これまで積み重ねてきた経験や思い出、
そんな自分にしかない唯一の宝物が
記憶の中から消えていく。

そして、今目の前にあったこと
出会った人さえも、すぐに脳裏から薄れていく。

自分ではどうしようもできない。
それでも「失う」という自覚があるとしたら
なんと悲しくて、切なくて、やりきれないだろう。


年老いた祖母が私の前で
何度も名前を繰り返し呼んだ。

ノートに書いて見せた私の名前に幾度も幾度も目を落とし、
そのたびに何度も自分に言い聞かせていた。

思い出せないことがあると、とても悲しそうにくやしそうに
眉をひそめて必死で思い出そうとする。

「もういいんだよ、思い出さなくてもいいんだから」となだめたときの
少し寂しそうな笑顔が忘れられない。
彼女は思い出したかったのだ、それがどんなにかすれていても、たとえ間違いであっても。

失われていく記憶を
「手のひらから落ちていく砂を、必死で握り締めているようだ」と
たとえた人がいたけれど、まさにそうだと痛感した。



それでも、彼女がふと思い出した記憶を書きとめていたノートには
2年前の私の結婚式のことが記してあった。自分は出席できなかったのにもかかわらず。
それを何度も読み返してくれていた祖母の愛情に、心から感謝せずにはいられなかった。

とても切ないけれど、祖母は自分の姿を通して私たちに生きていくことの
本当の意味を教えてくれているのだと思う。真正面から。

だからせめて、会いにいくときには目をそらさずしっかり向き合おうと思う。

覚えられない、忘れてしまうのが怖いというのなら
何度でも自分から名乗って、何度でも自分の名前を書いて、
何度でも呼んでもらおう。

こぼれた記憶は戻らないかもしれないけれど、
今はなによりも、一緒にいることが大事なんだよ、と伝えたいと思う。