(政府は今年5月8日に、新型コロナウイルスの感染症法上の分類を、季節性インフルエンザと同様の「5類」に引き下げるそうです。
 
 勿論、変異を繰り返すウイルスが相手ですから、これをもって「コロナ禍」の収束宣言、というわけには参りませんが、少なくとも、この日を境に「人為的なコロナ禍」ばかりは防いで参りましょう、との意思表示とは言えますでしょう。

 そこで、ちょっと気の早い、ボンディ流「3年余りのコロナ禍まとめ」です。

 すでに1年前に穿った投稿をしていましたので、これを修整の上、repostいたします。)

 
 2020年初頭から始まった、日本での新型コロナウイルス感染症の流行において、日本でも大きな波のいくつかを経験しました。

 感染によって、亡くなる人、後遺症に悩まされる人、感染と感染対策の狭間で、社会の中の様々な現場での混乱と困難に直面する人、、、

 100年前のスペイン風邪などでも同様、「はやりやまい」の恐ろしさとは、その病気そのものや社会の混乱であると同時に、人々の心に、不安と不満と恐怖と怒りを駆り立て、猜疑心と被害妄想と加害妄想と自己防衛の念を強く喚起するところにある、とボンディは思っています。

 つまり、世の誰をも「手前(てめえ)さえ良ければいい」味噌っかすな奴にしてしまうのです。

 電車の中で咳をしている人が近くにいると、ちょっぴりイラッとしちゃう人。

 スーパーで買い物をしている時、マスクをしていない人を見かけると、ちょっぴりムカッとしちゃう人。

 (あなたもそうでしたでしょ?)

 「まん防」なのに、深夜営業をしている飲食店を見つけると、警察に電話しちゃいたくなったり、お店にクレームの貼り紙をしたくなっちゃう人。

 いかにも、コロナ禍における「日本人らしい」風景でした。

 
 和を重んじるのは、日本人最大の美徳。 聖徳太子も「十七条の憲法」の第一条の冒頭に書きました。

 「一曰 以和為貴 無忤為宗」

 (ひとつにいはく やわらかなるをもちて とうとしとし さからふることなきを むねとせよ)

 物事を進めるには、まず和が大事であって、人と諍いをせぬように。

 世の中がそれで保たれるなら単純明快ですが、残念ながら、これまでのコロナ禍中の日本の現状を見る限り、それでは言葉が足りないと言わざるを得ません。

 「和」は大事。それはその通り。でも、「和」だけでも足りなそうです。 「和」を乱す者を許さない世の中ってのも、なんだかギスギスしていませんでしたか?

 日本は、協調性を尊ぶあまり、いつだって同調圧力の高い国ですし、多様性を認めたがりませんし、「自己責任」や「自業自得」なんて言葉が多用される、冷たさも併せ持っています。

 実は、聖徳太子の「和を以て貴しと為す」には、原典があります。
 
 「論語 学而第一」

 (今や、現代日本人の多くが漢文に慣れていないので、ここでは書き下し文のみを紹介しますね)

 「有子曰く、禮(礼)の用(ゆう)は和を貴しと為す。先王の道も斯(これ)を美と為す。小大之に由れば、行われざる所有り。和を知りて和すれども、禮を以て之を節せざれば、亦行うべからざるなり。」

 論語の中の有若(ゆうじゃく)の言葉です。(有若は孔子のお弟子さんの一人)

 2500年前の中国人は、実にいい事を述べています。

 和は、礼とセットで初めて機能するということ。

 和やかだけでは、世の中が崩れてしまう。

 礼節だけでも、堅苦しい。

 和やかに節度を守る、そのバランスが大切と、有若は言うのですね。(因みに「礼節」の語は、この一節から来ています)

 
 翻って、現代の日本人。

 コロナ禍のギスギスの中で、バランスどころか、「和」も「礼」も含まれない言動が目立ちましたね。

 「自粛警察」なぞは、その最たるもの。

 気詰まりな世相の時こそ、先人の言葉に触れるべきだったと、今 ボンディは思います。

 (へんてこな「まとめ」ですね。 読んで下さる方々に分かりやすく、と思っていたら、長ったらしくなっちゃいました♡)