美亜は祈るように時計を見つめていた。
このままではとても間に合わない。
美亜は時間の管理がどうも苦手なのだ。何より生粋の方向音痴。それは自分でも十分理解している。
だから、今日だけはと、余裕をもって出発予定時刻より一時間も前に家を出たし、恋人の西井戸に頼んで車まで出してもらった。
なのに、事故にあってしまうなんて。
自分ほど間の悪い人間は存在するだろうか。
前のタクシーが急停車したことによっておこった事故だった。
つまり、自分たちは被害者なのだ。だから、すぐに解放されるだろうと思ったのに…、それが間違いだった。
待たされる、解放されない。おまけに約束の相手に何度連絡を入れても話し中…。
思わずケータイを放り投げてしまった。
絶望だ。
世界は私を見放したのだ。
美亜の目に涙が溢れてくる。
「美亜、ちょっと待ってな。俺、警察の人と、もっかい話してくるから」
西井戸がいつもより優しく声をかけてくれる。
ろくに返事もできず、こくこくとうなづいた。
バタン、と大きく車の扉が閉じられる。
たくましい、西井戸の背中。すべてから逃げ出したい今の現状をには、その背中は頼もしすぎた。
…もう、夢なんて捨ててしまおうか。
そして、普通の奥さんになってしまおうか。
あの、温かな背中に、守られる人生を送ろうか。
…なんて。
そんなことは無理なのはわかっている。
西井戸はそんな優しい男ではない。
美亜がうまく迫って、何とか結婚にこぎつけたとしても、あの荒くれ者は良い旦那様になってくれるとは到底思えなかった。
なんで一緒にいるんだろう。
自分にとって、あの男はなんなのだろう。
運転手?ボディーガード?牽制?体裁?保険?
そんな単語を並べても、胸の奥のほうがキュウとなる気持ちをくれる人の尊さを損なわせることはできなかった。
なんだかんだ言って、美亜は池井戸のことが好きだった。
なんだか、よくわからないけど、とても好きだった。
突然に車の扉が開かれた。西井戸が明るい瞳で美亜を見つめ、早口でまくしたてる。
「俺だけ残ればいいってさ。こっから駅までの道、わかるか?」
突然のことで頭がパニックになる。
嬉しいのと、ここがどこかさえ怪しいのとで、くちをパクパクさせることしかできなかった。
「タクシー捕まればいいんだけどな…」
西井戸が心底困った顔をする。美亜はいたたまれなくなって叫んだ。
「大丈夫!なんとかする!!」
美亜はするりと車を飛び出し、西井戸に礼を言った。
車は大分へこんでいる。
結局、事故の理由もわからない。
そんな状態で西井戸を一人残してしまうことも申し訳なかった。
絶対、成功させなければ。
そう思って、勢いよく走りだす。
西井戸が何事かわあわあと叫んだ。
あんなにも大きな声で応援してくれている。
美亜は走りながら振り向いて叫んだ。
「もう迷わないから。ありがとう!!」
きっと、大丈夫。私はやれる。
美亜の足取りは軽かった。
美亜を見送っていた西井戸は、手元のケータイを見つめてつぶやいた。
「アイツ、本当にいらないのか?これ」
首をかしげる西井戸に警官が声をかける。
西井戸はだるそうにそれに返事をしながら、美亜のケータイを車に放り入れた。
扉が締められ、ケータイは助手席の真ん中に転がった。
そして、軽快な音楽を奏でながら、発光する。
ディスプレイには南部恵理子デザイン事務所の文字。
美亜がその文字を確認するのは、何もかもが終わってからのことだった。
