先日の芦田愛菜さんのインタビューを受けて感銘を受けたひらめき電球

 

 

 

 

たまたま、テレビで映画の完成報告イベントが行われ、その際に

司会者からの質問を受けて、答えた内容は以下のとおり。

 

 

 

 

投げかけられた質問は・・・

【信じるということ】

 

 

 

 

 

(原文ママ)

『その人のことを信じようと思います』ってけっこう使うと思うんですけど、

どういう意味なんだろうって考えたときに、

“その人自身”を信じているのではなくて、自分が理想とする“その人の像”に

期待してしまっていることなのかなと感じて。

 

だからこそ人は『裏切られた』とか『期待してたのに』とか言うけれど、

別にそれはその人が裏切ったとかいうわけではなくて、

その人の見えなかった部分が見えただけであって。

見えなかった部分が見えたときに、『それもその人なんだ』と受け止められる

揺るがない自分がいるというのが、信じられることなのかなって思ったんですけど。

 

でも揺るがない自分の軸を持つことってすごく難しい。

だからこそ人は“信じる”って口に出して、不安な自分がいるからこそ、

成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかと思いました。

(ここまで)

 

 

 

 

このメッセージを聞いて、信じることの本当の意味を知った気がした。

スーッと自分の中に入ってきたから、このことを言っているんだなって誰もが納得しただろう。

 

 

 

 

相手への発信が、なんと自分を守る言葉へと変容していたのかと思うと

とても奥深さを感じる。

 

 

 

 

信頼していない、信じていない、ってあまり使われない。

信じている(期待値が高い)からこそ、自分以外の人に対して、自分が想像していた

対応がなされていないと、『信じられなーい』とか、いうのかもしれない。

 

 

 

 

その対応がなされていない、つまり、それは私がこれまで自分以外の人に対して

見えなかった部分であって、それが見えたことで、それを自分の中で受け止められる軸が

あるのか、ということに繋がるということなのだ。(←実に、おもしろい目

よく『信じるか信じないかはあなた次第』っていうけど、これも上記の意味が

含まれているのかと思うと、言葉の重みを感じる。

 

 

 

 

また、因果応報とか、情けは人の為ならずとか諺があるけれど、(←ちょっと、意味が違いますが)

結果的に、自分に戻ってくるということであるというのだ。

 

 

 

 

 

信じることも、信じないことも、森羅万象のすべてに対して自分を置く。

だから、私の軸をしっかりと持って生きていきたいと思う。

 

 

 

 

 

たくさんのことを教えてくれた芦田愛菜さんに感謝をささげたい。