる 三会の寺 五十六億の 末の世までも (円空歌集222)
そのために円空は、生涯12万体の仏像の造顕を悲願し、全国の神社のみならず多くの人々に直接渡されました。
円空は、仏像のほかに、和歌も残しています。
昭和35年に洞戸の高賀神社に参詣した時、そこの「大般若経」約600巻の裏表紙に貼り付けれた円空の歌集を発見しました。
それから高賀神社に通い、巻物から折り本にしていく時に使われた裏紙がやがて剥がれてきたものを一つづつ表装してから写真に取って読んでいきました。
私は、円空仏の微笑の謎を解こうと追求してきましたが、ここで円空自身の肉声でもって円空を語ることの喜びを得たのでした。
先輩から「円空研究者にも利用できるように『円空歌集』を出版せよ」という声に押され、3年後の昭和38年に「底本円空歌集」を自費出版しました。
そのとき、最後に円空の年表を作成して付けました。
円空の没年は、1695年7月15日と、墓碑銘にある通りはっきりしていますが、生まれた年が解らなかったのでしたが、私は円空歌集から、1632年寛永九年とし、生地を中観音堂のある竹鼻上中町を有力と書きました。
賀 ほそき世の みの一はも 富ならで 十といえど 六はへにけり(円空歌集474)
これは、寛永9年壬申生の円空が元禄5年壬申で還暦を迎えたこと詠った歌です。
それから10年後群馬県富岡の一之宮貫前神社の「大般若経」奥書で「壬申年生美濃国円空」と自書したのが出て、確定しました。
私は、この歌集の中に円空の本当のこころが詠われていることを確信しました。
作りおく 神の御影の円なる 浮世を照らす かがみ成りけり(円空歌集1332)
楽しまん こころとともに 法の道 月のみやこの 花の遊びか(円空歌集1256)
もろともに 浮世の中は 神なれや 思う心に 身は渡りつつ(円空歌集749)
ほほえみの仏像から始まった私の円空の旅は、円空の歌集を通じて、円空の心の中に分けゐていくことになり、それは私自身の心の中に分け入っていくことにもなりました。
こうして、仏教徒でもないのに、全国の寺社を周り、又仏教の研究をしたり、「円空」を「体験」しようと「内観道場」に入ったこともありました。
今想うのは、我々人間は、仏さまに生かされて生きているということです。
仏の掌から生まれ、自分の寿命も自分で決めることは出来ない。
阿弥陀様に生かされいるからこそ毎日が極楽のように生きられる。
自分の中の、仏の命(宇宙生命)を生きているのだ。
他者への救済こそ人間の幸せな生き方なのである。
きっと円空はこのように思い至ったのだと思う。
私はこれまで全国を回って円空仏の写真を撮ってきましたが、円空の写真には人を癒す力があると信じています。
昔、私が旅から帰ってきて寫眞を現像していると、父が寫眞を見て、「いい顔しているなあ」と言ってくれました。
私が円空の研究を始めた頃、名古屋松坂屋美術館ではじめて「円空展」が開かれました。それが東京、大阪でも開催され全国的に「円空」ブームが起きました。
いま、地方の無人のお寺や地域の組合に保管してあった「円空仏」が盗難にあって、一部美術市場に出てくることもあります。
私は、65年の間円空の研究はしてきましたが、これまで一体の円空仏も所蔵していません。その理由は、「一体持っていたら、きっと次が欲しくなるに決まっている」から。
私は、これまで撮影した写真は12万枚を超え、親友から「円空上人の心を伝える会」として「微笑みの円空仏」を冊子にして発行することを勧められ、これまで、13集まで発行することができました。
もう89歳を迎え取りあえず15集まで頑張りたいと思っています。
昔円空の写真を取り入れた名刺を25万枚作って配りました。今日は、円空仏の写真を貼り付けた色紙と円空仏の写真を挟みこんだ掛け軸風のものの2種類を頒布用に開発しましたので、あとからゆっくり見てください。今日は有難うございました。
