『私が歩いて来た時代』
私が小学校の頃。私の周りには、大学生が居た。何故なら家が下宿屋をして居たからだが、それで私は8歳ぐらいから、大学生のお兄ちやんの部屋に良く遊びに行く様に成った。彼らの持って居るラジカセで音楽を聴かせて貰いにだ。その大学生たちはゴーゴー喫茶に良く行った。当時、巷ではグループサウンズが流行っており、ゴーゴーが踊れるゴーゴー喫茶があった。エレキバンドによる生演奏やロックのLPレコードを大音響で聴き、フロア中央でゴーゴーダンスを踊れる。いわゆる音楽系喫茶のひとつだ。 ストロボ照明や蛍光塗料による内装などサイケデリックな演出とお立ち台上で踊るミニ・スカートにブーツ姿のゴーゴーガールが特徴で、後のディスコの前身とも言えた。
私が小学生当時。1960年代も終わり頃。日本で一番有名なロックバンドは「ビートルズ」と「モンキーズ」だった。「ビートルズ」はラジオで良く曲が掛かって居たし。「モンキーズ」はTBSテレビで「ザ・モンキーズ・ショー」と言う番組が放映されて有名に成ったのだ。1960年代半ばのアメリカのミュージック・シーンは、ビートルズをはじめとするイギリス勢に押されて、アメリカの業界関係者の中では新しいスターを発掘する事が急務と成って居た。そこでコロムビア映画とRCAレコード、プロモーション会社のスクリーン・ジェイムスの3社が共同して、テレビを通じて新しいスターを作り上げよう、と言う一大企画を立ち上げた。そしてオーディションで集められた4人の無名の新人を『モンキーズ』と言うアイドルグループにし、彼らを売り出す為のテレビ番組として制作されたのが『ザ・モンキーズ・ショー』だった。
ドラマなのか、コントなのか、音楽番組なのかと言う、テレビ番組のカテゴリーを越えた様な内容は画期的で、ストーリーを楽しむと言うより「モンキーズって面白いよね」「モンキーズの歌っていいよね」的な、モンキーズを楽しんで貰えればOK、と言う作りに成って居たのだ。まだ誰も知らない4人の活躍は新鮮で、大きな驚きと関心を世間にもたらしたのだ。テレビと言う最も身近で、当時としては絶対的だった媒体を通じてのプロモーションは功を奏し、『ザ・モンキーズ・ショー』とモンキーズの人気は爆発的になり、テレビも歌も大ヒットと成って行った。モンキーズのデビュー曲もデビューアルバムもヒットチャートで1位を獲得し、彼らはミリオンセラーを連発する大スターに成ったのだった。
The Monkees - Daydream Believer (Official Music Video)
60年代、いやロックン・ロールの歴史を語るときに絶対に避けられない存在と言えばビートルズである。どんなに音楽にうとくても、この名前を知らないと言う人はまず居ない。このビートルズがレコード・デビューした1962年から1970年に解散するまで、彼等は大多数の若者たちに支持され、同時代に居た多くのミュージシャン達にも影響を与え、また、与えられながら大きな功績を残す事になる。ビートルズはデビューしたての頃はエルビス・プレスリーやチャック・ベリーと言った、50年代のロックン・ロールからの強い影響が見て取れるバンドであり、その熱狂的な支持のされ方はエルビス・プレスリーに代わるものであった。そんなデビュー当時の彼等のトレードマークと言えば、あのマッシュルームカットであり、当時は「男のくせに長髪にして女みたいに前髪を垂らして居る」と言われ、エルビス・プレスリーの時代からあった「ロック=不良」というイメージに、新たに「ロック=長髪」と言うイメージを作り上げた。そんな彼等を真似た若者達が不良と呼ばれて親にしかめっ面されたのは想像に難くない。ビートルズの人気は留まる事を知らないかの様にどんどん上がる一方で、ついに彼等は出身地であるイギリスからロック生誕の国、アメリカへと上陸する。
1964年、ビートルズはアメリカでも熱狂的に迎えられ、アメリカの人気音楽番組「エド・サリヴァン・ショー」出演を果たす。その時の放送はなんと記録やぶりの7300万人が観たと言われて居る。そしてビートルズにつづけと、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスなどなど、イギリスのトップクラスのバンドが次々にアメリカへと進出して行き、ことごとく成功を手に入れるのであった。これを、ロックの世界では「ブリティッシュ・インベーション(英国の侵略)と言う。この様にビートルズを筆頭にしたイギリス勢が成功した要因の一つは、彼等が自ら作詞作曲し、唄い、楽器を演奏した、シンガー・ソングライターだったと言う事が挙げられる。今でこそミュージシャンが自作自演する事などは当たり前だが、当時はバンドのメンバー以外に作詞作曲をする人が居て、その人達が完成させた曲をバンドが演奏すると言った形が多かったのだ。
この状況に危機感を抱いたのは他でもないアメリカのミュージシャン達だ。特に、それまでアメリカ中の女の子のハートをさらって居たビーチボーイズに取って、ビートルズの出現は脅威だった。そんなビーチボーイズをあざ笑うかのように65年、ビートルズは傑作「ラバー・ソウル」を発表。この「ラバー・ソウル」は、彼らの音楽に染み込んで居た、ポップで覚え易い、メロディー主体のカントリー・ウェスタンやポップスからの影響を、ある意味で払拭し、より芸術性を重視した内容で、全編に渡って落ち着いた雰囲気を持った、ちょっと大人の、情緒と詩情溢れるアルバムだった。このビートルズの「脱皮」に衝撃を受けたビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンはお気に入りのスタジオ・ミュージシャンと二人だけで何カ月もスタジオに篭って仕舞う。(バンドメンバーは閉め出しを食らった) ルックス、キャラクター、音楽性、演奏、実験精神、どれを取っても本物の才能の塊であるビートルズに対抗するにはどうすればいいのか・・・。自分たちはずっとサーフィン・ロックだけやって居ていいのか・・・???
