シャイヨ宮のテラスにある石ベンチは、僕のお気に入りだ。
観光客は多いがベンチに腰かける人は少なく、いつ行ってもどこかしら空いている。
アパートから近いということもあって、いつも団体客を横目に石のベンチに腰かけていた。
眼前のエッフェル塔は今日も変わらずパリの街を見下ろしてる。
昼は無機質な鉄の塊だが、日が暮れてライトアップされると息を飲むほど美しい。
パリにきて間もない頃、シャイヨ宮のテラスから景色を眺めていたら、
隣といっても人二人分ほどむこうに、黒のコートを羽織ったおじさんが座っていた。
四十代後半のように見えたが、山高帽を深くかぶっていたので顔はよく見えない。
ふと目があって会釈をすると、向こうはニッコリ笑って「ca va?(元気)」と訪ねた。
「ウィ、元気です。」
「君は中国人?」
「ノン、日本人です」
「パリへは旅行で?」
「うーん、半分旅行で半分勉強です」
曖昧な返事に、男は「そう」といって肩をすくめた。
それから二人はしばらく黙った。僕は再びエッフェル塔を眺めた。
やがて雨が降ってきた。それはしだいに強さを増して雹(ひょう)になった。
周囲の観光客は記念撮影をやめ、通りに停まったバスへと駆け込んでいき、
土産物売りの集団も、商品の袋をわきにかかえて逃げるように去っていく。
僕もそろそろ帰ろうとした時、男は「ボンソワレ(いい夜を)」といった。
更に山高帽を深くかぶったので表情は分からなかったが、
僕は「あなたも」とだけ言い残し、その場を後にした。
春の雹は思いのほか強かった。しかしセーヌ川を渡るとやんでしまった。
以来、シャイヨ宮に行く度に彼のことを探すようになったが、その姿はどこにもなかった。
きっと今になって再会しても、僕のことを覚えてはいないだろう。
それに再会したところで僕から話すネタがない。ただでさえ口下手な僕だ。
前のように一言二言、会話して終わるのがおちだ。それでも僕は探してしまう。
黒いコートに山高帽のおじさん、明日こそ会えるだろうか。
◆シャイヨ宮(PALAIS DE CHAILLOT)
PLACE DU TROCADERO 75016 PARIS FRANCE
※宮内には4か所ほど博物館がありますが、テラスは無休・無料です。シャイヨ宮すぐ下に広がるトロカデロ広場からエッフェル塔までの眺めはとても綺麗。エッフェル塔を撮影したい人にオススメしたいスポットです。