おにいちゃん・・・おにいちゃん




やけに冷たい小さな手が、少年の頬をやさしくたたく




おにいちゃん、もうあさになったよ




ゆっくりと目を開けると、少年をのぞきこむもう一人の少年の顔




その顔の向こうには、なんだかよくわからない感じの無機質な天井




起こされた少年はまだうつらうつらしている





おにいちゃん、ぼくおなかへったよ






この一言で、夢と現実を行き来していた少年は、現実に引き戻されてきた




ああ、ごめん




少年は起き上がろうとするが、身体の節々がどうも痛そうだ







普通じゃない生活は4日目をむかえていた








古く、ところどころがオウド色の錆びがついた3畳ほどのコンテナから二人の少年が顔をだしている




左側の少年は今年で6歳になる。成長期らしく、前歯の乳歯が一本抜けている



右側の少年は4歳。まだほんの幼児である。大きく愛嬌のある目を心配そうにしかめ、隣から顔を出している少年をみつめ、言葉を待っているようだ




よし、おにいちゃんがごはんもってくるからここでまってて




前歯の抜けた少年はそういうと、コンテナの外に投げ出された小さくて泥だらけの靴を履いた





大きな目の少年はわかったと一言いって、自分の食事を持ってきてもらうために兄を起こしたことが申し訳なかったのか、それでも自分も靴を履こうとした




いいからここでまってろって、まださむいから




自分の靴よりも小さな靴を、自分の手よりも小さな手からひょいととりあげ、前歯の抜けた少年はにっこり笑ってコンテナの中へその靴を放り投げた





・・・・いってらっしゃい




決まりの悪そうな弟、朝はいつもこんな顔をしている




そんなとき、兄は決まって





今日はあじのついたにくを持ってかえってきてやるよ





と弟に言い聞かせる。すると弟の顔は一変し、ウン!と、はじめて大きな目を横に伸ばして笑うのだ






・・・・




・・・・




・・・・





煙草の煙が安アパートの部屋の中をわがもの顔で漂っている




前歯の抜けた少年はこの臭いが大嫌いだった




いつもの大人がまた来ている




「いつもの大人」は少年の母親に、火曜日と木曜日と土曜日にあいに来る





少年の母親は、蒸発してしまった父親に代わり、しばらくはスーパーのパートタイマーとして働き、なんとかやりくりをしていた




しかし、すぐにその仕事だけで子ども二人を抱えた生活は出来ないということに気づく




母親の転落人生はそこからだった




もともと顔立ちのいい母親は、水商売の道に入ればすぐに男が寄ってきて、家庭の事情を知った男たちは母親の前に金をちらつかせては家にやってくるというものだ




そんな生活が続くと次第に母親から感情が抜けてゆき、ついには水商売もやめてしまって、今では火曜日と木曜日と土曜日に来る「いつもの大人」に、金で自分を売っている





いつからか、少年たちの食事はひとつのインスタントラーメンを二人で分けることが当たり前になっていた




いつからか、少年たちはぶたれるとき以外に母親に触れられることはなくなっていた




いつからか、それすらなくなってしまって母親は2,3日帰らない事も普通になっていた








ある雨の日、前歯の抜けた少年は目の大きな少年にある提案をした




いつになく真剣な兄の口調を感じ取った弟はしけったクッキーを半分にする手を止めて兄のほうへ歩いてきた




どうしたの?



