宗教といえば、オウム真理教の事件を少年時代にテレビで見ていた世代に当たる。

子供であったのでおもしろがって尊師の名を連呼する歌を真似て歌ったり、似顔絵を描いたりしていた。

ある時こっそり隠していたその似顔絵が親に捨てられたことを知って、

自分が密かにタブーを犯してしまっていたことに思い至った。おもちゃにしていいような代物では少なくともないようだと、

つまらないかどうかは別として、少し大人に向かって歩いた頃だったと思う

 

僕らにとって、宗教は事件だった。

 

実際、オウムに限らず様々な事件の首謀者として宗教の存在がクローズアップされることは、珍しくはなかった。

もちろん、仏教は葬式や法事のたびに僕らの前に顔を覗かせ、退屈を運んでくる使者のような存在であったし、

神社だってお祭りになると普段からは想像もできないくらいにぎやかなイベント会場になった。

だけど宗教という認識をどれほどしていたかというと、首を傾げざるを得ない。

 

そんなふうだった僕にとって、ニーチェのキリスト教批判は肌身を通して実感できるというようなものではない。

しかし例えばキリスト教の神は人の生を否定しているとニーチェが語る時、ただそれが人を集団の中に埋没するような畜群へと化してしまうからだとか、ルサンチマン(憎悪)により奴隷へと貶めているからというだけでなく、そういった人のあり方を人間の本性に根差しているとして、人間を超え出ていくことへの必要性やひいてはその必然性までをも説いていることを知って、少しこの偉大なる哲学者に対して同情を抱くのである。

人間である以上人間の能と無能にどうしたって支配されてしまう。だからニーチェは人間それ自体に限界を感じていたのだろうと思う。ニーチェはキリストをキリスト教から救い出そうとしたのだとも言われる。キリスト教を生んだのはキリストではなく、ルサンチマンの持ち主たちであったために、キリストの真の姿は歪められ、ただただ人々にルサンチマンを植え付けるものになってしまっている。だからキリストを救う必要があるということのようだが、確かこのキリスト教批判から着想を得て、マルクスをマルクス主義者たちから救い出そうという主張をしていたのが、戦後最大の思想家と言われた吉本隆明でなかったかと記憶している。

 

まあもちろん超人になんてなれるわけもないし、なりたいとも全く思わないが、何度過ちを犯しても犯し足りないかのような人間の愚かさを見るにつけ(それは戦争のような国家規模の出来事から差別やいじめのような日常的な物事までを含むものである)、いったい人間はいつまで人間を続けるつもりなのだろうかと嫌でも考えてしまい、超人の到来を夢想したりもするのである。

 

誰かこのろくでもない世界をほんの少しでもまともにしてはくれませんか?僕は高見の見物ならぬ底辺見(ていへんみ…語呂が悪いな)を決め込むことにします。頑張ってね。