スタジオに引き籠ったブライアンの、まさに魂を削るような曲作りがスタートする。そうして翌年の66年、ついに新生ビーチボーイズのアルバム「ペットサウンズ」が完成する。他のメンバーはコーラスとボーカルのみの参加なので実質的にはブライアンのソロ作品だが、美しいハーモニーとメロディは紛れもなくビーチボーイズだった。この作品は商業的にも成功し、批評家からも絶賛され、イギリス勢に押され気味だったアメリカン・バンドの底力を見せつけた。これに仰天したのが他でもない、ポール・マッカートニーである。ビーチボーイズの「ペットサウンズ」に衝撃を受けたビートルズは、前作「ラバー・ソウル」とは打って変わった実験的なアルバム、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハ―ツ・クラブ・バンド」を作ることになる....。この様に、英米両国のバンドは互いに刺激を与え合いながら、より新しいロック、より人の心を動かすロックを模索して居たのである。
The Beatles - A Day In The Life
The Beach Boys - Good Vibrations
1960年代は東京オリンピックを境として随分と発展をして行った時代だった。高度成長の時代だ。そして日本で学生運動が盛んに行われて居たのは60年代から70年代です。当時の日本は第二次世界大戦の傷跡が少しずつ癒えて来た状態だった。1960年、日本とアメリカ間で新たに日米安全保障条約を結んで居る。 1964年には佐藤栄作が内閣総理大臣に就任し、沖縄返還の実現や非核三原則の政策など数々の偉業を達成した。同年東京オリンピックが開催し、日本は高度経済成長の時代へと突入した。 60年代、70年代は終戦から時間が経って居るとは言え、日本社会は数々の問題を抱えて居た。それに対して国民の政府に対する不満が爆発しデモが各地で行われて居た。学生運動は途中から過激になり多くの死傷者を出す結果と成って仕舞ったが、日本社会や政府をいいものに変えて行きたいと、心から願い行動した学生たちの熱い思いは、日本中を巻き込み世間に大きな影響を与えた。時代のキーワードは「モーレツ」だった。
猛烈ダッシュ
そして、1970年。大学の頂点・東京大学の安田講堂に、火炎ビンなどで武装した学生らが立てこもった。大学の自治確立や医学部の民主化といった要求を掲げた一大学の闘争に始まった学園紛争は火炎ビンやゲバ棒で武装する過激派の介入を受け、次第に「暴力による革命」の根拠地となった。大義が薄れ、世論に見放される中、先鋭化した活動家は闘争の軸足を凄惨な暴力に移行。安田講堂の攻防は、学生運動が過激派の暴力に飲み込まれて行く分岐点の事件として歴史に残った。
23 - 全共闘 東大安田講堂事件 - 1969
そして全共闘の敗北。時代は「アンニュイ」へ移行して行った。当時、私は大学生の部屋で、ラジカセからロックを聴かせて貰い。テレビは父親が占領して居た為に、学生の14型テレビで、当時放映し出した「あしたのジョー」と「ルパン三世」を観させて貰って居ました。また60年代半ばから、新しい物を求める若者たちがこぞって向かったのは新宿だった。当時の新宿は若者たちにとって祝祭の街。人が集えば火花が散り、次々と新たな文化が生まれヒッピー、フーテン、アングラ、サイケなどアンダーグラウンドな若者文化と政治運動が交錯する新宿では、いつも何かが起こって居た。私は1970年当時、新宿へは良く「マカロニ・ウエスタン」を観に行って居た。1970年代当時観た、マカロニ・ウエスタンはその題名をいまだに覚えて居る。「ミスター・ノーボディ」「夕陽のギャングたち」「荒野の無頼漢」「大西部無頼列伝」「情無用のジャンゴ」そしてリバイバルの「夕陽のガンマン」と「続・夕陽のガンマン」だ。そして当時の学生が読んで居た月刊漫画誌「ガロ」と「COM」を彼等の部屋で読んだ事から好きに成り、自分でも買って読み始めた。「ガロ」は貸本マンガ家たちをこぞって起用。シュールで前衛的な作品や、リアルな画風のシリアスなストーリー漫画を次々と掲載。マンガは子供の娯楽と言うそれまでの価値観を覆し、一部の若者たちの熱狂的な人気を獲得したのです。
FISTFUL OF DYNAMITE - E Morricone/Edda Dell'Orso (Edit-wth-ending)
They Call Me Hallelujah 荒野の無頼漢
Indio Black (Adios Sabata) by Ryuki
Se sei vivo spara (1967) - Trailer [ www.peepingtom.it ]
My Name Is Nobody Trailer Mitch Lagge