不思議そうに顔をのぞき込んでくる




何か一点を見つめ、腹を決めたように少年の前歯の抜けた口が開いた




お母さんを探しに行こう











最後に母親が部屋を出てから丁度一週間が過ぎた日のことだった











つづく







高校を出て、都会の大学へ



俺の高校一年からの夢だった



――― その夢を描いてから7年後の秋



かねてからの念願かなって、俺は大阪の私立大学に通えている




大阪ビル街、あのど田舎で暮らしていた俺には十分すぎるほどの都会





今ではすっかり地下鉄も乗りこなし、どこにどんなランドマークがあるかもすぐにわかるようになった





たこ焼きのソースの味もすっかり舌に馴染んで、友達の関西弁が移ったりして






でも本当は、俺がいるべき場所は大阪じゃなくたってよかった




福岡、名古屋、京都、神奈川。東京はいわずもがな



広島じゃあ少し足りないかな




人が、チャンスが、より多く転がっているところに俺は行きたかった





大学で学びたいことなんて全くなかった



親や学校の先生にはもっともらしい言葉を並べて、それが許されたときには俺は既に人生に成功したと考えていた






ロックンロールで天下を取る





大学一年の春、早くも大いなる野望の一歩は踏み出された




「バンドをはじめたきっかけは?」  「もともと大学のサークル仲間です」



テレビのインタビューで売れているバンドマンはこう返すパターンが多い



サザンオールスターズだってきっかけは大学のサークルだし




だから、大学に入ったと同時に俺はひとつの軽音サークルに飛び込んだ




大学のサークルは将来のスターロードへの入り口になるんだ




気の会う仲間、音楽の趣味が合う仲間に声をかけ、すぐにバンドを結成した




俺はもちろん一番目立つボーカル。高校時代にはギターも練習していたのでギターボーカルだ







奨学金を借りてまで行かせてもらっている大学、母親も朝早くから仕事に出かける生活



田舎の実家は貧乏で、大学も本当は国立大学にしか行かせてもらえる余裕はなかった




それなのに、親に無理させてまで入った大学には、俺にはほとんど意味はない





親不孝な息子A。きっといつか俺のギターで天下取ったら、家のひとつでもプレゼントするから





親に対する後ろめたさを感じつつも、毎日はあっという間に過ぎていった








そして大学四年の秋、つまり今





ついにインディーレーベルからのCDデビュー!





なんてこともなく、毎日をただただ消化している





あれだけ啖呵をきっていた音楽活動も、次第に勢力は弱まり、最近ではサークルの定期演奏会のようなイベントでもなければ楽器に触れることもなくなっていた



大学生って意外とやらなくちゃいけないことが多いんだ




ゼミにレポート、定期試験にアルバイト、親の負担を減らさなきゃ、と、アルバイトをしていたらバンド活動してる時間なんてほとんどありゃしない








仕方ない、仕方なかったんだ








同じ学科の友達も、サークルの友達も、この時期になるとほとんどが就職の内定をもらっていた





就職活動もほとんどせず、アルバイトや、友達や、彼女のために時間を使っていた俺には4月からの居場所がなかった






でも心配な気持ちはない。俺には才能がある






またバンド活動を始めて、ライブハウスで俺の曲を演奏して、偶然レコード会社の人の目に留まって、スカウトされたり、デモテープでも送ればみんなすぐに俺の才能に飛びついてくるだろう




