私が課長になった理由 その①
「上にあげることにしたから」
栗下真帆に役員の木村から電話があったのは2018年6月のことであった。創立80周年を迎える搬送設備メーカーに勤める栗下はフィールド系部署で初の女性課長となった。
栗下が1998年から派遣社員としてこの会社で働き始めてちょうど20年が経った日のことだった。
栗下が大学を卒業した時代は就職氷河期と呼ばれていた時代。希望していた英語を使う職種に応募したがことごとく門前払いをされた。面接にすら進めない。仕方なくとりあえず内定が出た会社に就職するしかなかった。夢であった海外に関する仕事はあきらめ、自動車業界向けアプリケーションソフトの開発会社でキャリアをスタートさせた。
希望していた職種ではなかったが社会人として初めての会社。期待もあった。
しかし、この会社、今でいうところの「ブラック」
アプリケーションソフトにバグが多く不具合を直しに客先へ行く。設計から送られたフロッピーディスクで処理するとデータが飛んでしまうというある意味、笑い話のようなことが日常茶飯事であった。そして客から怒られる毎日。深夜残業もあたりまえ。日付が変わる前に帰れることはほとんどなかった。
社会の荒波にもまれていないウブな新卒女子が心身ともに疲弊するまでに2年とかからなかった。
ある日、遅いお昼ご飯を求めてデパ地下へ寄った。
楽しそうに買い物をしている女性を目にしたら突然泣けてきた。
まともにお昼を食べる時間もなく時間に追われている自分。客先や上司から怒鳴られて毎日が憂鬱。かたや楽しく買い物をしている同年代の女性。私もあんな風におだやかに時間を過ごしたい。
そして、ついに食事がのどを通らなくなった。
病院で点滴を打ってもらいながら涙が止まらなくなった。もう心身共に限界だった。
次の仕事を見つける前に私は辞表を提出した。
「よし、今度こそ英語を使える仕事につこう!」
私は再び夢を追い求めて転職活動を始めた。
しかし、時はまだ氷河期時代の影響が色濃く残っていた。求人が少ない。英語を使えそうな職の募集がなかなかない。仕事が決まらないまま半年が過ぎ去ろうとしていた。
「あんたいつまで家にいる気なの?早く就職しなさい!」
同居している母親からうるさく言われる毎日。仕方ない。ここはまた働けるところならどこでもいい。とにかく職につかねば!
結局、前職で自分が担当していた自動車整備工場で事務員として雇ってもらうことになった。自動車整備工場では、車検や保険に関わる事務作業、洗車、経理業務など雑務がメインだった。
「そうだ、せっかく少し携わった経理業務だし簿記の資格でもとるか。」
私は独学で簿記3級を勉強し始め、1か月後に試験を受けてみた。結果は合格!
英語を使う仕事につくという夢はあきらめたくはなかった。しかしそろそろ方向転換した方がよいのだろうか。私は弱気になっていた。転職市場では相変わらず求人は少なかった。
就職氷河期時代に新卒で就職できなかった人はこうやってキャリア形成の道から外れていくのか。
「そうだ、派遣にするか!」
私は当時流行っていた派遣社員で仕事を探すことにした。
「事務」「家から近い」この2つの条件に当てはめて探した。そう、キャリア形成はあきらめるしかなかった。結婚するまで楽して働ければいい。それでいい。
就職氷河期世代、一度足を踏み外した者にはやり直しの機会は来ないのか。
こうして派遣社員としての仕事を見つけたのが今の会社。
派遣社員は時給。当然ながらGW、お盆、正月休みのある月は給料が激減する。手取りで10万円代前半。
この手取りではやっていけない。しかし仕事は楽だし定時の17時で終わる。
そうだ、バイトでもするか。
ちょうど会社から近いところで健康診断や病院で採取された検体(血液など)を検査する機関でのバイトの求人があった。昼間に検体が運ばれてくるので夕方からの作業。バイトは検査する前の準備処理。検体にバーコードを貼ったり、検査対象者の問診票のチェックが主な仕事。
ここで週5~6日、1日4時間ほど働くことになった。派遣の仕事が17時に終わってからバイト先へ行くという毎日。派遣とバイトの給料でようやく人並程度の月収となった。
外国語大学卒業したのに何やってるんだろ、私。
虚しさは拭いきれない。大学を卒業してからはや5年が経とうとしていた。
派遣社員、当たり前だけれど正社員とは格差がある。ボーナスはない。時給制で基本的に昇給はない。退職金もない。
これでは将来が不安。
もう一度正社員で仕事探してみるか。それにしても何か武器となる資格があった方がよい。なんせ事務としての経験が薄い。
そうだ!せっかく取った簿記3級。次は2級を目指すか。しかし2級となると手ごわい。さすがに独学では無理。
よし!大原簿記へ通おう。
こうして私は簿記2級をとって再び転職活動しよう、と決めた。
自腹で授業料を払い大原簿記へ通って週末は勉強した。さすがにお金も時間も投資しただけあって2級一発合格。
今の職場は人間関係が良く同世代の女性が多い。居心地の良さは感じていた。
この頃、できれば今の職場で社員になりたいと思うようになっていた。
私は思い切って上司に相談してみた。
「簿記2級を取りました。仕事の幅を広げたいので経理業務もう少し増やしてもらえないでしょうか?」
「あーいいけど、栗下さんが覚えたあとは社員の白井くんへ教えてあげてくれる?」
は?
なぜ、時給で働いている私が高給取りの社員に教えなくてはならないの?
しかも私が自腹で投資して週末も時間を費やして取った資格。
どうして私が教えなくてはいけないの?
なぜ?
私は悔しさで返事ができなかった。
私が課長になった理由 その②へつづく