そんな「ガロ」の看板作品が「カムイ伝」です。生みの親は貸本マンガ界最大のヒットメーカー白土三平さん。江戸時代を舞台に、身分社会の底辺に生まれた若者たちの生き様を壮大なスケールで描いた時代劇マンガだ。主人公は最も弱く虐げられた農民や差別された人々。差別や苦悩、社会の矛盾など当時重く暗いテーマを描いたマンガなど無かった。異端の漫画「カムイ伝」は一体なぜ熱狂的な支持を得られたのだろうか?この頃、戦後の団塊世代の若者たちが一斉に青年期を迎え様として居た。高度経済成長に伴って大学進学率も右肩上がり。1964年には15%を突破。若者たちの中には国や政治のあり方に疑問を抱き、政治運動などにのめり込んで行く者も少なく無かった。己の力で階級社会の底辺から抜け出し自由を追い求める忍者カムイと、知恵と努力で農民たちを束ね権力に立ち向かう正助の姿は、政治と闘争の季節を生きる若者たちの心を捉えたのだ。「ガロ」はやがて、発売と同時に売り切れる程の人気を博す様に成り、「カムイ伝」は全共闘世代のバイブルと言われる様に成った。



此の頃の日本は、未曾有の好景気を背景に戦後の貧しさから抜け出し、人々は物質的な豊かさを享受して居た。一方で、1968年10月の国際反戦デーには、学生運動の若者たちが新宿で大規模な抗議行動を起こした。大混乱の中、騒乱罪が適用され、学生と警察との衝突は激しさを増して行った。同じ年、「カムイ伝」もカムイの孤独な戦いから、正助と農民たちの団結と闘争のドラマへと傾いて行った。1969年年1月、東大安田講堂を占拠した学生と機動隊が衝突。2日間に渡る激しい攻防戦の末、東大安田講堂は陥落した。雪崩を打って崩壊して行く現実の学生運動に影響されたのか、物語も思わぬ方向へと突き進んで行った。農民たちはいったんは戦いに勝つものの、正助や一揆の首謀者たちは捕らえられ拷問によって次々と殺されて行き。正助だけは殺されなかったが、舌を抜かれしゃべることも出来ない有様だった。1971年7月、若者たちの政治と戦いの季節の終焉を予感させ「カムイ伝」第1部の連載が終了しました。その年の流行語は「気楽に行こうよ」カムイ伝が始まった60年代半ばとは、明らかに違う風が社会に吹き始めて居たのです。
70年代、私はラジオの「深夜放送」に夢中になりました。それは、此処でしか聞けない情報が満載の解放区でした。

科学万能を高々にうたう大阪万博で幕を開けた1970年代。しかし、そんな明るいムードとは裏腹な事件が続きました。3月には日本中を震撼させた赤軍派メンバーによるよど号ハイジャック事件、11月には作家の三島由紀夫が割腹自殺。この頃、高度経済成長の光と影が激しく交錯して居た。その光の代表がテレビ。所得の向上に伴い70年にはテレビの世帯普及率は90%を突破。ラジオはその煽りを受け、深刻なリスナー離れが進んで居ました。60年代末にラジオ局が打った逆襲の一手が、若いリスナーを狙った深夜の番組改革でした。スポンサーが殆んどつかない深夜番組は、低予算のためディスクジョッキーは局内のアナウンサーやディレクターが務め、彼らは金を使わず知恵を使ったのです。それまでの硬いアナウンサー口調とは異なる砕けた喋りが衝撃を与えたのです。まるで友達かの様に語り掛けて来るディスクジョッキーの声を、若者たちは食い入るように聞きました。深夜だからこそ、若者だけの話題や小さなブームメントもどんどん取り上げられました。そこで掛かる音楽はヒットソングばかりでなく、独自の価値観で面白い、新しいと感じるものでした。
70年代の深夜放送を代表するディスクジョッキーの一人である亀渕昭信さんは、深夜放送黄金期を迎える前夜、60年代末のある曲のヒットに深夜放送の未知の可能性を感じたと言います。それはザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来た酔っ払い」だった。テープを早回しした奇妙な歌は急遽シングルカットされ年間チャート2位の大ヒットと成った。やがて、深夜放送は若者が心を通わせ繋がる、大きな広場になって行った。70年に終結したナイジェリアのビアフラ戦争。ディスクジョッキーの亀渕昭信さんは、この戦争で生まれた100万人もの難民の支援策について話して居ると、わずか3日のうちに外務大臣あてに2000枚もの支援を訴えるハガキが届居たと言う。外務省はこの声にこたえ、国内の備蓄米5000トンを送る事を決めたのだった。1972年2月に起こったあさま山荘事件は、わずかに燻り続けて居た政治と闘争の時代の終わりを告げる象徴的な事件だった。折しも高度経済成長でサラリーマン人口が急増。良い大学、良い会社へが幸せへの近道と悟ったかの様な若者たちは「しらけ世代」と揶揄された。深夜放送は、何時しかそんな彼らのささやかな抵抗の場となり、曲のリクエストだけでなく身近な出来事や思いをつづって投稿。人気番組に届くハガキは週2万通にもおよび。そんな投稿ハガキから次々と名物コーナーが生まれた。ネットの無い70年代、深夜ラジオには若者たちが集い、昼間の大人の世界とは全く異なる空間を作り出して居たのです。