(2022.11.17)
作成 しまだゆうじ 当日のメモから「円空の生涯」「円空歌集」を一部参考に作成

鮎の塩焼きと冬瓜汁がついた湊屋特製弁当を頂き、それから、円空佛の写真の二種類を見るため写真展の西蔵にいきました。まだ誰もいなかったのでゆっくり選ぶことが出来ました。色紙5枚、掛け軸風を2枚選んで、元のところに戻ってきたら、長谷川先生と記念寫眞撮影の最中だったので便乗して撮っていただきました。
13時過ぎになって、湊屋から歩いて1km位のところにある「三岸節子記念美術館」に向かいました。「三岸節子記念美術館」は、この起市出身の洋画家を名誉市民として、その生家である元毛織物工場や土蔵などを改造して美術館にしたもので、平成10年(1998年)に開館しました。

「三岸節子」は、明治38年(1905年)に起の豊かな地主で毛織物工場を経営する家の4女として生まれたが、幼少の頃から「先天性股関節脱臼」で辛い幼少期を過ごした。
12歳で名古屋の淑徳高女に入学し寄宿舎生活に入ります。ここで読書や絵を描くことに関心を持つ。
大正9年(1920年)に実家が倒産。そのとき15歳の彼女は「一家の苦しみを何者かになってとりかえそう」と決意し、兄の援助もあって、16歳て単身上京し岡田三郎助の指導を受けることとなり、女子美術学校の西洋画科に学んだ。
大正11年(1922年)札幌から上京し母と妹と狭い室に住んでひたむきに制作をしている三岸好太郎と出会い、その貧しい生活のなかで芸術を志す彼に感動した。
「当時の私には貧しさに対する正義感から、純粋で清潔な尊敬の念さえもっていた。
ふたりの芸術家の生活ぶりをみてこれこそ真の生活であると信じてしまっている。
貧乏の実態もがいかなるものか少しもわきまえず、無分別にさえも高貴なものに昇華するような、冒険の誘惑も手伝って三岸の胸に飛び込んでいる。」(「女流画家の血みどろの路」)
19歳で結婚、翌年1925年に長女が誕生、夫婦揃って春陽展に出品して入選。女性初の入選作家となった。これから女性画家の地位向上を目指し「婦人洋画協会」を結成、全国に作品展を展開していく。
1929年長兄の援助で中野鷺宮にアトリエ付き住居を新築し、長男を出産。三人の幼児の子育てと好太郎の母と妹の看病に追われ、満足な制作時間もとることができなかった。1934年好太郎は胃潰瘍で名古屋で急逝。享年31歳。わずか10年の結婚生活であった。
それから、三人の子供の生活費と生前好太郎が立てはじめたアトリエ建設の資金のため、節子は挿絵、座談会、エッセイなどどんな仕事でもこなしながら、制作と出品を続け、東京や大阪で個展が開かれるようになり、女性画家としての存在を高めた。
戦時中は、全ての公募展が開催中止や解散となった。画材もすべて配給となり、「大東亜建設に寿ぐ」という命題で80号の作品を出品することが奨励されていた。節子はこのなかでも「新制作派協会」のもと、自由な在野団体として活動していた。
1945年9月には節子は銀座の日動画廊で早くも個展を開き、「婦人民主クラブ」にも参加。「女流画家協会」の結成を提唱した。彼女の作品が、文部省買い上げ作品になったり戦後初の海外展にも選ばれた。こうして日本を代表する画家として認められるようになった。
1954年3月好太郎も夢見たフランスへの旅を実現。パリ、カーニュ、スペイン、イタリアを廻って、1955年6月に帰国。ヨーロッパの風景画家として名声を博した。
帰って来てからの彼女は「日本美術に大変自信をもって帰ってきた」と語って、埴輪や素焼きの壺などの日本古来の美術品をモチーフとする作品を制作する。
