まだずいぶんと長いこと放置していました。
ええと、まずは親父は亡くなりました。
再発を繰り返し、今年の3月15日に眠ったまま息を引き取りました。58歳でした。
昨年8月にボクらは結婚したのですが、家族の顔合わせの時、親父がセッティングしてくれたのにもかかわらず再発がわかり、宮崎県は都城市の病院に入院をしました。
そこでサイバーナイフの治療をし、治療が終わるとその先生から
「他の病院の患者さんをずっと入院させておくのはナンセンスだ」
と言われて父はほとんど動く体力もないのに追い出され、またもや鹿児島の市立病院に秋口まで入院をしていました。
その後、一番下の妹がしばらく鹿児島にいたいということで、親父の面倒見がてら一緒に住んでいました。
そして秋も過ぎ冬になるに連れて、父の左顎が腫れあがっていき、12月に再発がまた確認されました。
その時ボクは公演中でした。
上の妹からの電話があり、
「お父さん、また再発したんだって。もう手の打ちようがないって。もう半年も持たないって。」
と言われました。
ボクは外にもかかわらず泣いてしまいました。
妹も泣いていました。
公演が終わり慌てて帰ってみると、愕然としました。
げっそりと痩せこけた父がいました。80㎏あった体重はもう半分くらいしかなかったようです。
目も半分開いてなく、フラフラと職場から帰宅してきました。
ボクは「なんで働いてるの?!働ける状況じゃないでしょ!?今すぐ入院しよう。」と言いました。
しかし父は仕事納めまで働くと言って聞かず、しかも忘年会まで出ると言って聞きませんでした。
今思えば父はもう死を覚悟していたのだと思います。
もうどんなに延命しても職場に戻ることができないのであれば自分でも区切りのつく仕事納めまではと思ったのでしょう。
主治医の先生にも父とボクは面談で余命3ヶ月から4ヶ月でしょうと言われました。
ボクは何もできなく東京に戻りました。
帰ってからはセカンドオピニオンに東京医科歯科大学に行ったり、家から近く通える距離にある緩和ケアの病院と免疫療法の病院を毎日探しました。
父は鹿児島で治療を望みましたが、市立病院の先生にも西洋医学の限界だと言われ、緩和ケアと免疫療法を進められました。
その結果東京で探す方が良いのではとの結論にいたり、ついにこっちに来てくれる意思を示してくれました。
しかし終末医療ともいわれる緩和ケアを父は拒み続けました。
ですが、免疫療法を併用する方法でと提案したところやっと緩和ケア病棟に入ることを受け入れてくれました。
そしてこれは探している最中に知ったことですが、免疫療法と緩和ケアを両方受けられる病院は東京にありませんでした。
愕然としました。
埼玉でも探しましたが、まず病院自体が少なかったです。
しかし、なんとか両方受けられる可能性のある病院を見つけ、後は予約待ちまで行きました。
ボクがこっちで病院を探している間、父は鹿児島の緩和ケア病棟に入院し、その晩ボクに電話がありました。
「ごはんがね、全部ペーストになっててね、食べられるのよ。目をつむって食べるとねその食べ物の味がするのよ。」
父は泣いていました。
しかし、病状は悪化の一途を辿り、癌が腫れあがった為、何度も呼吸困難を起こし、意識を失うようになりました。
しまいには気道を塞いでしまったため喉を切開しました。
そして声を失いました。
切開した翌日ボクは先生に、次あるとしたら出血の可能性が高いでしょう。そしたら、もう最後だと思ってください。
その話を聞いた後、父は病室で血を噴き出しました。
壁まで血が飛び散り、父は出血によるショック状態になり、生汗を掻いているのですが体温がどんどん低くなって行きました。
目は白目を剥き鼻や口からも血が吹き出ていました。
ボクラは必死に父の手を握り、呼びかけ続けました。
先生が「良かったね、最後に息子さん達といれて!」と言ったところ父は目を見開き、「勝手に殺すな!」と目で伝えたようでした。
奇跡と言うかなんなのか父はなんとかそこから持ち直しました。
戦場だった病室が落ち着き、父も意識が戻ってきた矢先に父は時計を見て、ボードに「銀行に行け!」と書きました。
預金をおろしておいて万が一に備えたかったのでしょう。
父はいつでもボクらのことを考えていました。
ボクは雨の中銀行に走りました。
でも、父本人じゃないのでやはりおろせませんでした。
むしろ不審者として見られました。
本人を連れてきてくださいと窓口の方に言われ、父が今は動けないことを伝えました。
「でしたら今日はもう3時ですので後日こちらから伺います。」
と言われました。
ですが先程の惨状を思うと、一刻も早くおろさねば父の意思に間に合わないと思いました。
ボクは父から頼まれて父の意思でおろしにきたんです。病院もすぐ近くです。と伝えました。
ボクの必死の形相を信じてくれたのか、お偉いさん方が2人ボクと一緒に父の病室についてきてくれ、父と筆談をしました。3時を過ぎていました。
そしておろすことができました。
使わないに越したことがないお金でしたが、父もホッとしたようでした。
しかし、もう酸素を離せない状態になり、埼玉への転院は実質無理になりました。
そしてよりによって3つの病院の予約待ちが終わり、面談の予定の週のことでした。
それは余命宣告されてからまだ2ヶ月も経ってない、2月の頭のことでした。