そこから先はメインストリームを突っ走るだけだ





大丈夫、不安なことなんて何もない













そんなことを考えて、今日もごろんと横になる



気づけば、みんなマフラーをしなきゃいけない季節に




時間は誰にでも平等で無限。でも俺が大学生でいられる時間には限りがある





下が見えない崖の端っこに俺は立たされていて、大きな壁がこちらに寄ってくる




周りの皆はどうやら4月からの新しい逃げ場を見つけ、その壁に押し出されないようにその場所に飛び移ってしまっている




4月からの新しい逃げ道がない俺は、未だ崖の端っこでふらふらほっつき歩いている







つづく




太陽の光が怖い




朝、皆が電車に間に合わないと言ってあわてて歩くとあわてる。ベッドの中で。




もう何日、家族の顔をみていないだろう



もう何日、人と喋っていないだろう



もう何日、外に出ていないんだろう



もう何日、生きればいいんだろう




午前九時、家の中がやっと静かになる。




のそのそと一階のリビングに下りてくると、テーブルにはいつものようにおにぎりと卵焼き



少し冷めてしまっていて、かぶせたラップの内側には水滴がいくつか付いている



ラップをめくるとき、いつも水滴が手について、「冷た。」と言ってしまう



この言葉が一日のうちの最後の言葉になる事も何回かあったような気がする




空気の音が聞こえてきそうなほど静寂な空間。




それを強調させるかのような棚の上の置時の音。



いい忘れていた。この時計の秒針が進む音も怖い




時間は誰にでも平等、何もしなくてもどんどんどんどんどんどん過ぎていってしまう




そんな当たり前のことを考え出してしまうと、いよいよ気が狂いそうになる







なるべく現実に気づかれないようにしないと。






乱暴にラップを引っぺがし、おにぎりと卵焼きを口に押し込める





飯を食っているだけなのにあごが疲れてしまう、一体どれだけ弱っているんだ、俺は





高校時代は運動部で、それなりにスポーツも出来、友達と遊んだり彼女と遊んだり、ごく普通の生活が送れていたはずなのに




何かを考えるのが嫌になり、リビングのテレビをつける




簡単料理の作り方、簡単収納術、誰かと誰かがくっついた、誰かと誰かが破局した




どうでもいい知識ばかりが日々増えてゆく





しばらく無意識にチャンネルを切り替えた後、取り付かれたようにそのまま自分の部屋に引っ込む




自分の居場所はここ。カーテンを閉め切った薄暗いここだけが自分が自分でいられる所





今度はパソコンのスイッチを入れる




一日のうち、少なくとも10時間はこのディスプレイを見ているだろう




最近のサイトはすごい。好きな映画も音楽もテレビドラマもアニメも全て見れてしまう




こういうシステムがあるから自分みたいな人間がうじゃうじゃと生まれてくるんだろう





なんて、自分のふがいなさを技術進歩のせいにして、無理矢理に今の自分を正当化する





午前十一時、カーテンを少しだけ開け、窓の外を見たりする




宅急便の車だ。忙しく荷物を運んでいる




人はなんであんなに元気に働くことが出来るのだろう?そう考えると時々自分が同じ人間とは思えなくなる





ああ、まただ。考えてしまった。




早くディスプレイ・トリップに戻らなくては













次に現実に帰ってきたのは、妹が家に帰ってきたのと同じ時間だった




午後4時、カーテンの隙間からこぼれる色はすっかりオレンジになっている




ああ、やっと今日がはじまる





どかどかと妹が階段を上がってくる




二階は、この部屋と、隣に妹の部屋があるのだけれど、いつもこの瞬間はひやりとする





万が一、妹が自分の部屋と間違えてこの部屋のドアを開けたらどうしよう




もしそうなったらどんな言葉を交わせと言うのだろう。おかえり、なんてとてもいえない





ぎっぎっぎっ





がちゃ、ばたん





よかった、今日も一直線に自分の部屋に入ってくれた




夕方になると、ほとんど毎日少し寝ることにしている




うちの中での「帰宅ラッシュ」がはじまるからだ




妹の後には立て続けに、母親、父親が帰ってくる




それからはまたばたばたし始めるので、家族の夕食が終わる午後八時までは眠っているほうが気が楽





午後八時三十分、母親が部屋の前まで持ってきた夕食をいただく




もちろん、毎日母親には感謝しているし、ご馳走様と伝えたい気持ちはある




しかし、そのときに母親から笑顔をもらうかもしれないというリスクがあまりにも大きいので、なるべく顔はあわせたくない




厳密に言うと、まさにあわせる顔がない




母親の笑顔は凶器だ



それをみると心がナイフでめった刺しにされたような気分になる





家の中にも、家の外にも、自分の発狂爆弾のスイッチはごろごろ転がっている




毎日が闘いだ、このスイッチを押してしまわないよう、常に神経を尖らせていなければならない



誰にも気づかれない不安と息苦しさの中、毎日闘っているんだ




午前一時、今日は外に出てみよう



周りが暗くなり、多くの人が働いていないこの時間だけ、自分も外に出るのが許されているように感じる




だんだん寒くなってきたなあ、また冬が来るのか。まだ、時間は進むのか。時間も少しくらい疲れればいいのに。少しくらい休めばいいのに。






ああ、明日も生きていいのかなあ






月の灯りだけが、こんな自分の足元を照らしてくれている






つづく