「原始美術の魅力はこれらのものを生み出した背後の人間生活にこそあるのであって、作品とは切りはなせぬものである。生きるという本能は、見えるもののほか、見えざるものの世界をも透徹した本能で体得したのである。文明が合理主義に従属して、見えざる世界へ立ち入る本能を磨滅させてしまった。」(「原始美術と現代」)
1957年から節子は、50歳を迎え著しく体調を崩し、精神の不安を招き、制作活動も困難になって、苦しんだ。一人軽井沢の山荘にこもって過ごした6年の思いを込めた作品は貴重である。
1964年から太陽と大海原に囲まれた大磯の山荘に移り住んだ。
「私は大磯に移り住んで太陽画家になった。風景画への開眼はここで始めて可能となり、生物に、花に、太陽が必ず登場する、太陽こそ生命。エネルギーの源泉。活力源。樹木が太陽に向かって手を差し伸べるように、視界いっぱいの蒼穹。両手をさしのべて太陽讃歌に歓喜雀躍する。私はとびきり明るく快活で自由で奔放になる。」(花の四季太陽讃歌)
1965年好太郎の生まれ故郷の北海道を訪れ、これまで節子が全国各地から買い集めてきた、好太郎の絵をまとめて北海道に寄付することを決め、それを基に北海道立三岸好太郎美術館が、1983年に開館する。
1968年息子の黄太郎一家とともに再び渡仏し、南部のカーニュにきて、そこを拠点にベネチアを愛し、フランスパリでも個展が開かれ成功した。これから20年にわたりパリ、スペイン、イタリアなどの風景画作家として確固たる地位を築いたのである。
1988年故郷の尾西市で節子を名誉市民に推挙し、市政35周年記念に「三岸節子新作展」を開催。これをきっかけに美術館建設の署名が集まり、記念美術館建設が進められ、
1998年に完成した。この時節子は生まれて77年たっていた。
1989年7月新たなる展開を願い大磯のアトリエに帰国。
1990年朝日賞。1991年ワシントン女性美術館で回顧展。
1994年文化功労賞 1998パリ回顧展
1999年4月急性循環器不全のため94歳の生涯を閉じた。
(三岸節子収蔵作品集「三岸節子の生涯」から)
以上、三岸節子の生涯を詳しく記録したのは、彼女の人生と、私の妻千恵子の生涯とが時代が違え少し重なるところがあるからである。
千惠子の実家は、尾西とおなじ、一宮・今伊勢の毛織物工場の6人兄弟の4番目に生まれ、小さい時から家庭教師について学び、お琴、ピアノ、書道等を習い、中学校から名古屋の中学に越境入学して電車通学をし、高校、大学と名古屋の典型的コースで進学をした。
ところが大学で、体制批判的な研究会サークルに入って活動するようになり、家に帰って来ても、両親と意見を激突させることが多く、大学4年のとき、長兄のお嫁さんに、姉と同級生の人が家に入って来ることが決まり、自分の明日をみる思いで、家に居たくなくなった。
卒業しても、うまく就職先が決まらず、高校の産休の代用職員を1年経験して学校の教師は向かないことを知り、義姉の紹介で名古屋の印刷活字会社に就職したが、その7月、大学時代のサークルのリーダーであった、町工場の職人の息子で、いつも特別奨学金とアルバイトをして一人で大学生活をしていた男と家出同然に結婚した。
その時彼女は「名もなく貧しく美しく」という生き方をして行くと誇らしく宣言した。
結婚後、それから続けて3人の子供が出来、子育てに苦労をし、本来の自分はどこにあるのか分からなくなっていった。長女の子育てに悩み、夏休みにヤマギシ会の「幸福学園」に子供入れることを決めた時、誘われてヤマギシ会の特別研鑽講習会(特講)に参加して、一挙に「もう娑婆に戻りたくない。ここで参画してヤマギシの生活に生きる」と一方的に決意した。
我々家族が駆けつけ、向こうの幹部は「とりあえず帰れ。夫も新春には特講に来ると言っているのだから。それから一緒にくればいい。」」と彼女を家に返した。
