今日、お笑い相方募集掲示板で連絡をくれた男性と武蔵小杉で会うことになった。メールの内容は、「○○区在住、男性、34歳 ボケ ぜひ一度お会いしたいです」という感じだった。名前を名乗らないのと、34歳という年齢が気になったものの、こちらの意向も踏まえず、自らをボケと指定してくるということは、これは相当自分のギャグセンスに自信があるのか、あるいは相当に手札をストックしてきた努力家なのかもしれないと推測し、会うのを快諾したのだった。
僕は近くの回転寿司屋でネタ書きや読書で時間を潰せるくらい、かなりの余裕をもって武蔵小杉駅に到着し、その後約束の集合場所の三井住友銀行前で、季節外れの黒の半袖姿で待っていた(季節外れといっても、気温は10℃を越えてたし、寒くはなかったが)
。しかし直前になって先方は、約束の19時にはちょっとだけ間に合わないからスターバックスでケーキでも食って待っといてくれと、図々しくもメールで指示してきた。年上とはいえ、すごく上からものをいう人だな~と思いつつ、年齢の上下関係とはそういうもんだと自分を納得させ、仕方ないので近くのスタバに寄り、一杯590円もするキャラメルプラペチーノを購入してから二人分の席を確保した。また、顔も名前も知らないその男性が僕を認識できるよう、「黒の半袖Tシャツを着ています」というメールを丁寧に送って、先ほど横浜ビブレのブックオフで購入した、野田クリスタルさんの著書「野田の日記」を読みながら待機していた。
本(というか日記)の内容があまりにも面白くて、無意識に口角がつり上がってたのに途中で気付いた。自意識過剰な僕は、「変な目で見られてないだろうか?」と、隣の席で勉強していた大学生くらい若い綺麗な女性の視線が急に気になりだした、と同時に、そろそろ男性が到着しても良い頃合いだなと思った。手元のスマホで現在時刻を確認しようと、顔を下げた瞬間だった。
「黒半袖?」という声が聞こえた。
顔を上げると、スタバの座席区画を区切る柵越しに、金髪の細身の男性がこちらを見ているのに気が付いた。なるほど、彼が例のボケの男性なんだろうなということはすぐにわかったが、僕はあえて一瞬沈黙した。盆場という自分の名前は、何度もメールで伝えてあった。「盆場さんですか?」という男性からの言葉を期待してのことだった。
しかし、男性は意外にも、一目で僕じゃないと思ったのか、確認することもなくすぐさま踵を返し、そそくさとどこかに行ってしまった。
僕は驚いて、「あ、あの、ケーキは買ってないですけれども…!」などと意味不明なことを言って男性を制止しようと試みたが、そのあまりにも貧弱で情けない声が彼に届くことはなかった。隣の女性が驚いた表情でこちらを見ていたのがわかった。その表情が、僕が急に声を発したことによるものなのか、あるいは冬の半袖の筋肉を見せつけるような、それなりにガタイの良い大人の男性から、予想外に細い声が発せられたことの驚きによるものなのかは判別がつかなかった。
発声練習は今後しなきゃなと思った。
しかし、面倒なことになったなぁ。
二人分の席をわざわざ確保して、身の丈に合わないブルジョワ階級の飲み物を購入した手前、彼を走って追いかけるのも億劫だなと、頭をかくために視線を移したその瞬間だった。隣の女性のすごく怪訝そうな視線が僕のそれと交錯した。そして「け、ケーキは買ってないですけども!」と情けない声で意味不明なことを言ったことを思いだし、死にたいという気持ちが一気に沸き起こった。プラペチーノと自分の荷物を急いで手に持って、その場から逃げるようにして男性を追いかけはじめた。
さっきの男性は、僕に居場所を聞くためにメールを打つためか、スマホを眺めて立ち止まっており、運良く追い付くことができた。
「相方募集のメールを送ってくださったボケの方ですよね?」
「そう。そっちも?」
「はい。さっきは気付かず無視してしまい、大変申し訳ありませんでした」