70年代初頭は暗いニュースが目立ちました。1971年のニクソンショックで1ドル360円時代が崩壊し、国内の物価が上昇。1973年にはオイルショック。庶民の暮らしは圧迫され閉塞感が蔓延して居た。そんな時代、音楽シーンではアイドルの歌謡曲やグループサウンズに加え、新たな潮流が生まれていました。それはフォークソング。さらに、時代の閉塞感を打ち破ろうと次々と新たな音楽的実験も生まれました。その一つが日本のロックです。ロックを日本に持ち込んだ先駆けの一人が内田裕也さん。ロックは英語で歌うものと言うのが内田裕也さんの主張であり通説でした。
松任谷由実 - あの日にかえりたい (Yumi Arai The Concert with old Friends)
Happy End - Kaze Wo Atsumete 風をあつめて"Gather the Wind" (Live 1985) All Together Now
吉田拓郎 - 結婚しようよ
内田裕也 - 朝日のあたる家(The House of the Rising Sun) NYWRF 40th
一方、そんな通説に対する革命を目論んだバンドが「はっぴいえんど」です。彼らは、ロックを日本語で歌い上げ大論争を巻き起こしたのだった。くしくも70年代は日本の製造業が躍進し、海外へと進出。メイドインジャパンの名声が広がる一方、物ばかり輸出して顔が見えないと批判もされ始めて居た。「はっぴいえんど」はそんな時代に日本語によるロックを創造。それは今の音楽シーンに繋がる扉を開く実験でした。メンバーの一人だった細野晴臣さんは、新たに「キャラメル・ママ」を結成。各々がミュージシャンでありながら音楽全体に気を配るプロデューサーでもあった。レコード会社に取り仕切られた、それまでの音楽作りから離れ、ミュージシャンが主導となるプロデュースを目指したのだ。そこに現れたのは荒井由美さん。デビュー前すでにシンガーソングライターとして自分のスタイルを確立して居た荒井由美さんですが、細野さんたちは、その魅力をさらに引き出すための音作りを徹底的に追求。次々に名曲が生まれたのだった。
1973年は、同棲するカップルの貧しい暮らしや純情を歌う「4畳半フォーク」の全盛期。処が、荒井由美さんは優雅で洗練されたメロディーにのせて、煌びやかな都会に生きる女性の情景を歌いました。ビブラードをきかせない変わった歌唱法も異色で、ぶっきらぼうで冷たいと言われた事もあったのだ。
しかし、時代は彼女に味方しました。万博後、落ち込んだ乗客を取り戻すため国鉄が全国展開したキャンペーンがディスカバージャパン。「私を再発見するために」と女性の個人旅行を勧めたこのキャンペーンは大ヒット。女性が主役のカルチャーが生まれるきっかけとも成った。そんな時代の音楽として荒井由美さんの新しい女性目線の歌ほどふさわしいものは無かったのです。そして彼女はニューミュージックの旗手と成ったのだった。
Led Zeppelin - Whole Lotta Love (Official Music Video)
Mountain - Nantucket Sleighride (To Owen Coffin).wmv
BLACK SABBATH - "Paranoid" (Official Video)
この頃になると私も中学生から高校生に成って居て。質流の安い3万幾らの、モジュラー・ステレオを買い込み。同じく質流のフォーク・ギターを買い込んで、ロックは「ブラック・サバス」「レッド・ツェッペリン」「マウンテン」また、フォークでは吉田拓郎。井上陽水。泉谷しげるなどを聴いて居た。この頃に成ると、フォークギターで「吉田拓郎」の曲やら「泉谷しげる」の曲などを弾いて居ました。エレキギターは当初は中々お金が無くて買えずに居て。新宿の楽器屋で良く、テレキャスターやらレスポール。それに買うならこのギターと目星を付けて居たES-335などを弾きに行って居ました。なぜESー335かと言うとこのギターは私が当時憧れて居た。ブルースギタリストの「BBキング」やら「オーティシュ・ラッシュ。」「バディ・ガイ。」それにブルース・ロックのギタリスト、「アルビン・リー」が弾いて居たからです。そして暫くしてエレキギターESー335を購入してバンド演奏を始め。そして、イギリスのブルース・ロックのブルース・ハーピスト、「ジョン・メイオール」で知ったブルース・ハープを1970年代に黒人のブルース・ハープのスタイルで吹いて居た、渋谷で百円コンサートで有名だった。「ウイーピング・ハープ・セノウ」こと、妹尾隆一郎さんのライブで、ブルースハープの奥深さを知り。彼に吹き方を教えて貰って、ブルースハープを吹く様に成りました。此処まで話して来ましたが。私が学生の頃、人生形成で影響を受けたのはこの様な時代でした。話は、まだ続きます....。

「私」の吹く、ブルース・ハーモニカソロ。
