ある疑問がふと浮かんだ

これは、人間の生、死について、今までとはまったく?別の視点からみるヒントになりそうな予感がしたので

少し考えてみようと思い、「想いの川」からとりあげてみることにした

 

きっかけは、TVで中国でのある大きな事件後30年の特集をしていたことからです

 

30年というと、歴史の範疇になるかはわからないけど

歴史を学ぶのは、その事件のことを忘れないことや、そのことをもっと深く考えてみることで

今後、同じあやまちをしないため・・・

 

ここで人がおこした事件ではなく

人そのものだとどういうことになるかと・・・

 

たとえば、37才の人が7年前におおきなダメージをうけたとして

その人自身は、そのことを忘れることはないと思うし

そのことを、冷静に考えてそこからなんらかの学びを得、その後の人生をより良いものに

してきていることだと思う

 

もし、その人(A)が、別の人(B)が同じようなダメージをうけたことを知った場合には

自分が学んだことからのアドバイスやなぐさめもできるかもしれない

 

逆に、別の人(B)さんが、37才の(A)さんにあったとして、Aさんに7年前におおきなダメージをうけたことを

知ったとしても、(B)さんは、7年前の(A)さんとむきあっているわけではなく

今の(A)さんにむきあうのがふつうかなあと思います

 

そこで、疑問がわきます

(A)さんが7年前にダメージをうけたことで、その時に亡くなっていたとして

(B)さんが、(A)さんの7回忌の法事に出席した時には

上記とはまったく違う対応をしているのが、一般的になっている気がします

 

現在の(A)さんと向き合うのではなく、生前の(A)さん、

つまり7年前または、それ以前の(A)さんと向き合っている人が多い気がします

 

もし(A)さんが生きていたら、今の(A)さんと向き合わずに、7年前の(A)さんと向き合う人がいたら

よほど特別な事情がある場合だと思う

 

なぜ、この違いがでてしまうのでしょう?

 

生きている時の(A)さんをおもいだすのが供養・・・

(A)さんとの縁で、いろんな人が集まれる・・・

 

これらは日本での大きめのいくつかの仏教の宗派の刷り込み?

 

また、今時点での(A)さんに向き合う場合でも

宗教や宗派によって

どういう状況になっているかの教えが異なるので

それぞれの教えを信じきっている人は

それぞれの教えから推測して向き合う・・・

 

そこまでそれぞれの教えを信じきっているわけではない人は

今、どういう状況なのかわからないから

今の(A)さんには向き合うことを避けて

生前の(A)さんのことを懐古する・・・

 

 

 

結局、(A)さんが生きている場合に(A)さんと向き合うような実感をもって

(A)さんがなくなっている場合でも、今この瞬間の(A)さんと向き合おうとする

そういう姿勢をもった人の話はめったにきかない

 

(A)さんが生きている場合には、先に書いたように

今現在の(A)さんではなく、7年前やそれ以前の(A)さんと向き合う人は

めったにいないでしょう

 

(A)さんの生と死によって真逆の向き合い方

 

 

 

私個人的には、その人が生きていようと、死んでいようと

またその人にどんな体験、経験があろうと

今、この瞬間のその人と向き合いたい

 

そのためだけではないが

「死」とは何か

「人生」とは何か

つまるところ「人間の存在目的は何か」

ということをおろそかにすることはできません

 

だからといって、ほとんどの宗教のように

「このことを信じなさい」というスタンスには

くみしません

 

表現がむつかしいですが

広い意味で「真実」は1つだと思います

 

そのことを探究することは、とても大切なことだと思います

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日々の瞑想の言葉より

 

 We  can accomplish  anything in the world   when  we  recognize the possibility of doing it  

 

初心に戻らせてもらったり、勇気をいただいたり、いろんな意味で深く熟考した言葉でした

 

まさに瞑想にぴったりの言葉でした

スピリチュアルハーモニーのための今日の瞑想用の言葉より

” Thought is the parent of the action "

   想いは行動の親である

 

ここでいう瞑想というのは、一般的なニュアンスの瞑想の意味とはすこし違い

あるもの、ある言葉を徹底的に考察し、最終的には、そのもの、その言葉の意味するもの

自体になりきることをさしています

 

