昨日の大学の講義で、先日の黒人霊歌レクチャー&コンサートのお話をしました。あの歌の素晴らしさは口では表現出来ないので、主にレクチャーで聞いた歴史などに就いてお話しました。

 「実践ビジネス英語」の講義でなぜこのことを取り上げたかと言うと「相手の国の歴史や文化とそれに基づく精神的なものを理解しなければ、ビジネスも上手く進めることが出来ない」ことを私自身が実際のビジネスを通して学んで来たからです。
  また、相手の歴史や文化を学ぶ前に、自分の国の歴史や文化を学ばなければないことも、20才の時にイスラエル・ヨーロッパで1年弱暮らして気付きました。

 つまり、私は「自分の国の歴史や文化を正しく認識し、誇りを持つことはビジネス面でも不可欠だ」と確信しているのです。しかし、それは、決して自分の都合の良いように歴史を書き換えたり、他の国の文化を蔑んだり、他の国の人々の誇りを傷つけたり、することではありません。私は、「自分の国の歴史や文化に誇りを持つ」と言うことは、同時に「他の国々人々の歴史や文化に対する誇りに敬意を表することだ」と考えています。そして、それは自分の国際社会でのIdentityとも言えるもので、排他的な国家権力に強制される「愛国心」とは全く違うものだと考えます。

 講義の中で、西アフリカから何千万人もの人々が拉致され、一部は航海途上で亡くなり、捨てられた末、残った人々は米国南部の農場で重労働を強いられたと言うAfro-Americanの歴史、また南北戦争やその後の公民権運動に就いて語りました。そして、学生諸君が意外なほどそれらのことに就いて教えられていないことに気がつきました。(今騒がれている問題の本質は、履修単位数よりもここらにあるのではないかと考えました。)
 小川先生のレクチャーで学んだ奴隷制の苦しみの中で舞踏音楽がキリスト教音楽やヨーロッパ音楽と融合し、黒人霊歌を生み、後のゴスペルやジャズやR&Bへと繋がってきたこと、また「天国への神の導きを歌う黒人霊歌が、本当は奴隷制のない自由な米国北部への解放を祈る歌ではなかったのか」と言う解釈に就いても話しました。

 話しながら、同様の問題が現代の社会でも存在しているのだとしみじみ感じました。つまり黒人霊歌の中で歌われているヨルダン川が、本当は米国の南部と北部に横たわるDeep River(オハイオ河)であるなら、北朝鮮国境に横たわる河やパレスチナとイスラエルの間に存在する壁やヨルダン川、イラクのチグリス・ユーフラテス河も難民や拉致された人々にとって今も存在するDeep Riverなのだと考えました。(16年前バグダッドで拉致され、水力発電所に強制収容された私にとってもユーフラテス河は、本当に深い河でした。)

 有能なAfro-Americanの人々は、過酷な奴隷制度を耐えて素晴らしい音楽を生み出しましたが、現代の難民の人々には音楽もなく、飢えと憎しみしか生まれて来ないではないかと危惧します。

 現代の状況は、歴史から学ばない国際社会の責任、つまり私達一人一人の問題であると再認識し、反省しました。


山口実