この後、1980年代に入りビデオデッキが登場して、レンタルビデオの時代に成り。映画館に行くよりもレンタルビデオで映画を観る時代がやって来ました。私はこの頃。ありとあらゆる映画をレンタルビデオで観ました。また、当時は日本で発売に成って居ない邦画は結構アメリカでは発売に成って居て、アメリカで発売されて居る日本映画のビデオを逆輸入して観て居ました。「黒澤明」「溝口健二」などは余り作品を観て居なかったので、輸入盤で知りました。そしてアニメの流行。ビデオデッキは本当に沢山の映画を私に観させてくれたのです。私は深夜に放送された「名画座」やら「午前2時のロードショー」などを録画して、劇場未公開のマカロニ・ウエスタンやら、映画館では観る事が出来なかったフィルム・ノワール。邦画の名作などを観ました。そして、マイナーレーベルから発売される貴重な映画のビデオを買い漁りました。1980年代は、映画館へは、『イメージフォーラム』。『新宿武蔵野館』。『ユーロ・スペース』などに足を運びました。






また、1980年代は「オタク」が話題に。私は1980年代から同人誌はちょくちょく購入して居ます。主に評論誌だが。今では日本のポップ・カルチャーの象徴です。「オタク」はコスプレ、マンガ、アニメ、ゲームとも 関連して居る一方、マイナスのイメージでは「ひきこもり」とも関連して言及される事が多い。さらに、オタク文化、オタク産業などと言った用語もすでに定着しており、日本のポップカルチャーを語る上で無視出来るものでは無くなった。オタク、マニア、コレクター、萌え、腐女子などの関連する 言葉もあるが此処ではまずオタクを取り上げたい。 「おたく」という言葉は2000年以降、『電車男』の大ヒットや言わゆる「萌え」ブームなどを通じて急速に一般化し、現在では日本のサブカルチャーを代表するキーワード の一つとして認知されるまでに成って居ます。 オタクについて定義しようとすれば、1983 年の『漫画ブリッコ』(6 月~8 月号)(セルフ出版/発売:日正堂)に掲載された中森明夫「『おたく』の研究街 には『おたく』がいっぱい」のコラムがよく取り上げられる。インターネットの「同人用語の基礎知識 おたく/オタク/Otaku」でも 次のように紹介されて居る。 「おたく」とは、アニメ や マンガ、ゲームなどに強い興味と関心と、 しばしば深い知識と造詣を持つ、独特な「趣味人」に対する俗称のひとつです。 アニメ ファンなどが人と話をする際、相手を名前でなく「おたくさぁ」などと呼んでいた事から広まったのだった。
1983年、ロリコンマンガ誌『漫画ブリッコ』(大塚英志編集長)6月~8月号のコラムで評論家の 中森明夫氏がそうした人々を「おたく」と名付け、活字化したのが 最初とされて居ます(「『おたく』研究街には 『おたく』がいっぱい」 がそのコラムのタイトル)。 では、オタクはいつ頃から現れたのであろうか。大澤真幸「オタクと言う謎」(2006)では次のように述べて居る。 「1983 年に「オタク」が発見されたと言う事は、オタクは、それより 少し前、つまり1970 年代のごく初頭を起源として居る、と考えるのが 妥当であろう。 オタクが教育界に登場したのは、岡田斗司夫が1996 年~1997 年に掛けて東京大学で「オタク文化論」の講義を担当した事に始まり、その後 『オタク学入門』(1996)を発表した。オタクの教育・研究分野への進出と言う事になろう。」岡田はこうした事からオタキングとして知られて居る。 幼女連続殺人事件の影響 「オタク」と言う言葉を取り上げる時、幼女連続殺人事件を無視する事は出来ないだろう。『おたくの本』(別冊宝島 104 号)(1989)にも「幼女殺人事件で突然大衆メディアに浮上した『おたく族』なる言葉」とある様に、この事件について触れておきたい。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(広域指定第 117 号事件)は 1988年8月から 1989 年 7 月にかけて宮崎勤 が引き起こした事件で、2008年6月に死刑が執行された。 逮捕後の家宅捜索では約 6000 本のビデオテープの存在が明らかになり、 その光景も報道番組で取り上げられた事は視聴者に鮮明な印象を与えた。 さらに、自らアニメ同人誌を発行、晴海のコミックマーケットに漫画を出品して居るなどの背景もあった。この事件によりオタクのイメージは根暗、ひきこもり等と言った極めてマイナスのイメージで捉えられる様に成った経緯がある。世間の人が注目して居なかった、あるいはごく限られた人達が知って居るものや情報を持って居るサブカルチャーに対する見方がこの時、大きく揺らいだと言って良いだろう。また、好事家として収集して居るものが 余りにも多いコレクターやマニアにも世間的に冷ややかな視線が向けられる様に成った。 なお、この事件後、おたく評論家・宅八郎は 1990年 2月におたく評論家としてデビューした事も触れておきたい。 オタクの定義 「オタク」の一般的な定義はどうであろうか。
