今日、9月9日は重陽の節句です。
重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、9月9日のこと。旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。
後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。
邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。(Wikipediaより)
東京の会社に勤めていた時、社長が「重陽の節句」を教えてくれました。
雨月物語の「菊花の約」(菊花の契り)という話も一緒に話してくれました。
ここからお話です。
左門は母とふたり暮らしで清貧を好む儒学者である。
ある日友人の家に行くと、行きずりの武士が病気で伏せていた。丈部は彼を看病することになった。この武士は、赤穴宗右衛門という軍学者で、佐々木氏綱のいる近江国から、故郷出雲国での主、塩冶掃部介が尼子経久に討たれたことを聞いて、急ぎ帰るところだった、と、これまでの経緯を語った。
しばらく日がたって、宗右衛門は快復した。この間、左門と宗右衛門は諸子百家のことなどを親しく語らい、友人の間柄となり、義兄弟の契まで結んだ。
五歳年上の宗右衛門が兄、左門が弟となった。宗右衛門は左門の母にも会い、その後も数日親しく過ごした。
初夏になった。宗右衛門は故郷の様子を見に、出雲へ帰ることとなった。
左門には、菊の節句(重陽の節句)、九月九日に再会することを約した。ここから、題名の「菊花の約」がきている。
さて、季節は秋へと移っていき、とうとう約束の九月九日となった。左門は朝から宗右衛門を迎えるため掃除や料理などの準備をし、母が諌めるのも聞かず、いまかいまかと待ち受けるばかり。外の道には、旅の人が幾人も通るが、宗右衛門はまだ来ない。
夜も更け、左門が諦めて家に入ろうとしたとき、宗右衛門が影のようにやってきたのだった。左門に迎えられた宗右衛門だったが、酒やご馳走を嫌うなど不審な様子を見せる。
訣を尋ねられると、自分が幽霊であることを告白するのだった。宗右衛門は、塩冶を討った経久が自分のいとこの赤穴丹治をつかって監禁させた。そしてとうとう今日までになってしまった。宗右衛門は、「人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく」という言葉を思い出して、自死し、幽霊となってここまで辿り着いたのだ、と語った。そして、左門に別れを告げ、消えていった。
丈部親子は、このことを悲しみ、一夜を泣いて明かした。次の日左門は、宗右衛門を埋葬するために出雲へと旅立ち、丹治に会った。左門は、魏の公叔座の故事を例に挙げ、それに比べて丹治に信義のないのを責めた。丹治を斬り殺した左門は行方がくらませたが、主君の尼子経久は、宗右衛門と左門の信義を褒め称え、その跡を追わせなかった。(Wikipediaより)
もう、社長は亡くなってしまいましたが、この日が来ると社長のことを思い出します。
「社長」というより、大学の「教授」という感じの方でした。
銀座の小さな会社だったので、あまり「役職」の垣根が高くなかったということもあったと思います。
社会に出たばかりのひよっこのワタシにも、色々なことを話してくれました。
PCや音楽、宗教、旅行、一緒に暮らした動物たちの話、会社の近くのランチの美味しいお店など、本当にいろんな話をしました。
宇宙や霊の存在の話をした時に、「僕が死んだら、にゃりんさんのところに霊界があるかどうか教えに行ってあげるよ」と子供みたいなことも言っていました。
ワタシに「結婚」の気配がした時は、「にゃりんさんの結婚式には、僕が讃美歌を歌ってあげるからね」と言ってくれました。
でも、結局ワタシの結婚前に、社長は亡くなってしまいました。
死んだら「無」だという人もいます。ホントにそうかもしれませんが、思い出は残りますよね。
菊花の約のように、思いは残ります。そして時々、その人を思い出すことは良いことですよね。
なんか、もっと違う話を書こうと思ってましたが・・・
社長が遊びに来てるのかもね。
菊ぢゃなくて、コスモスにゃ。。。
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