ただ今キャンペーンの真っ最中ですね


「真理」とデカいテーマを掲げていながら、内容は「聖書にはこう答えています」と説明するだけで、それが何故「真理」なのかとか、そ~ゆ~説明は一切ありません


これを読んで「真理を見つけた~!!」と言うような人が居るとは思えないのは私だけでしょうか・・・?


さて、今回は、このパンフレットの内容に突っ込んでもいいんだけど、それよりも気になったのが



「翻訳」



です


ここ最近、ものみの塔の研究記事なんかでも誤訳がちらほら目に付くようになってきたと思ってましたが(研究記事以外は、英語の雑誌はあまり読んでないのでわからんです)このパンフレットの翻訳も微妙なんですよ


誤訳とは言わないまでも、かなりの悪訳に感じます


ここ最近の協会の英語→日本語翻訳の訳し方は、大胆な意訳が多くなり、英語と見比べるとニュアンスがかなり違うように感じるところも在るほどで、中には日本人の背景を考慮してるのかな?と思える部分も無くはないものの、全体的に質は下がってるように思えますね


ということで、表紙のページだけですが、ちょっと英語と見比べてみましょう~


Would You Like to Know

the Truth?


真理

知りたいと思われませんか


ここはいいでしょう


THE truth about what? About some of the most important questions that humans have ever asked. Perhaps you have wondered about such questions as these:


何に関する真理ですか。多くの人がふと疑問に思う大事な点に関する真理です。あなたも,次のように考えたことがおありかもしれません。


さて、「humans have ever asked」という部分ですが、これは、「多くの人が尋ねたことがある」「人類が常に尋ね続けてきた」重要な質問であって、ふと疑問に思う程度のものではないでしょう

というか、ふと疑問に思っただけの事なら、それほど大事な点では無い

後半の文も随分と簡単にしてしまってる気がするが、とりあえず次に進もう


 Does God really care about us?


 神は気遣ってくださっているか


軽い・・・

最後の「私たち」を省略するのはいいとしても、「really」を省略する理由が全くわかりません


 Will war and suffering ever end?


 戦争や苦しみはなくなるか



これは、いいか


 What happens to us when we die?


 人は死ぬとどうなるか


う~ん、「us」とか「we」ってあるのに、なんで他人事みたいにしちゃうんでしょうか・・・?


 Is there any hope for the dead?


 死んだ人に希望はあるか


ここはOKかな


 How can I pray and be heard by God?


 どんな祈りを神は聞いてくださるか


これもちょっと微妙だけど、まぁいっか・・・


 How can I find happiness in life?


 どうしたら幸せに暮らせるか


「幸せな暮らし」を手に入れることと、生活あるいは人生の中に「幸せ」を見つけようとするのは全く違うと思う

原文が示しているのは後者のような積極的な見方だと思うのだが、日本語版は、そうした魅力的な響きを消してしまっている


さて、表紙のページにはあと2段落ほど文章が載ってるけど、けっこうこれだけで長くなってしまったので、いちどここで終わりにしとこうかな


もし要望があれば続きものせます


ほんのちょっと見比べただけでも、こんだけ意味というかニュアンスが変わってしまってる

特に教理的に問題となるもんじゃないが、何十年も翻訳を行ってきている会社の仕事としてはお粗末ですよね


やはり三浦氏の排斥が大きな原因かしら・・・


この組織の数少ない良さの一つかもしれない「一致した教育」も少しずつかげりが見えてきた気がします

現在書籍研究で研究中の「エホバの日を思いに留めて生きる」の本の中で面白いモノを見つけた


真面目に集会に行っている方々は、先週の書籍研究を思い返してください


先週の範囲の第五章、19節です


19 神のもとに帰ることには何が関係していますか。ホセアは,神を「知る」だけでなく『エホバを知ろうとして追求する』ことの必要性を指摘しています。ホセア 6章3節に関して,現代の参考文献はこう述べています。「神について知ることと神を知ることには著しい相違がある。それは,恋についての本を読むことと恋をすることの相違に似ている」。エホバについての表面的な知識だけでは不十分です。自分にとってエホバが現実の存在となり,気兼ねなく近づける信頼できる友とならなければならないのです。(エレミヤ 3:4)そのような関係になれば,自分がある行動をした時にエホバがどうお感じになるかが分かります。神に是認される崇拝を追い求めるうえで,それは大きな助けとなります。


さて、皆さんの群れではこの後半に出てくるエレミヤ3:4からの注解はありましたか?


このエレミヤ3:4はこんな聖句です


あなたはこの時からわたしに呼ばわったのか,『わたしの父よ,あなたはわたしの若い時の腹心の友です!


聖句が参照されている箇所の前の本文からすると、エホバを「気兼ねなく近づける信頼できる友」とした良い例のように見えます


でも真面目に予習された方は、ちょっと戸惑ったハズです!


戸惑わなかった人、他の人の注解を聞いて、何にも不思議に思わなかった人



予習の仕方を見直しましょう!!