松村明編『大辞林』、 西尾実他編『岩波国語辞典』には「御宅」の見出し語はあるが、いわゆる「オタク」の定義はない。では、『広辞苑』を見てみよう。 ④(多く片仮名で書く)特定の分野・物事にしか関心がなく、その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人。仲間内で相手を「御宅」と呼ぶ傾向に着目しての称。マイナス・イメージの定義である。この底流には「根暗」や1988-1989 年の 幼女殺人事件の宮崎勤のイメージがある事は否定出来ない。石森秀三「オタクが日本の観光を変える!」(2009)はオタク・アレルギーとして次の様に述べて居る。 「アレルギーの始まりは20年前の事だった。1989年7月23日に 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人として宮崎勤が現行犯逮捕された。宮崎は四人の幼女を惨殺して居たが、自宅の自室には大量のアニメや漫画やビデオが収集されて居た為に、マスメディアは宮崎の事を 「オタク」として大々的に取り上げた。宮崎のオタクの自室には膨大な量のビデオテープが収集されて居たが、そのうちホラーものや幼女虐待ものは数えるほどしか無かったにも関わらず、マスメディアは意図的に、宮崎をロリータ偏愛趣味の性的異常者として決めつけて「オタク・バッシング」を行った。」
さらに、西尾実他編『岩波国語辞典』には次の様な定義が掲載されて居る。 ③自分の狭い嗜好的趣味の世界に閉じこもり、世間とはつき合いたがらない(暗い感じの)者。「パソコン―」▷普通は仮名書き。1983年に中森明夫が「おたく」の研究で言い出し、90年代からはサブカルチャーとして積極性を帯びても使う。「私は紫式部オタクです」。 現代社会における「オタク」の定義は果たして『広辞苑』の定義が最もふさわしいのであろうか。『現代用語の基礎知識』には2か所で「オタク」 について定義している。まず、「くらしと経済」分野における定義である。 もともとは特定分野のみ強い興味と深い造詣をもつ社会性の低い者を指し、社会的非難の対象だった....。当初は鉄道オタクやアイドルオタクなど、さまざまな分野のマニアに対して使われて居たが、現代では主として強烈なアニメ・マンガファンに対して使われる....。
キャラクターに恋する「萌え」が生まれ、2次元との恋愛という新しい境地に達するオタクが増えて来た。 次に「マンガ文化」分野における定義である。 オタクとは1980年代前半から使われはじめた用語で、一般に、趣味に異常な執着を見せる個人や類型を指す。マンガやアニメなどの趣味に限って使われる事もあるが、趣味の種類によらず使われる事もある。『現代用語の基礎知識』では次の様な説明がある。 個人の趣味に没頭し、異常な執着を見せる人物やふるまいを指す。1980年代前半に生まれた言葉で元はマンガやアニメなど特定の趣味について使われたが、普通の過程で意味が拡大・変容し、現在では「マニア」と ほぼ同じくらい、さまざまな趣味について「○○オタク」と使われるこ事も、趣味に熱中して社会性を欠如させる例が目立つ事や、「ニート」 や「パラサイト・シングル」などほかの言葉と結び付き、ネガティブに使われる事も多い。他方欧米のマンガ・アニメブームや、オタク男性の純愛物語「電車男」のヒットなどの影響で、人格の個性のひとつとして許容されつつある様相も。 オタクの定義が難しいのは、インターネットの登場やメディアミックスと言う時代の中で、オタクが進化し変容して居るからと言っても良いだろう。
また 「承認されたい自己」として瀬沼文彰『キャラ論』(2007)では次の様に現代の若者について述べて居る。 イギリスの社会学者のアンソニー・ギデンズの意見を借りれば、社会の近代化が進むにつれて、血縁関係よりも、人々の自由意志によって選択出来る友人関係や恋愛関係が重視される事を述べて居ます。家族より友人が重視される社会では、友人と楽しまなければ、他者との繋がりが 実感できず孤独を強く感じて仕舞うのかも知れません。 この世代の特徴は、友人や恋人関係の様な仲間内だけに親密さを感じ、外部にあたる他者には関心を示さない傾向がある「仲間内だけに親密さを感じ」はオタクに共通する処が見て取れる。此処までの定義を見る限り、ネガティヴな意味合いが色濃く表れている。別の捉え方は無いのだろうか。若者文化論を扱う書籍では「オタク」をどの様に捉えて居るのだろうか。東浩紀『動物化するポストモダン』(2001)では次の様に定義されて居る。 コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、 フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャー に耽溺する人々の総称である。 本書はOtaku: Japan’s Database Animals (2009)として英訳されて居る。
