長野と新潟の県境

苗場山と鳥甲山の谷を刻んで流れる

中津川渓谷の深い谷に

張り付くように散在する

12の集落を称し

「秋山郷」といいます

厳しい地形と豪雪のため

近年まで里との交流が限られていました

長野県最北端の栄村の

主要地からも遥かに隔絶し

積雪量日本一(7m85cm)を

記録したこともある

秋山郷は

渓谷斜面がかなり急で

作物栽培が困難な地

焼畑農業で

アワ、そば、ヒエ、大豆などを栽培し

昭和20年頃までアワ、ヒエを主食とし

食料事情の良いときにソバ

悪いときは栃の実を食べ

村人たちは

狩猟、焼畑耕作、林業、木工業を糧に

生活を続けてきました

昭和27年に自動車道が建設されるも

11月下旬~5月上旬までは積雪のため

自動車は通行出来ずに陸の孤島と化し

冬場は食料不足が深刻で

昭和40年代に入ってようやく

年間を通し自動車交通が可能となり

食料不足問題が解決された

という隔絶山村だったため

今日まで

大自然と古い風俗、習慣

先人の知恵と技が残っています

秋山郷の木地師は

雪に閉ざされる冬

山林から材を取り

様々な道具を作ってきました

かつては栃の木で作られた

木鉢、木鋤、杓子、下駄

など多種ありました

(とねんぼ民族資料室で
実際に作られ使われていた
木鉢や杓子などを見ることができます)

今は唯一

木鉢だけが手彫りされており

木工の技術を生かして

原木の形をいかした

あの大胆な

“輪切りテーブル”も

秋山郷が発祥でした!

そして

秋山郷は

冬眠している熊(熊穴)を狙って

熊狩りを行う

「狩猟の里」「熊狩りの里」

と、言われてきました

秋田マタギが住み着いた

大赤沢にはマタギの巻物

「山立根本巻」が伝わっており

(マタギとしてのライセンス
自らのルーツを記した巻物)

秋山郷のマタギは

秋田県阿仁マタギをルーツとしています

明治時代までは火縄銃と槍を用い

今は鉄砲を用いて

仕留めた熊は集落まで曳いてきて解体し

「熊曳き歌」を声高らかに歌うといいます

(マタギでも熊撃ちの方法や曳き方は
地方により異なっています)

秋山郷では

山の野生動物は貴重な蛋白源で

カモシカやウサギなどは多く猟れたため

一般の村人の口にも入ったが

熊はマタギ仲間で分けてしまい

一般の人々の口に入る機会はなかった

と、論文で読みましたが

私が

秋山郷に最初に訪ねた時

秋山郷の入り口の

新潟県中魚沼郡津南町の宿の従業員の

若い女の子(群馬県出身)が

宿のそばに熊が出てマタギが銃で撃ち

熊を解体し肉の分け前をもらって

熊鍋にして食べたという話しを聞いて

おおお~!と思ったが

(笑)

秋山郷では

渓谷ではイワナが捕れ

山では

ふきのとう
こごみ
たらのめ
うど
行者にんにく
ねまがりだけ

なめこ
まいたけ

が、採れるというので

楽しみに出かけましたが