あい・らヴ・ゆー

そう言いたい。
好きだ とは言ったけど、あい・らヴ・ゆー とは言ってない。

資格がない。
勇気もない。

ただの言葉かもしれない。
ありふれた言葉かもしれない。

あい・らヴ・ゆー

日本語では書けない。
日本語で言いたい。

相手があなただから、
口には出せない。
文字にもできない。


好きです。大好きです。
ごめんなさい。ありがとう。
泣いてばかりいてごめんね。

他のことじゃ泣かないのにね。

落とし忘れてた左目のマスカラ、
フォータープルーフだから涙くらいじゃ落ちないみたい。


一緒にいたいよ

あい・らヴ・ゆー って言いたいよ
活字って素晴らしい。
それが良質な文章で想像豊かなものならなおのこと。

他人とのオーラルコミュニケーションは相手を知りうる最も友好的で有効な手段かもしれない。
直接的なコミュニケーションとして言うなればセックスもその一つだろう。
特徴としてこのコミュニケーションは感情や、その時の環境など一時的な要因が多分に含まれている。
時には嘘や偽善もあり得る。

それに対して手紙、現在ではメールなど文章はオーラルコミュニケーションに比べたら思考する時間がある。
相手に伝えようと努力する姿勢が見える。嘘や偽善はあるかもしれないけれど。
この場合メールはオーラルコミュニケーション的文章になるので除外するが、それでもいかに伝えるかを思考する時間が無くはない。

思考する時間が長くあるということは、自分の感情や考え、言い換えるなら頭の中を搾りだして理解してもらうことができる、少なくともオーラルコミュニケーションよりは深いコミュニケーションになりうると言うことだ。

その点で自分の頭の中を活字にすることは素晴らしい利点を持つ。なおかつ、美しい文章であるなら読むことが快感だ。こちらからアクティブに理解したくなる。理解は本来パッシブだが、それでも気持ちはアクティブにある。

それが小説だ。

久しく小説を読んでいなかったが、やはり好きだ。自分で場面を想像しながら読むと言うのは漫画とは違う。小説は頭の中に世界が広がる、知らない世界が。その知らない世界はどこにも存在しないが、確かに存在する。作者の頭の中に存在する。そしてそれを共有できるツールの一つとして小説がある。

オーラルコミュニケーションはあくまでこの世界が基準である。この存在する世界を基準に会話が成り立ち、相手を知る。天気はどいだ、気温はどうだ、服装がどうだ、外見がどうだ…話題は豊富だがパターンがあり、最初のうちは上辺だけをすくうことになる。
ある意味、活字的コミュニケーションより時間がかかるかもしれない。

小説は上辺をすくう手間を省く。直接、脳から脳へとダイブする。厳密に言えば間接的ではあるが、それでも一気に広がりを見せる世界は圧倒的だ。

読み終わって作者の考えが理解できるわけではない。読み終わったところで作者は知らない人だし、接点などない。
それでも読み終われば何かしら感想をもつ。つまらないかもしれない。劇的に価値観が変わるかもしれない。何もないかもしれない。それでも多少なりは記憶に残るだろう。会ったこともない人が書いた物語なのに。

それって素晴らしいと思う。希薄な人間関係よりはよっぽど。


だから本を読もうと思う。
素晴らしき活字体、美しき文章、世界という小説を。
詞を携帯に書いていると、客観視できない。書き起こせばそれなりにできるけど…

ということで、とりあえずアメブロに載せてみよう。


#エロソン(グ)


結局僕らミルフィーユ
何層にも重なってるんだ
甘くてトロトロ蜜の味
塩気効かせてショックでイカせて

何度だって立ち上がる
いつだって閉まっておきたい
僕の剣、あなたの鞘に
ナウどうやって立ち上がる?
いつだって聞いておきたい
あなたの在処、僕の所在

鈍臭いのはキライさ
素早く行きたい・イキたい
まるで対人地雷
ラララ・ラララ・イキたい
嗚呼、居合斬りだね
ぼくとキミ


まるで僕はロリポップ
いつまでだってナメられてんだ
苦くてどろどろ血液は
甘くったって舐めたくないんだ

何度だって溢れかえる
いつだってしまっておいて
あなたの鞘、その口も
ナウどうやって沈める?
いつだって塗れていたい
あそこのあなた、没気する所

持久戦は得意さ
派手に行きたい・イキたい
まるで対空砲さ
ラララ・ラララ・イキたい
嗚呼、居合斬りだね
ぼくとキミ

行きたい(行かせたい)
逝きたい(逝かせたい)
生きたい(生かせたい)
イキたい