別に無視したわけではないが、相手は8歳も年上、芸歴だって相当あるかもしれないし、何より僕の見立てでは、お笑いの実力があるかもしれない人物だ。失礼のないよう、またできるだけへりくだるためにも、下手にでなければと思い、最善ではないが、このような言いまわしになった。「ぜんぜん、ぜんぜん」と男性は笑顔で返して、ホッとした。
僕はスタバの方をチラッとみた。
「席も二人分とってありますし、スタバでお話しますか?」
「いや、おれ居酒屋やないと話せへんわ」
は?と思った。この男は、つい先ほどスタバでケーキを買って食べて待っとけと僕にメールで指示してきた張本人である。ケーキは買わなかったが、男性と腰を据えて話をするために、わざわざ席を二人分確保し、ブルジョワの飲み物だって購入したのだ。居酒屋でないと話せない?じゃあメールでやり取りしてたもっと前の段階からそう言ってほしい。店だって予約するし、待ち合わせ場所だって武蔵小杉でなくてもよかった。また、先ほどの590円は、4月の市ヶ谷転勤に伴う引っ越しを控えている僕にとっては貴重な財産だ。プラペチーノを握る指が少しカップにめり込んだ気がした。
しかし、年は8個も上、芸歴も相当あるかもしれない。この男の希望なら仕方がない。芸能界はそういう世界。僕はそれも快諾した。
「じゃあ居酒屋の多い新丸子のほうに行きますか?」
「この辺にはないん?」
「実は武蔵小杉はあんまり来たことがないんですよね。確か南武線の高架下に居酒屋がありましたけど、近くだとそれくらいですかね」
「武蔵小杉って全然栄えてないやん」
この男の認識に、疑問符を抱かざるを得なかった。「ああ、そういう浅い見方をする人なんだ」と、落胆に似た感情がわきおこって、一瞬つい黙り込んでしまった。というのも、武蔵小杉の東西南北ある駅前の一面だけを見て、そのように断定する姿勢に個人的に納得がいかなかったのだ。少なくとも今いる東急の武蔵小杉周辺は、住宅やショッピングが集積した暮らしやすい街なんだろうな、あるいは歓楽街エリアは、ここからだと見えない南武線の高架の向こう側か、あるいは何駅か先にあるんだろうなと素人目だが想像がつく。そもそも栄えている・栄えてないの基準はなんなのだろう?男にとっては居酒屋がたくさんあることが「栄えている」なのか?「栄える」にはいくつの赤提灯が必要なのか?そもそも高層マンションが林立し、ショッピングモールには家族連れがたくさん歩いている今のこの街の光景は「栄えてない」のだろうか?
しかしこの会話だけで男の中身を断定するのは早い。僕との会話を盛り上げるために、武蔵小杉は栄えていないという「ボケ」を繰り出したのかもしれない。ならばそれを拾えなかった「ツッコミ」の自分に非がある。
僕は南武線の高架下を目指し歩きながら、再び口火を切った。
「お兄さん、関西弁ですね!僕は関西の滋賀出身なんですけど、お兄さんも関西ご出身ですか?」
「いやちゃう、関西っていうか、まあ、ウーン、関西かな、ウーン」
その時、僕はその男が、お世辞にも頭が回るタイプではないのかもと思った。おそらく、自分の住んでいた地域が、世間的にみて関西か関西でないかの判断に迷ったのだろうが、こっちは滋賀という地名まで自己開示してみせたのだから、男も単に出身府県名を言えば良いのである。実家の住所が暴露されるならともかく、出身都道府県を言うことのリスクなんてあるのか?仮にあったとしても、そもそもお笑いという人前に出る行為をする人間が、そこまでのリスクを考慮すべきなのか?結局男の出身地は最後まで聞けることはなかったし、その時点で僕ももはや何か聞こうという気力がもはや失せていた。あとさっきから気になっていたが、この男、初対面の僕に対して最初からタメ口である。いくら年上だろうが芸歴があろうが、そういう人にはあまりいい気は抱かないのが僕の性格だ。これは僕が世間とずれてるのかな?