まず聖句の意味を考えるときには、文脈を考慮して、誰がどんな状況で語った言葉なのか、正しく理解するように勧められています


では文脈を調べるために3:2~5節を一緒に読んでみましょう~


2 「踏みならされた道にあなたの目を上げて見よ。あなたが犯されなかった場所はどこにあるのか。あなたは,荒野のアラビア人のように,彼らのために道のそばに座った。あなたは自分の売春の行為と悪とによって地を汚しつづける。3 それゆえに,豊潤な雨はとどめられており,春の雨さえ生じなかった。そして,売春をする妻の額があなたのものとなった。あなたは恥辱を感じることもなかった。4 あなたはこの時からわたしに呼ばわったのか,『わたしの父よ,あなたはわたしの若い時の腹心の友です! 5 定めのない時に至るまで憤慨することが,また永久に[何かを]見つづけることがあってよいでしょうか』と。見よ,あなたは語り,次いで悪いことを行ない,[それを]行ない通した」。


この人はアラビア人のような人といわれてます(地ベタリアンだから・・・?)

自分の売春の行為と悪によって地を汚し続けています

神は憤慨しつづけたり、罪を見つづけるはずがないと考えて悪いことを行い通しちゃいます


神を友と呼びながら、実は神をナメてるわけです



つまり、その・・・



何が言いたいかというと・・・・



どう考えても、ここで参照されるべき聖句には思えないんですよw



もう一度、この箇所の本文を見てみます


自分にとってエホバが現実の存在となり,気兼ねなく近づける信頼できる友とならなければならないのです。(エレミヤ 3:4←実は悪い例)


です


そこに実際には友となれてないヤツが勘違いして「腹心の友です!!」とか言ってる部分だけ参照してるんですよ


これがもし


自分にとってエホバが現実の存在となり,気兼ねなく近づける信頼できる友とならなければならないのです。そのような関係になれば,自分がある行動をした時にエホバがどうお感じになるかが分かります。(エレミヤ 3:4,5)


こうやって次の文まで含めて、かつ5節まで一緒に参照されてたら、まだ反面教師として載せてるのかな?と思えます



つまり、どう考えてもこの書籍を書いた人は、ココの部分を書くにあたって




「なんか丁度良い聖句ないかライブラリーで検索してみよ~っと」

って感じで、たまたま見つけたこの聖句を、文脈も考えずに使っちゃった



ようにしか思えません


で、




検閲してる統治体も気付かなかった




わけですよね?




さすがにこれは、頭を悩ました人が多いんじゃないかと、何人かに聞いてみたんですが、意外と気付いてる人が居なくて、どの群れでもスルーされてるっぽいので、どこか面白い反応があった群れの情報お待ちしてます~

ものみの塔誌2008年8月15日号の第一研究記事

「エホバは忠節な者たちを捨てたりはされない」

15節の本文はこうなっている


考えてみてください。エホバは,心の正直な人たちが比ゆ的な意味で,邪悪な世から出て,ご自分の作られた霊的パラダイスに入ることを可能にされたのです。(コリ二12:1-4)わたしたちは感謝にあふれた心をもって,「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷」のもとにとどまります。キリストはこの奴隷を任命して,「自分のすべての持ち物をつかさどらせ(て)」おられます。(マタ24:45-47)ですから,個人的には奴隷級の見解が十分に理解できないとしても,その見解を退けたり,サタンの世に戻ったりするのは正しいことではありません。むしろわたしたちは,忠節であるがゆえに,謙遜な態度を示し,エホバが物事を明らかにされるのを待ちます。


要約すると


「良い環境(霊的パラダイス)に導いてくれたことの感謝ゆえに、多少意味フでも疑わないであげる」


ということらしいです


もう教理への確信とかは二の次ですかね


でもって、会衆内で居心地が悪い人にとっては、もう留まる理由はないってことですよね?


本来なら、JWの教理の基礎の部分に目を向けて、

枝葉が多少わかんなくても、会衆などの周りの環境がどうであれ、

エホバに信頼を置くよ~に・・・・ってなるんじゃないんでしょうか?


あ・・・


「教理の正しさに目を向けようとしたら、逆にアラに気づいた人が続出しちゃったもんねw」


実際に教理と聖書を見比べて、どこまでが聖書の裏づけのある教えなのか?

どの程度不確定なことを真理と教えているのか?

組織の保身のための教義がどれほどあるのか?


こうしたことを自分で調べた上で

それでも「エホバを待つ」という結論に達する人は、尊敬に値します

そいういう人は大抵、組織の間違いに躓いて離れた人を蔑んだりはしないから

その人たちが十分に苦しんだうえで結論をくだしたであろうことを知っているから


でも、組織を絶対だと信じて疑わない人は、自分の信じる組織の正しさを証明する証拠さえ探そうとしないで、疑う人を切り捨てる

彼らが「背教者」として忌み嫌う人間が、どれだけ純粋で聖書と神を愛し、それゆえに会衆内で行われていることに嘆息していたかを知らない



霊的に成長するのもいいですが

人間的にもしっかり成長してください