本書の指摘でさらに注目すべきは、一連のサブカルチャーをオタク系文化 (otaku culture)と呼び、当時若者であたったものが成長し、現在では40代、50代の大人になって居ると言う点だ。社会的にも中心となる世代となって居る事は見逃せないと言う事だ。また、東浩紀編『日本的想像力の未来― クール・ジャパノロジーの可能性』(2010)もさらに「クール・ジャパン」「オタク」「カワイイ」を日本学、社会学、文化研究の側面から扱って居る事も指摘しておきたい。 古賀令子『「かわいい」の帝国』(2009)では注釈の中でオタクの定義を次の様に紹介して居る。 「オタク」とは、主にアニメやゲームやパーソナル・コンピュータなどサブカルチャーに没頭する人間を指す言葉で、中森明夫の「「おたく」の研究」(1983)で紹介され、一般化した。初期(1980年代)には、 独身の日本人男性に対して用いられる事が殆んどだったが、近年では、女性や既婚男性、外国人にも用いられる様に成り、ややカルト的 な趣味や学術的な趣味を持つ人に用いられる事が多い。近年では「オタク」の語が一般化しており、「オタク文化」はサブカルチャーとほぼ同義で用いられて、「オタク学」なる語も登場して居る。






音楽の方は、1980年代の初頭でバンド活動を病気で障害持ちに成った事から止む無く中止をして。未練が残らない様にギターとアンプは全て楽器屋に引き取って貰いました。ブルースハープは粗方壊れて仕舞って居たので、処分しました。そしてもう音楽は二度と演奏は終いと心に誓いました。私は、それから映画とアニメを観て過ごしました。しかし皮肉な事に時代はブルースがブームだったのです。そんな折、友人が俳優の原田芳雄さんの家に行こうと言い出しました。私は「あの有名な俳優でブルースシンガーの原田さんの家に行くのか?」と、驚きましたが。友人は下北沢に住んで居て、原田さんの家の近所に住んで居ました。その関係上。年末に毎年恒例の餅つき大会を原田邸でやって居て、一般の人も参加出来ると言う事でした。特に友人は原田さんとは音楽関係で親しくして貰って居た関係で、知られて居たのでした。そして私は友人と一緒に原田邸まで行きました。原田さんは、気前がいい人でした。私たちは確か男餅と女餅と言って、あと大人餅と子供餅もあったのかな、、当時は原田邸で近所の子供達も居たぐらい豪勢な餅つき大会でした。ミュージシャンやら俳優仲間。そして近所の人たちと大勢いで餅を突いて。着いた餅はすぐに大根おろし餅とあんころ餅にしてくれて。食べさして貰いました。友人が私を「こいつはブルースハーピストなんですよ」と紹介してくれて、原田さんは「そうか。じゃあ、お仲間だね、、芳雄と呼んでね」と言って握手をしてくれました。そして「頑張ってね」と一言最後に言いました。私はそれ以来、芳雄さんが兄貴です。彼が亡くなった時は本当に悲しかった。まだまだ、ブルースを歌って貰いたかった、映画も出て貰いたかった。

原田芳雄with喧太&桑名/横浜ホンキートンクブルース
そして1990年に成り、レーザーディスクで映画が観られる事に成り。私はビデオテープよりも安くて画像が高画質なレーザーディスク・プレイヤーを購入して。毎日映画三昧と成りました。当時は、親父の会社で働いては居ましたが。従兄弟は、私が抗精神薬を飲んで呂律が回らなく成ったり、動きが鈍いのを嘲笑い。私に「バカだからそうなのだろ、あう〜、あう〜か、ケッ!!低能バカ野郎が!!」と毎日嫌がらせをして居ました。私はそんな日々。唯一心から解放されて、しみじみ浸れるのは映画とアニメだったのです。そして、1998年頃に成ると、パソコンの普及に拍車が掛かり、パソコンを弟が購入してくれて、遂に私も使い始めたのでした。それで要約ネットでの生活が始まりました。初めはハローと言う、無料のホームページを立ち上げて居たのですが、それから暫くすると、blogが全盛に成り。まずblogに移行しました。そしてこのblogに移行しました。だからハローのホーム・ぺージ時代から数えるとほぼ20数年に成りますよ。その間。ブルースハーピストの妹尾さんが1950年代のシカゴ・サウンドが再現出来る、真空管ハーモニカ・アンプ。「ハーピスト」を設計開発して。私は楽器演奏はしないと思って居ましたが、若者から励まされた事で。
2000年当時から、また、ブルース・ハープは吹き始めた事もあり。そのアンプを購入したのでした。その後。妹尾さんとはメールで何回か話をして、励まされて、妹尾さんが個人で作った手作りのCDとDVDを数枚送ってくれて・・・。その後、妹尾さんも癌で亡くなり。そして、DVDレコーダーが発売に成り。ケーブルテレビでの映画番組を録画し出して。またDVDソフトを買い込み。それから、高画質のブルーレイ・レコーダーが発売に成り。現在に至って居ます。今は、テレビは4kの時代です。何せその上の8kと言う企画まで飛び出しました。私は壊れかけて居ますが、中古のラジカセとビデオデッキをまだ持って居ます。ビデオテープも46本ほどまだ所有して居ます。ただレーザーディスクはレーザーディスク・プレイヤー事。所有して居た460枚全て処分しました。今住んでいるアパートに置くスぺースが無かったからです。
