少し遅れましたが、掲題の社説が1月21日Chunichi-Webに掲載されています。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20070121/col_____sha_____001.shtml
私は大学でビジネス英語を教えていますが、辞書を携行することを強く薦めています。言葉と言うのは英語も日本語も辞書を引いて覚えるのは同じで、辞書を引くことを省くと正確な意味も表現も覚えられません。英語を小学生の内に教えると日本語が駄目になると言う人が多いですが、私はそうは思いません。問題なのは、教え方と勉強の仕方だと思います。正しい発音の仕方や学び方を最初に教えなければ、同じ道を行ったり来たりで時間と費用の浪費になります。
従って、そう言った教育体制が整ってない状況で、小学校の英語教育を義務化することは教育を更に混乱すると考えられ、拙速な導入には反対です。今、私が英語を教えていて強く感じるのは、中学・高校の英語教育法が英語の聴けない・しゃべれない生徒を多く作っていると言うことです。これだけ、視聴覚教育の教材が発達しているのに、とても残念なことです。
この社説の後半に「安倍晋三首相にも注文があります。イノベーション(技術革新)だのインフラ(社会基盤)だのカタカナ語が多すぎます。『戦後レジーム(体制)からの脱却』など力んだ言い方ではなく、磨き抜かれた言葉が聞きたいのです。『美しい言葉』のない『美しい国』はあり得ません。」とあります。私も賛成です。多分、首相は前首相と同様に英語はお得意でないのでしょう。
「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」(詩人の茨木の言葉です。)
一般的に、私達の感性が鈍化していることが、言葉が上手くならない大きな理由の一つかもしれませんね。
山口実