ボーダレストラベラーは、いまスイスを抜けてクロアチアからボスニアヘルツェゴビナへと移動しています💨

 

 

ポーランドの暗いイメージは無く、毎日こちらの地方は晴天に恵まれています(*´꒳`*)☀️

 

 

ですが!

まず、ポーランドの負の遺産〝アウシュビッツ〟について書き上げたいと思います。。

 

スイスの青い空と違って、ポーランドは曇天にカラスの大群。。

不気味さが広がっています。。

(修正加工は一切していません)

 

 

https://ameblo.jp/boderless-traveler-rino/entry-12868610730.html

 

アウシュヴィッツ強制収容所は、第一強制収容所第二強制収容所が、博物館として一般に公開されています。

(※第二強制収容所は、第一強制収容所と違い、かなり破壊されています)

 

1941年には、第一強制収容所から2キロ離れたところに、第二強制収容所の建設が始まりました。

それは、第一強制収容所より効率良くたくさんの人間を殺すためです。

 

 

では、後編は、その第二強制収容所について、ご紹介します。

 

 

ここが、第二強制収容所の正門です。

 

別名「死の門」。

まっすぐ収容所内に伸びる鉄道の引き込み線。

ただ、夢のような新天地に移住できると信じて全財産を持ち、ドイツ統治下の各地より貨車などで運ばれてきた人たちは、ここで降ろされ、「労働者」「人体実験の検体」、そして価値のない「女性、子供、老人」は着いてすぐに殺されました。

《例えば、人体実験の内容は、海水を飲む事の出来る身体を作る目的で行われた実験では、多くの人が海水だけを飲まされ続け亡くなりました。また、骨や肉の移植などを行う実験も、麻酔なしで日常的に行われていたそうです。》

到着後、ガス室送りにされずに収容された人たちも、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に何回も他の収容所への移送させられた結果、9割以上が命を落としたそうです。

 

 

ここに入ると目の前には広大な敷地が広がっています。

その広さ175ヘクタール(東京ドーム38個くらい)

ほとんどの建物は現存していません。

(降伏間際ソ連が来る前に証拠隠滅の為に爆破したからです)

なので、草原のようになっていますが、ここに300棟以上もの囚人棟がありました。

 

 

現在では残っている囚人棟は67棟だそうです。

 

 

収容所内に伸びる線路。。

 

まさに蒸気機関車が到着すると、線路の両脇に降ろされて、ナチスの将校が指を右・左と振り分けていきます。

あるものはガス室に直行か、もしくは収容所行きが決まるわけです。

 

 

 

まさにここが、死との分かれ目だったわけですね。。。。

 

 

貨車が通る線路は、

収容所の中に続いています。

 

 

見張り台も残っています。

 

 

その見張り台の前に、当時使われていた貨車が、1台だけ残っています。 

 

もともとこの貨車は家畜などを運ぶ車両です。

そこに何日もかけてヨーロッパ中からこの貨車にのせられてきた人々を、ドイツ将校の間では「荷が来た」と言っていました。

 

またユダヤ人たちは、何日も(ときには10日間)この貨車の中に、ぎゅうぎゅうに入れられていたので、アウシュヴィッツに着いたときにはもう亡くなっている人や、気が狂った状態の人もいたそうです。

 

 

その見張り台の前に、当時使われていた貨車が、1台だけ残っています。 

 

もともとこの貨車は家畜などを運ぶ車両です。

そこに何日もかけてヨーロッパ中からこの貨車にのせられてきた人々を、ドイツ将校の間では「荷が来た」と言っていました。

 

またユダヤ人たちは、何日も(ときには10日間)この貨車の中に、ぎゅうぎゅうに入れられていたので、アウシュヴィッツに着いたときにはもう亡くなっている人や、気が狂った状態の人もいたそうです。

 

 

破壊されたガス室跡です。。


第一強制収容所で復元されたガス室よりはるかに大きいガス室。

一度に1500人を処分したそうです。。

 

 

こちらのガス室の爆破跡は、証拠隠滅の為に爆破した後になります。

 

(ガス室の全貌については、前編に書いてあります)

 

 

破壊された焼却炉。

 

 

証拠を残さないように、急いで爆破していったんですね。。

 

 

生き残った労働者の部屋は、

もともと52頭の馬用に造られた小屋で、三段ベッドがいくつも並べられ、この中に1000人ほどが収容されていました。

 

 

実際は、1つに4人以上の人が詰め込められていたそうです。

とても真冬のマイナス20度を耐えられる作りではありません。

 

 

ここは、被収容者のお手洗いです。

不衛生以前の問題で、使える時間も決められていて毎日は使えなかったそうです。

《午前と午後の2回。この目隠しも何も無いトイレで一斉に使用する事を強制されていました。》

 

 

 

被収容者は平均2~3ヵ月しか生きられませんでした。

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ジプシー、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者などで、その違いは、着せられた服の色や、模様で見分けられるようにしていました。

《縦じまの囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」「ユダヤ」と見分けられるようにマークをつけていました》

ガス室送りを免れた被収容者は、男女問わず頭髪をすべて刈り、消毒、写真撮影、管理番号を刺青するなど入所にあたっての準備がありました。

 

このような写真を撮られる際は、さも幸せな生活を営んでるような顔つきをするよう強く言われたそうです。

 

 

見せしめのための集団絞首台。

 

 

こちらは、『死の壁』

建物と建物の間の行き当たりにあたる、レンガが積まれた壁の手前にはブロック塀がもう一枚重ねられています。

ここの前で、見せしめのように射殺された方(主に抵抗組織の人間)がたくさんいたそうです。

 

分別されてガス室に送られる「死」、飢餓による「死」、病気による「死」、過酷な労働による「死」、口封じのための「死」、見せしめのための「死」など、ありとあらゆる「死」であふれかえっていたわけです。

 

そしてこちらの、お手洗いやお部屋は、ドイツ兵のものです。

 

 

被収容者とは、全く違った生活を送っているのがわかります。

むしろここで勤めるドイツ兵は、前線に行くような危険もないので、毎日笑って恋愛をし、良い生活をしていたようです。

 

 

1945年1月27日にここが解放されたとき、7000人以上の人がいたそうです。

 

ほとんどが、極度の疲労や餓死寸前でした。

 

せっかく救出されたのに、、救出後に支給された物資を一度に食べて亡くなった方もいらっしゃったそうです。

 

 

日本語のツアーも事前に予約したらあるそうなので、事前予約して行った方が、もっとアウシュビッツについて学べると思います。

 

こんな残虐な歴史は2度と繰り返してはいけないですね。

 

 

おまけコーナー

梨乃ちゃんが食べたポーランド料理の、ご紹介を少し^ ^

 

 

ジュレクと呼ばれるライ麦を発酵して作る酸味のあるスープが有名です。

 

 

具材として、ゆで卵やソーセージが入っていて、パンを器にしています。

 

 

他にも骨つき肉で栄養をつけました(*'ω'*)

これで、梨乃ちゃん、元気をつけました💪

 

 

ボーダーレストラベラー次回は、物価の高いスイスをご紹介します(。・ω・。)

物価が、高すぎて、、滞在時間わずか半日(笑)

是非、お楽しみに〜(*⁰▿⁰*)💕