ともかく、高架下の居酒屋についた。他店の商品は持ち込めなかったので、スタバで買ったキャラメルプラペチーノはその場で捨てざるを得なかった。これを作ってくれた店員のお姉さんの顔が浮かんだ。一方で男の表情はなんの罪悪感も抱いてそうに見えなかった上、「タバコ吸いたいから外の席がええわ~」などと言っていた。殴り殺そうかと思った。
もう何も言わずに帰ってもよかったが、お人好しの僕はその喫煙席に男と向かい合ってついてしまった。そうなると何も話さないわけにもいかない。男について色々聞いてみることにした。
職業はウーバーイーツの配達員とのことだった。好きなお笑い芸人はダウンタウン。昔パチンコにはまり、借金のしすぎで、債務を踏み倒したこともあるそうだ。借金取りが取り立てに来ないのかと聞いたら、「借金って5年踏み倒したら、それなかったことにできるんやで」と自慢気に語ってくれた。今はパチンコをやめたらしい。
30歳で某お笑い養成所に入ったそうだ。なぜ芸人になりたいと思ったのかを聞いてみたら、「テレビに出てお金持ちになって貧乏生活をやめたいから」だそうである。ほほう、芸人になれば、たとえ才能があっても貧乏生活は避けられない場合がほとんどだと思うが、あえてその道を進みたいというのは大した志しだなと思った。この男、教養とかはなさそうだけど、影でネタ作りなどの努力はしているのかも?と一瞬根拠もなしに期待してしまったが、それが僕の理想の押し付けでしかないことがすぐ判明した。
「テレビで披露できるような特技をお持ちなんですね、すごいじゃないですか」と言ってみたら、男ははっとした表情になり、ばつが悪いのかモジモジしだした。男曰く、別にテレビで披露できる特技もないし、芸人としてネタを書くこともない、そういう特技やネタは、僕とコンビを組めたら練習するつもりだそうである。
この男、ネタ作りとか大変な作業は全部僕に押し付けて、自分は華のボケとして脚光を浴びて甘い汁だけを啜ろうっていう魂胆だったのでは。ぶち殺すぞ。
一応なんでボケ志望か聞いてみた。
「メールでボケ志望と書かれていらっしゃったので、てっきりネタをたくさん書かれているんだと想像していました。普段の会話でボケることが多いんですか?」
「会話でかぁ、会話でボケるっていうかなぁなんやろうなぁ。でもオレ、ツッコミとかできへんし、ボケするしかないねん。自分はツッコミ?」
何を言ってたか正確には思い出せない。それくらい支離滅裂なことを言っていた。もうお手上げである。怒りや呆れなど感情がぐちゃぐちゃになった僕は、返答に窮してまた黙り込んでしまった。今度の沈黙は長かった。
ツッコミできへんと言ってるが、一方でこれまでの会話で一度もボケることもなかったし、そもそも会話をしてて、相当な喋り下手であるのはおそらく本人も自覚していた。
こんな芸も能もない男が、図々しくも自分はボケをやりたいと一方的に主張し、さらには自分は運が良ければテレビに映って、雛壇に座るだけで、大金の出演料をもらえるかもと夢想していた事実に驚愕しているのである。
あるいは、芸も能もない、喋り下手、努力もしない自分に向き合うのが怖くて、あえてお笑い芸人という厳しい世界に身を置くことで、自分を正当化しようとしていたのかもしれない。
統計サンプルはこの男だけだ。お笑い芸人を目指す人がみんなそうとは限らない。
でも、世の中には、というかお笑い界には、こういう現実逃避をしようとしてる人間が、もしかしたら山ほどいるのではないだろうか?果たして自分もその一人ではないと言いきれるのだろうか?なんだか触れてはいけないものに触れた気がして、急に不安に襲われた。
「殺意を覚えるこの男は、実は僕の鏡写しだったりして…?」
「こんなオッサンと俺が一緒なワケねーだろ、ぶち殺すぞ」
脳内の天使の盆場と悪魔の盆場が喧嘩していた。
この男と一秒でも一緒にいると、精神衛生上良くないと、すぐにでも帰りたいなと思った。スマホの時間を見下ろした。男は察したのか、「やっぱダメ?」と聞いてきた。
「お察しのこととは思いますが、お時間を作っていただいたのにすみません。あと気に障られるかもしれないですが、そもそも初対面の人にタメ口で接することや、断りもなくタバコを吸う時点で、ちょっとどうかなと思います」
「それって会ったときからオレもうダメやったってことやん!」
男は完璧なツッコミを入れた。いやツッコミできへんのとちゃうんかい!
僕のなかの男の評価がほんの僅かだが上昇したような気がしたが、気のせいだった。
せっかく時間を作って、はるばる世田谷から40分もかけて武蔵小杉に来てもらって悪いと思い「ここは自分が出します」と言ったが、「いえいえ、自分が年上なんで、払わせてください」と男は言った。せめて僕が飲んだ生ビール500円を出すといったが、それも拒んだ。男はいつの間にかタメ口ではなくなっていた。
でも男は、最後まで自分の名前も出身地も明かさなかった。本当に売れる気あるのかコイツ。
男を南武線改札まで見送ったあと、僕は果たして芸人の道を進むべきか、帰路で考えていた。ひょっとしたら、とんでもない社会の暗部に足を踏み入れようとしているのではないかという感じがした。
ネタ作りと相方探しは、今も続けている。