7. 社会学と文化人類学/ シェアするという事と役割の分担という事 | Bokensdorfのブログ

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国際結婚から考えた「隠れた構造・隠れた文化」について
加えて「世の中の仕組みは実はこうなっている」について書きます

■ シェアするという事と役割の分担という事


邦題「愛と追憶の日々」という映画の中で、
子供が夜中に急病になってスチームの効く風呂場で夫婦が看病する場面がある。

夫は翌日の仕事があるし、子供の面倒は二人がかりでやる必要はないので、
妻に任せたいと思っている。
すると妻は気づいてこう言う。

「あなた、自分だけ寝たいんじゃないでしょうね」

これはどう解釈したら良いだろう。

家族の出来事だからあくまで二人で対処するべき、
効率は必要ない、ということなのか。

役割の分担という考えは受け入れられないのだろうか。
仕事が翌日あるときに、夫に夜更かしをさせてもいいと思っているのだろうか。

もしあなたの乗る飛行機の機長が
「昨日は子供が熱を出して夫婦で看病したので眠れなかったんですよ」
と言ったら、誰がその飛行機に乗りたいだろうか。
それとも夜更かししなければならない時は翌日の仕事を休むべきとでも言うのだろうか。


二人でシェアする。
これは分かったようでなかなか意味が分からない考えだ。


二人で何かひとつの事をする。それは本当に可能なことなのか。

例えば、家事。
私も家事をする。
私にとってそれは家内を手伝っているわけではない。
私が好きでそうするだけだ。
家事をシェアしているという意識は無い。

家の掃除も、車を洗うのも、自分の靴を磨くのも、洗濯物を取り込むのも、
部屋に花を飾るのも、その時々に自分の役割を見つけて
始めから終わりまで一人ですべてやるのが自分の行動様式の基本だと思う。


行動する単位が一人なのが基準だから、責任も一人である。
自分のパートナーにも、それが当てはまると思っている。
責任が当人一人にあるのだから、余計な口を挟まないし、結果について
「良かったね」とか「有り難う」とは言うが文句は言わない。
前に出てきた「自律型」の行動様式とよく似ている。

(以前、夫婦とも日本人の新婚のご主人が休みの日に台所を掃除したら、
 奥さんが「汚れてましたか」と涙ぐんだという話を聞いたことがあるが、
 これは奥さんが自律型の日本人で
 台所の事はすべて自分の責任範囲だと考えているからだろう。)


ところが、家内は、自分のやりかけの家事があると、
それを夫が自動的に引き継ぐべきだと言うのである。

例えば、家には階段があったが、家内は時々そこに服や雑誌や子供の玩具などを置くことがあった。
それは「片付け」という家事の途中である。
たまたま私が2階にあがる時、それを跨いで行こうものなら、階下から名前を呼ぶ声がする。

「どうしてこれを持って上がらないのか。わざと手伝わないのか。」と言うのである。

こういう事は何年も続いた。

どうしてそれが
「後で上に持って行くもの」と
「一時的にそこに置いたもの」と区別できるというのだろう。

そんな事は当事者にしか分かるわけがない。しかも、
片付けはやり方が人それぞれあるものであり、
誰かが指示しない片づけはただの置き場所の移動でしかなくなる。

片付けしているものは、他人がさわってはいけない。それは世界共通の真実では無かったのか。

いくら「前にも何回も同じ事を言っただろう」と家内に責められても、
私には階段に置いてあるものを自動的に階上に持って行くという事はできない。
したくないのではない。自分の仕事ではないから目に入らないのだ。
見えた途端「これはさわってはいけない」と判断するのだ。
さわってはいけないのだから、家内を探して「上に持って行こうか」と尋ねる理由もない。

そう説明しても家内には通じない。
私の事を『何回言っても分からないなまけもの』などと言う。
百歩譲って、「家内は一時的に階段にものを置くことは絶対にしない」ということにしても、
片づけとは「最初から最後までひとりでやるもの」の私はそれをさわる気にはならない。

上に持って行ったところで、さてそれでは何処に置けば良いと言うのか。
(家内はそれは自分に聞けと言う。)



【続く】



もうすぐ2011年も終わり
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