そうした作業を通してみえてくるものは・・・・・・・

 

この続きの前に

 

イエスキリストと弟子との対話を紹介します

 

弟子の中の1人が、その当時の道徳的な規律のようなものを犯す行動をしたことで

弟子の1人が、このものを罰してください、とイエスに言いました

 

それに対して、イエスは

「お前達の中で、人に非難されるような行動をしなかったもの

かつ そうした行動をしなかったとしても、もし行動に移したら非難されるようなことを

思ったことがないものが、そのものを罰しなさい」

 

と答えられたそうです

 

それを聞いた弟子たちは誰もなにもいえなかった

その罪を現実に犯したもの以外のすべての弟子が

想いにおいても、そうしたことを思ったことがないものがいなかったから。

 

 

・・・・・・・・

このことばの背景には

想いとはなにか、

”想いは、勝手に思うだけのもの”

という一般的な認識とは違った

想いの生態を踏まえた背景があるのではないでしょうか

 

私が最初に、このことばに出会ったのはイエスの伝記的なものからではなく

形而上学

(哲学の最も中心的なものですべての学問の基礎だと私は理解していますが)

の基礎的な内容を紹介した本からでした

 

形而上学は、哲学の最も中心的なものと書きましたが

哲学は、今では文化系の最たるものという位置づけですが

形而上学は、今の科学が対象とするもの、しないものに限らず

すべてを考察の対象として、それらを徹底的に考察して

そのものになりきることで、そのすべてを理解する

科学的な手法です

 

(これは私の個人的な見解ですが)

だからこそ古代において

今でいう、いろいろな検査機器などがない時でも

多くのことの理解がされていたようにおもいます

 

イエスも、

ただ道徳的な意味合いで、想いにも気をつけなさいというようなことを伝えるために

弟子に答えられたのではなく

 

イエスは、はっきりと

想いの生態を理解し、それがどのような振る舞いをするかを理解しているからこそ

あのように答えられたのではないかと思います

 

想いの生態についてここで詳しくのべることは省きますが

私が考察した限りでは

場合によっては

例えば、AさんがBさんをなぐって傷害罪でつかまったとした場合を例にとると

CさんはDさんをなぐりたいほど、怒りを覚えたが、そこはぐっとがまんして

なぐらなかった

現代社会では、Cさんは大人としての対応という評価になり

Aさんは、罪に問われるわけですが

 

想いの生態から実はなにがおきているかをみてみると

Cさんのような人の想いが、Aさんに働きかけて

AさんがAさんの中で自分自身思った想いだけでは

なぐる行動にまでいかなかったところが

Cさんのような人たちの想いがAさんに働きかけて

結果として、AさんはBさんをなぐることになった

場合によっては、Cさんの想いがとても強かった場合には

Cさんの想いがAさんのような多くの方を行動に移させてしまうかもしれません

 

 

 

イエスは他のところで

「行動で罪を犯したものだけでなく

 同じようなことを思ったものも同罪である」

と言っています

 

(以下余談)

ちなみに私はキリスト教徒ではないし、

宗教の視点からいえば、無宗教ですが

最終的には、科学と宗教が一体となると思っています

これは科学が宗教的になるということではなく

今の宗教の大部分の教えが、

なぜそうなのか

そのメカニズム、生態、などがどういうことになっているから

そうなのかが、明らかにされてきていないので

すこしの真実と、そのことに気づいた宗教家が

そのすこしの真実をいかにわかりやすく

まわりに人に伝えられるかを考えた結果として

仏教用語を使えば(笑)多くの方便が

時間がたつにつれて、それが教典化してきたのでは

ないかと、私は思います

(余談おわり)

 

なので、イエスのことばは、宗教的な言葉ではなく

道徳的な言葉でもなく

今の科学者が科学的な見地から話したのと同じスタンスだと

形而上学徒としての私は思います

 

 

(上記の意味の)瞑想を通して、科学の進歩が後押しされ

科学的な根拠なき宗教的な教えがなくなり

科学と宗教がともに真実を探求する社会的なスタンスがやってくることを

まだまだ駆け出しの形而上学徒としては

『想って』います

 

ふと想ったことを言葉にすると長くなってしまいました(笑)

 

それだけ『想い』には密度が大きいということなのかもしれません