活字って素晴らしい。
それが良質な文章で想像豊かなものならなおのこと。
他人とのオーラルコミュニケーションは相手を知りうる最も友好的で有効な手段かもしれない。
直接的なコミュニケーションとして言うなればセックスもその一つだろう。
特徴としてこのコミュニケーションは感情や、その時の環境など一時的な要因が多分に含まれている。
時には嘘や偽善もあり得る。
それに対して手紙、現在ではメールなど文章はオーラルコミュニケーションに比べたら思考する時間がある。
相手に伝えようと努力する姿勢が見える。嘘や偽善はあるかもしれないけれど。
この場合メールはオーラルコミュニケーション的文章になるので除外するが、それでもいかに伝えるかを思考する時間が無くはない。
思考する時間が長くあるということは、自分の感情や考え、言い換えるなら頭の中を搾りだして理解してもらうことができる、少なくともオーラルコミュニケーションよりは深いコミュニケーションになりうると言うことだ。
その点で自分の頭の中を活字にすることは素晴らしい利点を持つ。なおかつ、美しい文章であるなら読むことが快感だ。こちらからアクティブに理解したくなる。理解は本来パッシブだが、それでも気持ちはアクティブにある。
それが小説だ。
久しく小説を読んでいなかったが、やはり好きだ。自分で場面を想像しながら読むと言うのは漫画とは違う。小説は頭の中に世界が広がる、知らない世界が。その知らない世界はどこにも存在しないが、確かに存在する。作者の頭の中に存在する。そしてそれを共有できるツールの一つとして小説がある。
オーラルコミュニケーションはあくまでこの世界が基準である。この存在する世界を基準に会話が成り立ち、相手を知る。天気はどいだ、気温はどうだ、服装がどうだ、外見がどうだ…話題は豊富だがパターンがあり、最初のうちは上辺だけをすくうことになる。
ある意味、活字的コミュニケーションより時間がかかるかもしれない。
小説は上辺をすくう手間を省く。直接、脳から脳へとダイブする。厳密に言えば間接的ではあるが、それでも一気に広がりを見せる世界は圧倒的だ。
読み終わって作者の考えが理解できるわけではない。読み終わったところで作者は知らない人だし、接点などない。
それでも読み終われば何かしら感想をもつ。つまらないかもしれない。劇的に価値観が変わるかもしれない。何もないかもしれない。それでも多少なりは記憶に残るだろう。会ったこともない人が書いた物語なのに。
それって素晴らしいと思う。希薄な人間関係よりはよっぽど。
だから本を読もうと思う。
素晴らしき活字体、美しき文章、世界という小説を。