献食菜集 -109ページ目

爽やかな秋晴れに誘われ、秋川沿いを遡上する。いつもなら自転車で行くところを今日は歩いて。...

「柳 宗悦の民芸論」八田善穂http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac...

「柳 宗悦の民芸論」八田善穂 http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/tu/file/866/20140128093054/TU10021000005.pdf とても楽しく読んだ。 ひょんな事から、私は骨董雑器を洗うようになった。陶芸や器には全く興味を持たなかったが、洗浄したり仕事の話をしたりするうち、何でもかんでも「茶碗」では区別などつくはずもなく、気がついたら色々知る事になってしまった。ただし残念ながら値打ちや本物を見分ける目は全くない。職人の絵を楽しんだり形のこだわりなどに感心したりしているだけだ。そんな事をしてるうちに上記のリンク先のPDFに行き当たった。「下手物ーゲテモノ」とはこう言う事だったのかと感心している。 職人がいつも同じ絵を描く事で作為が消え、そこに自然な美しさが実現されるのだという主張は興味深い。 庶民が使うものは耐久性がなくてはならない、使い勝手が良くなくてはならない。そこから生まれる機能美。「工芸」の言葉を生み出した彼らの主張は現代となっては受け入れられない箇所もあるのかもしれない。 ところで、私はそんな高尚な事が言いたいわけではなく、いちいち感心したり同意したりするその内容は、私の普段の制作に相通じるものがあり、何だ私はいわゆるゲテモノ好きか、というようなつまらんオチだ。 「工芸」よりも「芸術」という言葉の方が誕生したのは先だ。工芸が下手物なら上手ものは芸術。芸術とお金は不可分だ。その事をいち早く知っていたのは織田信長と千利休で、ポロックとグリーンバーグよりはるかに前だ。もう勝手な妄想に突入したので勘弁して欲しいが、レオナルド-ダーヴィンチは果たして芸術家だったのだろうかという疑問が湧く。ミケランジェロやラファエロは芸術家ではなく腕の良い工人だったのではないか。後の時代の極東の国の明治時代に出来た「芸術」という言葉を冠した事で訳のわからん事が起こってきたのではないか。と思ったしだいだ。資本主義の優等生国ならではの現象でもあるのかも知れない。

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コーヒ豆を洗えと主張するウェッブサイトを見つけて読んだ。農薬などが表面についているから洗浄...

コーヒ豆を洗えと主張するウェッブサイトを見つけて読んだ。農薬などが表面についているから洗浄を勧めるという内容。実際エチオピア産のコーヒー豆に日本の国内基準を超える残留農薬が検出されたある。エチオピア産のコーヒー豆は美味しく、生豆も買い置きがあるので早速、昨晩の焙煎では洗浄を試した。確かにエチオピア産の豆は黄土色の水が洗浄によって出る。トラジャも同様洗浄したが水はそれほど濁らない。東ティモールも濁りは少ない。 洗浄してすぐ焙煎した。 水につける事で思わぬ効果があったように感じた。コーヒー豆は焙煎中二度はぜる。郵便配達員は二度ベルを鳴らす。私の焙煎の場合、二度目のはぜる間の数十秒を一番注意している。豆には個体差ならぬ個粒差があって、気の早いやつからのんびりしたやつまでの差が問題だ。しかし、それが味になるという人もいるようだ。それはそれで美味しいからもんくはないが、一度洗うとどうもその差が縮まるようだ。 他にも二度焙煎という方法もあるようだ。過去に焙煎が思ったより浅く、翌日もう一度焙煎した事があった。それが、二度焙煎と同様かどうかは知らないがこれも、洗浄後の焙煎と同様な効果があったと思う。 味に透明感が出る。すっきりする。良いかも知れない。

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幕末の7寸皿を割ってしまった。洗い、乾燥して梱包までいつものように順調だったのに。5寸以上...

松本にある醸造屋の熟成味噌が美味いのでもう何年も使い続けている。そこは醤油も作っている事...