Blue & Lonesome _Weeping Harp Senoh & Blues Busters_10


私の話は此処で終わります。以上。此処まで読んでくれて有難う御座いました。
〜〜懐かし映画館〜〜
映画「ジャンゴ・ザ・バスタード」
セルジオ・ガローネ監督1969年製作「ジャンゴ・ザ・バスタード(DJANGO IL BASTARDO)」
アンソニー・ステファン主演。
イーストウッドにパクられた!?「ジャンゴ・ザ・バスタード」
本作でアンソニー・ステファンが演じたジャンゴは、全身黒ずくめの神出鬼没なガンマンである。死んだと思われて居た男が復讐に現れた。そのガンマンは幽霊なのではないか……と言うプロットが似ている事から、クリント・イーストウッド主演の「荒野のストレンジャー(1972年)」、さらにそのセルフ・リメイクとも言われる「ペイルライダー(1985年)」の元ネタなのではないかと噂されて居る。アンソニー・ステファンと共同で原案・脚本も手掛けたセルジオ・ガローネ監督は、「主人公ジャンゴは超自然的な者として描いた」と述べて居る。

【ストーリー】
全身黒ずくめの男、ジャンゴ(アンソニー・ステファン)が町に現れ、地面に十字架を突き刺した。その墓標には「サム・ホーキンス11月13日没」と、今日の日付が書かれて居た。それを見たホーキンス(ヴィクトリアーノ・ガザーラ)は仲間を引き連れてジャンゴの前に立ちはだかるが、ジャンゴは目にも留まらぬ早撃ちでホーキンスらを撃破する。さらに、ジャンゴは「ロス・ハワード」の名を刻む十字架をオーダー。そしてある夜、ハワード(ジャン・ルイス)の前に現れたジャンゴは、命乞いをする彼を容赦なく撃ち殺すのだった…….。


題名:DJANGO IL BASTARDO
邦題:ジャンゴ・ザ・バスタード
監督:セルジオ・ガローネ
製作:ピノ・マルチーノ
脚本:セルジオ・ガローネ、アンソニー・ステファン(アントニオ・デ・テッフェ)
撮影:ジーノ・サンティーニ
音楽:ヴァシリ・コジュチャロフ(ヴァスコ)、エンシオ・ノンキューソ
出演:アンソニー・ステファン、ルチアーノ・ロッシー(ルー・カマンテ)、ラーダ・モシモフ、バオロ・コズリーノ、テオドーロ・コッラ、カルロ・ガッテイ、ジャン・ルイス、ヴィクトリアーノ・ガザーラ、トーマス・ルディ
1969年イタリア/シネスコサイズ・カラー95分


ジャンゴ・ザ・バスタード(DJANGO IL BASTARDO)
django il bastardo trailer
この映画は1980年代に「午後のロードショー」と言う。テレビの平日にやって居た映画劇場で初めて観たのを覚えて居る。それ以来テレビでは掛って居ない。一度放映されたきりでビデオにも成って居なかった。私は偶然観たので、慌てた。何しろビデオに録画するにも気づいた時には始まって居たからだ。以来、ずぅーと海賊版ビデオで探した。ドイツ版なら海賊ビデオがあると情報を掴んで、その筋に確かめたが、売っては居ずに、月日は流れた。2000年に成って、新宿のビデオ・マーケットにあると聞いて見に行ったが、ある事はあったが、矢張り海賊版のビデオでドイツのものだった。買おうとしたら、値段は1,000円と成って居る。「安いな?、」と思って注意書きを良く見たら、何とその海賊版ビデオを1泊2日、1,000円でレンタルして居るのだ。もちろん字幕は無い。だから私は借りて来てDVDに焼いたのだった。そのDVDはいまだに所有しては居る。10回は観た。この映画は、あのクリント・イーストウッド監督主演作の「荒野のストレンジャー」に話のプロットを真似されて居る事で有名な映画だ。復讐をしに来たガンマンは、復讐が終わると金には見向きをせずに、黙って消えるのだ。文字通り。消える。そう彼は幽霊だったのだ。殺された北軍のガンマンが、憎っくき悪党をあの世から血祭りに挙げに来たのだった。マカロニの発想は斬新で何時も、魘される映画が多い。私はイタリア語が分からない。まあ、会話の部分は余り多くはないので、何とか辻褄を合わせて観て来た。何と言っても、クールなガンマン役のアンソニー・ステファンが素晴らしい演技をして居る。私は今日、この映画をAmazonから購入した。要約買ったのだ。このblog記事を書く上で、試しに「まさかDVDで発売はされて居ないよなぁ、、」と思って探したらあったのです。最近発売されたらしい。DVDの値段は1,740円だった。「やった!!」と喜んだ。つい最近になって発売されたらしいのだ。これで解らなかった処が解るのです。
以上、今回は此処までです。読んでくれて有難う。。。またお逢いしましょう。。。















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