最近「対立を煽るようなやり方は止めた方が良い」と説くと、「一般の国民はそうは考ええいない。」とか「それは一般的な言葉ではない。」と言う反論が出てくる。最近首相の靖国神社問題や中国・韓国問題などついて批判的な意見を述べると若い人からそう言った意見が出てくる。

 では、この「一般」の意味が何なのかと言うとその「定義」が余りはっきりしない。英語で言うと"normal”とか”general”とか言う言葉が当てはまるのだろうが、normalな状況は時によって変化している。今の政府首脳やマスメディアの言動がもし”normal”な人々に”normal”だと考えられていたとしても、後で歴史的に振り返ってみるととても”normal”とは言えないことかもしれないし、外の人々にとってはとても異常な状況かも知れない。

 「一般的な考えに従うこと」はとても「民主主義」的に思われるかも知れないが、それが謝った情報に基づくものであったり、理想やVisionのないものであったりすれば、良く考えるとそれはとても異常な”subnormal”状況かもしれない。

 ところで、私は”abnormal”と言う言葉を悪い意味で使うことが好きではない。この言葉の”ab”と言う接頭語(prefix)”above”と言う意味を含んでいるので、”above normal”と考えられるからだ。つまり、私は”normal”な状況を越えることがあっても良いのではないかと思うので、”normal”でない悪い状況は”subnormal”(subと言う言葉は”submarine”「海を潜る潜水艦)とか”subside"(沈下する)とか”subsidiary”(子会社)とかのように、「下」言う意味を持っていると表現している。

 私は小さい頃良く変わっているとか”abnormal”とか言われたが、その度に「それを言うなら”unique”(唯一無二の)でしょう。」と言い返していましたが、最近は”abnormal”と言われると「そうそう、normalな考えを越えていますからね。」と言うことにしています。

 結局何が言いたいかと言うと、最近の小中学校で「一般的」となっている「皆と一緒」「出来るだけ目立たないこと」が良いことではなく、出来るだけ個性を生かした”unique”な人間であり続けることが人を進歩させるのではないかと言うことです。特に子ども達には「一般」に埋没することなく、「一般」を越える"unique"な存在であって欲しいと考えます。

 そして私も皆さんと共に"unique"な存在であり続けたいと考えています。


山口実

押入れから顔を出すりすちゃん
押入れから顔をだすりすちゃん