それから彼女は、ヤマギシで覚えた「整体と活元運動」や「玄米食」等の自然食に取り組んだ。第4子を生んで、住いを名古屋の借家から岐阜の西可児に新築の家を建てて移った。
そこで夫の両親との同居もして、地域で幼稚園前の子供を抱えるお母さんたちを集めて「ちびっこひろば」という子育てサークルをつくったりして、活発に活動していたが、義母がアルツハイマーになって同居していた両親が名古屋に帰って行ったとき、自分の無力感から心が落ち込み、寝込んでしまった。
そうした中を、近所の信仰深いお母さん方が訪れ、彼女は、38歳の時、創価学会の信仰生活に入り、先輩方の指導を純粋に受け容れながら、「聖教新聞」の配達員に自ら手を挙げてその仕事についた。以来発病で足が動けなくなるまで22年間雨の日も風の日も休まず毎朝、新聞配達を続けてきたのである。
それから58歳で地区の婦人部長を務め、66歳と1か月、自宅で早すぎる最期を迎えた。
私には、節子と千惠子の生涯がだぶって見えてしまうのである。節子が好太郎の作品を買い集め、北海道に記念美術館を完成させたように、私も千惠子が亡くなってから、千惠子が残したノートやメモなどから、「千惠子の記録」を10年にわたって、26冊を私が編集印刷して彼女の4人のご兄弟と4人のこどもたちに送っている。(まだ継続中である)

私が少し汗をかきながら「三岸節子記念美術館」に着くと、昔の毛織物工場ののこぎり屋根の形を残した建物が見える。
本当の工場は、ここのように茶色ではなく、白いスレートの屋根とトタンを貼った安普請の建物で、のこぎり屋根から自然採光を取るコスト最低のものだった。日曜でも一日中ガチャンコガチャンコと紡織機の音が絶えず聞こえ、全国から集められた女工さんたちが交替で働いていたのである。
この日、特別展では、「河鍋暁斎の娘曉翠展」が開催され、明治の半ばから昭和の初期にかけて活躍した女流日本画家で初めての作品展だそうです。
河鍋曉翠は、幕末から明治の初期に、狩野派から浮世絵まで幅広く活躍した河鍋暁斎の長女で、父の教えを受けるとともに歌絵や物語絵などのやまと絵を得意とする土佐・住吉派の技も身につけ、美人画や浮世絵などを書いた。
22歳と時に父と死別。父の書き残した作品を完成させたりしている。明治30年後半には女子美術学校の教授をつとめ教育者としても活躍した。後年は両家の子女や趣味人の個人教授が主体となり、盆石「古月遠山流」の家元となった。1935年(昭和10年)脳溢血で急逝した。67歳。
二週間前に千葉市美術館で見た「新版画」程に感じなかったのはなぜであろうか。
思うにそれは、この日本画は、余りにも様式形式が決まっていて、それをなぞっていくことが求められているため、その前提の知識がないと少しも面白くない。退屈となる。
「湯屋の七福神の石鹸の広告」は本当に傑作だとおもうが、あとの錦絵風のおどろおどろしい色遣いには辟易する。やはり体質に合わないと思う。
一方、常設館の「画家の系譜」は、節子の「自画像」からはじまって年代順に「花果実」「静物」「室内」「火の山にて飛ぶ鳥(軽井沢山荘に)」「スペインの白い町」「霧」「花」「ブルゴーニュのブドー畑」「モンマルトルの家」「花」「作品1」「作品2」「作品3」と20歳から86歳までの作品は皆素晴らしかった。
あとの小林和助、三岸好太郎などの作品は、節子の作品に比べものにならないくらい力がないと感じた。
奥の蔵屋敷の展示は、埴輪やメキシコの壺等彼女の興味の広さを見せて面白かった。
カメラに一通り収め、カウンターで「三岸節子収蔵作品集」と「貝殻旅行ー三岸好太郎・節子展」の2冊を買って美術館を出た。
朝、濃尾大橋口迄乗ったバスに乗って一宮駅まできて、今度は、岐阜から各務原線経由で犬山に来て4時には西可児に到着した。
2022.11.18 やっと完成/12.05一部補正
しまだゆうじ


